三国志モバイル人物伝

谷朗Gu Lang

コクロウ
(コクラウ)

(219〜272)
呉九真太守

字は義先。桂陽郡耒陽の人《谷朗碑》。

谷朗は三歳で母を失い、十一歳で父を失い、弟と二人で暮らしていた。のちに養親になってくれる人が現れた。いつもにこやかな笑顔を保ち、養親にはうやうやしく、弟にはあたたかく接し、曾参・閔子騫のような行いがあった。道義を行って正道を思い、徳行をしっかりと備えていた《谷朗碑》。

弱冠にして郡に仕えて要職を歴任、陽安県長を兼務した。それから朝廷に招かれて郎中を拝命、尚書令史や郡の中正を経て、長沙の劉陽の県令に昇進した。恩恵を施して人々を教育し、仁慈を垂れて領内を教化した。任期が残っているうちに、中央に徴し返されて立忠都尉・尚書郎を拝命、同僚のなかでも一番の名声だった《谷朗碑》。

部広州(?)・督軍校尉に昇進すると、襟を正して部下を率先し、権力者をも恐れなかった。清らかな流れは汚濁を一掃し、万里四方が威信に服した。治績を挙げて退職したところ、また五官郎中に任じられ、大中正に昇進した。人事選抜にあたり公平厳正であったので、人倫はゆったりと広がっていった《谷朗碑》。

当時、交州は城邑を奪ったり国家に叛いたりしており、戦闘は留まるところを知らなかった。帝(孫晧?)が鎮圧するすべを担当官らに諮問したところ、みなが、谷朗が南方に勤務していたとき威信恩恵が明らかであったことを言上したので、九真太守に昇進させた《谷朗碑》。

交州が叛乱して呉の支配を去ったのは孫休の永安六年(二六三)五月、交州が回復されたのが孫晧の建衡三年(二七一)四月のことである。谷朗の太守就任は建衡三年だろうか。

谷朗は生まれながらにして徳義は明らか、至るところで功績を挙げて皇室を光り輝かせた。しかし鳳凰元年(二七二)四月乙未、惜しくも病気のため五十四歳で卒去した。君子たちに嘆き悲しまぬ者はなく、彼のために石碑を立てて顕彰したのであった《谷朗碑》。

【参照】曾参 / 孫晧(帝) / 閔子騫 / 九真郡 / 桂陽郡 / 交州 / 長沙郡 / 陽安県 / 耒陽県 / 劉陽県 / 県長 / 県令 / 五官郎中 / 尚書令史 / 尚書郎 / 太守 / 大中正 / 中正 / 督軍校尉 / 部広州 / 立忠都尉 / 郎中

【鏈接】《京大石刻拓本資料》九真太守谷朗碑 / 《逸聞三国志》逍遥雑記 / 《耒陽之窗》耒陽名人

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