三国志モバイル人物伝

夏侯儒Xiahou Ru

カコウジュ

(?〜?)
魏太僕

字は俊林。夏侯尚の従弟である。はじめ驍騎将軍・[焉β]陵侯曹彰の司馬であった《張既伝》。

黄初二年(二二一)、涼州盧水胡の伊健妓妾・治元多らが反逆し、黄河西岸地域は大混乱に陥った。これを憂慮した文帝(曹丕)は十一月、鎮西将軍曹真を打ち立たせるとともに、涼州刺史を張既に代え、護軍夏侯儒・将軍費曜らに後詰めさせた《文帝紀・張既伝》。張既は[亶鳥]陰を経由すると見せかけて且次から進軍し、武威を占拠した。遅れて費曜が到着、ともに賊軍を大破し、万単位の斬首捕虜を出す大勝利を収めたが、夏侯儒らは行軍が遅れて参戦できなかった《張既伝》。

後文に夏侯霸が後任の征蜀護軍になったとあり、ここで護軍と言っているのは征蜀護軍のことだろう。

酒泉の蘇衡が反逆して羌族の隣載および丁令胡一万騎余りとともに隣県を攻撃した。張既は夏侯儒とともにこれを撃破、蘇衡・隣載らはみな降服した。そこで張既は夏侯儒ともに左城を修築したいと上疏、城壁や烽火台、食料庫を築いて胡族に備えたので、西羌族は恐懼し、部落の者二万人を連れて帰服した《張既伝》

正始年間(二四〇〜二四九)、夏侯儒に代わって夏侯霸が征蜀護軍に就任《夏侯淵伝》、夏侯儒は征南将軍となり、荊・予二州を都督することになった《張既伝》。

同二年四月《孫権伝》、呉将朱然・孫倫ら都合五万人が樊城を包囲し《斉王紀》、城将乙修らが救援を要請したとき、夏侯儒は[登β]塞まで進軍したものの、軍勢が少なかったためそれ以上進むことができなかった。そこで太鼓を打ち笛を吹き、道案内(?)を設けるだけで、朱然軍から六・七里まで来たところで引き返し、その様子を乙修らにも遠くから眺めさせた。それを何度も何度もくり返して一ヶ月余りが経ち、太傅(司馬懿)が到着してから一緒に進軍し、朱然らを敗走させた《張既伝》。

当時の人々は夏侯儒を臆病だと言う者もあり、また寡兵でもって大軍を惑わす術を心得ており、援護の気勢を挙げる道理に適っていると評価する者もあった。夏侯儒はそれでもこの一件のため召し返され、太僕に異動された《張既伝》。

夏侯儒の用兵は、関羽が樊城を包囲した際に徐晃・趙儼の採った戦術と同じである。臆病との評は失当と思われる。

【参照】伊健妓妾 / 乙修 / 夏侯尚 / 夏侯霸 / 司馬懿 / 朱然 / 蘇衡 / 曹彰 / 曹真 / 曹丕 / 孫倫 / 治元多 / 張既 / 費曜 / 隣載 / [焉β]陵県 / 荊州 / 呉 / 黄河 / 左城 / 酒泉郡 / [ショ]次県(且次県) / [亶鳥]陰県 / [登β]塞 / 樊城 / 武威郡 / 予州 / 涼州 / 盧水 / 驍騎将軍 / 侯 / 護軍 / 刺史 / 司馬 / 将軍 / 征蜀護軍 / 征南将軍 / 太傅 / 太僕 / 鎮西将軍 / 都督 / 西羌 / 丁令胡 / 導従(道案内?) / 盧水胡

むじんがPHP学習のためにα運用しているページです。一部表示されない文字があります。ありえないアドレスを入力するとエラーがでます。ブックマークやリンク先としてはおすすめできません。上のナビゲータからhtml版へ移動してください。