カンセイ |
(?〜199) |
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字は士起。太原の人。公孫[王贊]の長史《公孫[王贊]伝》。 根っからの酷吏であり、媚びへつらうばかりで長期的な計画など持っていなかった。しかし公孫[王贊]には格別に信頼、寵愛されていた《公孫[王贊]伝》。 建安三年(一九八)、袁紹が総攻撃をかけてくると、公孫[王贊]は黒山賊張燕に救援を求めるとともに、みずから城外の包囲を突破、西山を迂回して袁紹軍の背後を衝こうとした。関靖は「いま将軍の将兵のうち脱走を企てぬ者はおりません。それでも彼らが防戦し続けるのは父や子を思い、将軍を頼りにしているからなのです。このまま堅守していれば袁紹の方から撤退するかも知れないのに、もし彼らを置き去りにして突出なさるならば、城を抑える者がいなくなり、易京を危険に陥れてしまいますぞ」と諫め、公孫[王贊]の出撃をやめさせた《公孫[王贊]伝・後漢書同伝》。 胡三省は、公孫[王贊]の計略は、下[丕β]における陳宮の計略と同じであるが、いずれも用いられなかったため敗北したのだと指摘している《後漢書公孫[王贊]伝集解》。 翌四年、公孫[王贊]は敗北して易京は陥落した。関靖は恨み歎き、「あのとき将軍の出撃を止めなければ失敗することはなかっただろうに。君子たるもの、他人を危険に陥れてしまったなら、その困難を分かち合うものだと聞いている。一人だけ生き延びるわけにはいかぬ!」と言い、馬に鞭打って袁紹軍に突っ込んで死んだ《後漢書公孫[王贊]伝》。 |
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