三国志モバイル人物伝

賈洪Jia Hong

カコウ

(?〜?)
魏白馬相

字は叔業。京兆新豊の人《王朗伝》。『魏略』では「儒宗伝」に編入されている《王朗伝》。

実家は貧しかったが、学問を愛好して才能があり、『春秋左氏伝』にはとりわけ詳しかった。建安年間(一九六〜二二〇)の初期、本郡に出仕して計掾に推挙され、州からのお召しに応じた。このとき州内には参軍事などの州吏が百人余りいたが、才能・学識が最高水準であったのは賈洪と厳苞だけであった。人々は彼らを称えて「州内きらきら賈叔業、弁論ふつふつ厳文通」と語った《王朗伝・同集解》。賈洪は県令を三たび兼務し、どの任地でも廏舎を開放して(学校とし)、彼自身が学生たちの教授にあたった《王朗伝》。

のちに馬超が反逆して賈洪を拘束し、華陰まで連れて行って宣伝文を作らせた。賈洪は作らざるを得なかった。司徒鍾[ヨウ]は東方にいたのだが、その宣伝文を見ると「これは賈洪が作ったものだ」と言った。馬超が敗走したのち、太祖(曹操)は賈洪を召しよせて軍謀掾に任じはしたが、かつて馬超のために宣伝文を作ったということで、すぐに叙任を行わず、ずっと後になってようやく陰泉(陽泉?)の県長にした《王朗伝》。

延康年間(二二〇)、白馬国の相へと転任した。言葉遊びがうまかった。白馬王の曹彪もまた文学を愛好したので、つねづね師として尊敬され、三卿を上回る待遇を受けた。数年後、病のため五十歳余りで亡くなった。彼の官位が二千石に及ばなかったことを人々は残念に思った《王朗伝》。

延康年間は曹操の死後、まだ曹丕が受禅していない時期である。よって賈洪が赴任したとき、この白馬王は劉姓だったはずだ。『集解』にも同様の指摘がある。曹彪が白馬に転封されたのは黄初七年(二二六)のこと。

【参照】厳苞 / 鍾[ヨウ] / 曹操 / 曹彪 / 馬超 / 華陰県 / 京兆尹 / 新豊県 / 白馬県(白馬国) / 陽泉県(陰泉県) / 王 / 軍謀掾 / 計掾 / 県長 / 県令 / 参軍事 / 三卿 / 司徒 / 相 / 魏略 / 春秋左氏伝 / 二千石

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