三国志モバイル人物伝

桓典Huan Dian

カンテン
(クワンテン)

(?〜201)
漢光禄勲・関内侯

字は公雅。桓焉の孫、桓栄の玄孫にあたる。沛国龍亢の人《後漢書桓栄伝》。

桓典は十二歳のとき父母を失い、実母のように叔母に仕えた。潁川において『尚書』の講義を開き、門徒は数百人に上った。清廉節操を心がけ、他人から物を受けとることはなく、門生故吏が挨拶の品を贈ったときも、いちども受けとっていない《後漢書桓栄伝》。

孝廉に推挙されて郎となった。ほどなく沛相の王吉が罪科に問われて処刑され、知人や親戚でさえ引きとりに行く者がなかったが、桓典だけは官職を捨てて遺体を引きとり、故郷に埋葬してやって三年間の喪に服し、土砂を背負って墳墓を作り、祠堂を建立し、祭礼を尽くしてから帰った《後漢書桓栄伝》。

司徒袁隗の役所に招かれて高第に推挙され、侍御史を拝命した。そのころは宦官どもが権力を握っていたが、桓典は政務にあたって全く遠慮することがなかった。いつも蘆毛の馬を乗りまわし、京師の人々に「行っては止まれ、行っては止まれ、蘆毛の御史どのを避けよ」と畏れられた《後漢書桓栄伝》。

黄巾賊が[ケイ]陽で蜂起すると、桓典は勅命をこうむって軍勢を都督した。賊軍を打ちやぶって帰還したが、宦官に楯突いたため恩賞は下されなかった。御史に七年間も在職したが、昇進の沙汰はなく、のちに出向して郎となった《後漢書桓栄伝》。

在職を十年とする史書もある《後漢書桓栄伝注》。

霊帝が崩御すると、大将軍何進が政権を握った。桓典は何進とともに(宦官誅殺の)謀議をこらし、平津都尉、鉤盾令をへて羽林中郎将に昇進した。献帝が即位すると、三公たちが「桓典はかつて何進とともに宦官誅殺を計画いたし、功績は立てられなかったものの、忠義は顕著でございます」と上奏したので、詔勅により家族の一人が郎に取りたてられ、二十万銭が下賜された《後漢書桓栄伝》。

(献帝の)西上に随行して関中に入り、御史中丞を拝命、関内侯の爵位を賜った。御車が許に行幸したとき、光禄勲に昇進する《後漢書桓栄伝》。曹操は司空になったとき自分の後任として趙岐を推挙したが、桓典は少府孔融とともにこれを支持し、そのおかげで趙岐は太常に任命された《後漢書趙岐伝》。

建安六年(二〇一)、在職のまま卒去した《後漢書桓栄伝》。

【参照】袁隗 / 王吉 / 何進 / 桓栄 / 桓焉 / 孔融 / 曹操 / 趙岐 / 劉協(献帝) / 劉宏(霊帝) / 潁川郡 / 関中 / 許県 / [ケイ]陽県 / 沛国 / [各隹]陽県(京師) / 龍亢県 / 羽林中郎将 / 関内侯 / 御史中丞 / 鉤盾令 / 高第 / 孝廉 / 光禄勲 / 三公 / 侍御史 / 司空 / 司徒 / 相 / 少府 / 大将軍 / 太常 / 督軍 / 平津都尉 / 郎 / 尚書 / 宦官 / 黄巾 / 府(役所) / 門生故吏

むじんがPHP学習のためにα運用しているページです。一部表示されない文字があります。ありえないアドレスを入力するとエラーがでます。ブックマークやリンク先としてはおすすめできません。上のナビゲータからhtml版へ移動してください。