三国志モバイル人物伝

周処Zhou Chu

シュウショ
(シウシヨ)

(236〜297)
晋平西将軍・清流亭孝侯

字は子隠。義興郡陽羨の人。周魴の子、周・周札の父。

周処は若くして父を失ったが、二十歳前で人並み外れた膂力の持ち主となり、乗馬狩猟を愛し、こまごました作法を守ろうとせず、気分のままにふるまったため、州の人々に嫌われていた。周処は自分が嫌われていることを知り、かっとなって行いを改めようと決意した。

そこで長老に問いかけた。「お歳を召して苦しいこと、楽しくないことがございますか?」長老がため息を吐いて言った。「三害がまだ除去されておらぬに楽しむことなどできぬわ。」「どういうことですか?」「南山に額の白い猛獣、長橋の下に大蛇がおって、子(あなた)と合わせて三害じゃ。」「ならば吾(わたし)が退治してやりましょう。」「子があれを退治してくれれば郡全体にとっても大きな喜び、単に害悪を取り除いただけではないだろうな。」

そこで周処は山へ入って猛獣を射殺し、それから川に潜って大蛇を殴打した。大蛇は浮いたり沈んだりしながら数十里も流れ、周処もそれと組み合ったまま三日三夜が経過した。人々は(周処が)死んだと思い込み、みなで祝賀しあった。周処は大蛇を殺して帰ってきたが、郷里の人々が喜んでいるのを聞き、人々がいかにひどく自分を迷惑がっていたかをようやく思い知った。

そこで呉郡に入って陸兄弟を訪ねた。陸機は不在であったが陸雲に会うことができ、細かく事情を告げて「自分を改めたいとは思っても、年ももうこの通りですし、取り返しが付かないのではと心配なのです」と言うと、陸雲は「古人は朝聞いて夕改めることを貴んだ。君の前途はまだまだ有望だ。それに志が叶わないことを心配すべきであって、どうして名声を挙げられないことを心配するのかね!」と言った。周処はそれから自分を激励して学問に打ち込むようになった。

陸雲らが成人したとき周処はすでに呉の高官になっている。この記述は年代矛盾であり信頼できない。

文章には思想が盛り込まれ、志は義烈を旨とし、言葉には必ず真心を込めて私心を押さえ込んだ。数年後、州の役所から招聘されるようになり、呉に仕えて東観左丞となり、孫晧時代の末期、無難督に任じられた。

呉が平定されたとき、王渾が建業の宮殿に上がって酒宴を催した。酒がまわると王渾は呉の人々に「諸君は亡国の生き残りだ、悲しまずにおれようか?」と言った。周処が「漢末の分裂によって三国が鼎立し、さきに魏が亡んで、のちに呉が亡びました。亡国の悲しみは我ら一人だけではございませんから!」と答えると、王渾は恥ずかしげな様子を見せた。

洛陽に入朝し、次第に昇進して新平太守となり、西戎北狄を慰撫したので叛逆した羌族たちも帰服し、雍州の人々は彼を誉めたたえた。広漢太守へ転任すると、郡では多くの訴訟が滞っており、中には三十年経っても決着がつかないものさえあったが、周処はその曲直を吟味して一日で結審した。母が年老いていたので退職して帰郷した。

ほどなく楚内史に叙任され、まだ着任しないうちに中央に徴されて散騎常侍に任じられた。周処は「古人は大官を辞しても小官を辞さなかったものだ」と言い、まず楚へ向かった。郡では混乱のあとを受けて、古株と新入りとがごちゃまぜに住み、風俗が統一されていなかった。周処は道義による教育を手厚くし、また引き取りのない死骸や野ざらしの白骨を回収して埋葬し、それからやっと中央へのお徴しに応じた。遠くの人も近くの人もそれを歎息して称えた。

お側近くで仕えていたとき、たびたび正論で諫めた。御史中丞に昇進して、寵臣・外戚に対しても遠慮なく糾弾した。梁王司馬[月彡]が法律に違反したとき、周処は厳しく調査した。朝臣たちは周処の剛直ぶりを憎み、[テイ]族の斉万年が反乱を起こしたとき、みなで「周処どのは呉の名将のご令息でありまして、忠烈剛毅でございます」と言った。そのため夏侯駿配下として征西を命じられた。

