三国志モバイル人物伝

薛夏Xue Xia

セッカ

(?〜?)
魏秘書丞

字は宣声。天水の人《王朗伝》。

正しくは「漢陽の人」。漢陽郡が天水郡と改称されたのは建安年間の末期のこと《王朗伝集解》。

薛夏の母は、彼を身ごもったとき、ある人から「ご夫人はきっと賢明なお子さんを産み、帝王の尊敬を得られるだろう」と言われ、箱入りの着物を贈られる夢を見た。母はその夢を見た日付を記録しておいた。薛夏は博学絶倫、弱冠にして才覚弁舌が人並み外れていた《王朗伝集解》。

天水では古くから姜・閻・任・趙の四姓がいつも郡内で幅を利かせていたが、薛夏が貧しい家柄でありながら屈服しなかったため、四姓は結託し、(役人に手を回して)彼を逮捕しようとした。薛夏は東方へ逃れて京師に赴いた。太祖(曹操)はかねてより彼の名声を聞いていたので、たいそう手厚く待遇した《王朗伝》。

のちに四姓は薛夏を取りもどすべく、囚人を使者として潁川郡に手配書を送り、逮捕投獄させた。このとき太祖は冀州にいたのであるが、薛夏が本郡に身柄を拘束されたと聞き、手を打ちながら「薛夏に罪はない。漢陽の小僧どもが殺したがっているだけだ」と言い、潁川郡に命じて彼を出獄させ、召し寄せて軍謀掾に任命した《王朗伝》。

文帝(曹丕)もまた彼の才能に惚れ込み、黄初年間(二二〇〜二二七)、秘書丞に取り立てた。帝はいつも書伝について薛夏と議論し、そのまま日暮れを迎えないことはなく、彼を呼ぶときも呼び捨てにはせず、いつも「薛君」と呼んでいた。薛夏は大変に貧しく、帝は、彼の着物がすり切れているのを見て、身に着けていた上着を脱いで彼に賜った《王朗伝》。これはかつて母が夢見たのと同じ日であった《王朗伝集解》。

文帝は彼と一日中議論しても飽きず、応対は流れるごとく、言いよどむことはなかった。帝は「むかし公孫龍は弁舌巧みであるが嘘偽りが多いと批評されたが、いま子(あなた)の論説は聖人の言葉でなければ語らず、子游・子夏といった人たちさえ及ばない。もし仲尼(孔子)がこの魏にいらっしゃったら、子を入室(弟子入り)させていただろう」と言った。帝が直筆の書状を薛夏に送るとき、宛名は「入室生」とされていた《王朗伝集解》。

その後、征東将軍曹休が参内した。帝はちょうど薛夏の意見を訊いているところだったが、曹休の到着が報告されると、彼を引き入れて席に着かせた。帝は薛夏の方へ目をやりながら「この方は秘書丞である天水の薛宣声である。一緒に語り合うのがよかろう」と曹休に告げた。その待遇ぶりはこれほどのものであった。少しして登用するつもりであったが、折悪しく文帝は崩御した《王朗伝》。

太和年間(二二七〜二三三)、公務のため蘭台を訪問することになったが、蘭台では秘書が署であるのに対し、自分たちが台であることを自負し、「薛夏の訪問は受け入れられない。強行すれば逮捕者が出るだろう」と主張した。薛夏がこれに対して「蘭台を外台とすれば、秘書は内閣だ。台と閣は一体なのであるから、どうして往来できないことなどがあろう」と言うと、蘭台は言葉に詰まり、言い負かすことができなかった。以後、それが通例になった《王朗伝》。

それから数年後、病気のため亡くなった。遺体を天水に帰さぬようにと息子に遺言している《王朗伝》。

【参照】閻氏 / 姜氏 / 公孫龍 / 孔子 / 子夏 / 子游 / 任氏 / 曹休 / 曹操 / 曹丕 / 趙氏 / 潁川郡 / 漢陽郡天水郡) / 魏 / 冀州 / 許県(京師) / 軍謀掾 / 征東将軍 / 秘書丞 / 外台 / 御史台(蘭台) / 内閣

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