三国志モバイル人物伝

柳甫Liu Fu

リュウホ
(リウホ)

(?〜238)
燕御史大夫

公孫淵の臣、御史大夫。「柳浦」とも書かれる。

景初元年(二三七)、幽州刺史毋丘倹が詔勅を奉じて公孫淵を召しだし、軍隊を動員した。公孫淵は防備を固めるとともに、属官らに命じて弁解をさせた。その上表文で大司馬長史郭に続いて列名しているのが「参軍柳浦」である《公孫度伝》。

翌二年、司馬懿は襄平において公孫淵を攻め、雨がやんだので包囲陣を作り、土山を盛って地下道を掘り、矢倉を建てて雨のごとく矢を注ぎ、昼夜分かたず攻めたてた。そのころ、襄平城の西南から東北へ彗星が落ち、城内の人々は震えおののいた《晋書宣帝紀》。

公孫淵は恐怖を覚え、相国王建・御史大夫柳甫を使者として包囲解除を条件に降伏を願いでた。司馬懿はそれを許さず、王建らを捕縛して全て斬首した《晋書宣帝紀》。

司馬懿は公孫淵に檄文を回して言った。「むかし楚と鄭は対等の列国であったが、鄭伯は肌脱ぎになり羊をつれて楚を出迎えた。わしは君主に仕える身であり上公の地位にある。それなのに王建どもは、わしに包囲を解除して退けなどと言いおった。二人は耄碌しており、あなたの意図をうまく伝えられなかったのであろう。すでに斬首した。若くて決断力のある者を寄こしたまえ。」そこで公孫淵は改めて侍中衛演を使者に立てた《晋書宣帝紀》。

【参照】衛演 / 王建 / 郭 / 毋丘倹 / 公孫淵 / 司馬懿 / 鄭伯 / 襄平県 / 楚 / 鄭 / 幽州 / 御史大夫 / 参軍 / 刺史 / 相国 / 大司馬 / 長史 / 彗星

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