三国志モバイル人物伝

孫綜Sun Zong

ソンソウ

(?〜?)
魏郎中令

公孫淵の臣、郎中令。

郎中令は王国の属官であるが、このとき公孫淵はまだ燕王を称していない。また魏への上表文のなかで僭称した王号の属官を記すこともありえず、おそらく官名は誤って伝えられている。また「[ロウ]中令」とする本もあるが、幽州に[ロウ]中県はなく、いずれにせよ誤りである。

太和六年(二三二)三月、呉は将軍周賀・校尉裴潜を遼東に派遣して名馬を求めた。太守公孫淵は校尉宿舒・郎中令孫綜に貂の毛皮十枚と名馬を持たせて周賀に同行させ、呉と好誼を通じさせた。周賀は途中、魏の殄夷将軍田予に討たれたが、宿舒らは同年十月、呉に到着した《明帝紀・公孫度・孫権伝》。

呉帝孫権は公孫淵の家族について訊ね、宿舒らが「将軍さまは三人のご子息をお持ちですが、公孫脩さまは亡き弟御の家を継がれました」と答えると、彼らをねんごろに待遇し、君臣とともに楽しみを尽くした。翌年三月、孫権は太常張弥・執金吾許晏らを使者として兵士一万人とともに遼東に遣し、公孫淵を燕王に封じた《公孫度・孫権伝》。

のちに公孫淵がまた変心して魏に帰服したとき、宿舒らは呉の兵士が一万に満たず、七・八千人だと報告したので、公孫淵は張弥や呉の兵士を襲撃して殺した《公孫度伝》。

【参照】許晏 / 公孫淵 / 公孫脩 / 周賀 / 宿舒 / 孫権 / 張弥 / 田予 / 裴潜 / 燕 / 魏 / 呉 / 遼東郡 / 王 / 校尉 / 執金吾 / 将軍 / 太守 / 太常 / 殄夷将軍 / 郎中令 / 貂

むじんがPHP学習のためにα運用しているページです。一部表示されない文字があります。ありえないアドレスを入力するとエラーがでます。ブックマークやリンク先としてはおすすめできません。上のナビゲータからhtml版へ移動してください。