伏波将軍孫秀は、彼が死に追いやられていることを知り、「貴卿には年老いた母がいるから、それを理由にすれば辞退できるのだぞ」と告げたが、周処は「忠義と孝行は両立できるものでしょうか!親元を離れて主君に仕えたからには、父母とて我が子を思い通りにできましょうか?今日こそは我(わたし)の死ぬべきときです」と答えた。斉万年はそのことを聞くと、「むかし周府君が新平を治めていたとき、我は彼の人となりを知った。文武の才能を兼ねそなえておるゆえ、もし独断行動で到来したならば対抗することはできぬ。もし他人の制御を受けておるならば生け捕りになるまでだ」と言った。

しばらくして梁王司馬[月彡]が征西大将軍・都督関中諸軍事に任じられた。周処は司馬[月彡]が(自分に対して)不満を抱いていることを知り、きっと自分を陥れようとするだろうが、こちらでは人臣として忠節を尽くすだけで、決して遠慮することはないと考え、生きて帰ることはできまいと覚悟のうえ、悲壮な決意で征西の途に就いた。

中書令陳準は司馬[月彡]が宿怨を晴らそうとしていることを知り、朝廷で「夏侯駿と梁王はいずれも貴人外戚でありまして統率の才能はございませんから、進んでも名誉を求めず、退いても罪科を恐れますまい。周処は呉の人間でありますゆえ、忠勇剛毅とはいえ怨恨を被って支援はなく、身を滅ぼすことさえ決意しておるようでございます。孟観に詔勅を下し、精兵一万を率いて周処の先鋒をさせれば、必ずや賊徒を滅ぼせましょう。さもなくば司馬[月彡]は周処を先鋒といたしましょうから、敗北すること必定です」と言上した。しかし朝廷は聞き入れなかった。

このとき賊軍七万人は梁山に駐屯しており、夏侯駿は周処に向かって五千人を率いて攻撃せよと無理強いした。周処は「軍勢に後詰めがなければ結局は敗北することになりましょう。身どもは死を覚悟しておりますが国家に恥をかかせることになりますぞ」と言ったが、司馬[月彡]もまた重ねて周処に進撃を命じ、それから振威将軍盧播・雍州刺史解系とともに六陌の斉万年を攻撃させた。周処の兵士はまだ食事さえ取っていなかったが、司馬[月彡]はとっとと進めと督促し、そのくせ後詰めは出さなかった。

周処は敗北を確信して詩賦を作った。「世事を避けて久しく、馬に鞭打って西戎を見る。菜と豆とうまい飯、それを思えば死ぬことも恐くない。」吟じ終わると戦いを始め、明け方から日暮れまでに首級一万を挙げたが、弦は切れて矢は尽き、盧播も解系も助けにこなかった。

左右の者が退却なさいませと勧めたが、周処は剣を握って「今こそ節義を表して天命を授かる日だ、どうして退却などできよう!古代の名将は命令を授かったとき、凶門を彫ってから出陣した。それは前進はしても後退はしないということだ。いま諸軍は信頼関係を失っており、必然的に失敗するだろう。我は大臣として国家に身を捧げる。それもまた結構なことではないか!」と言い、ついに奮戦のすえ戦死した。

『晋書』恵帝紀に「元康六年十一丙子、安西将軍夏侯駿・建威将軍周処らに斉万年を討たせた。七年春正月癸丑、周処と斉万年が六陌において戦い、官軍が敗北して周処が死んだ」とある。陸機の『周処碑』によると享年六十二歳。

帝は平西将軍を追贈し、銭百万、埋葬地一頃、京都に邸宅用の土地五十畝を下賜し、さらに王家に近い場所に田地五頃を下賜した。また詔勅を下して「周処の母は年老いておるうえ遠国の人である。朕はいつも不憫に思うておった。そこで死ぬまで医薬と酒・米を支給することとする」と述べた。潘岳や西戎校尉閻[糸贊]が勅命によって作成した詩には、周処の忠節を讃える一節があった。司馬睿が晋王になったとき、太常賀循の提議により孝侯と諡された。

周処の著作には『黙語』三十篇と『風土記』があり、また『呉書』を編集していた。

【参照】閻[糸贊] / 王渾 / 夏侯駿 / 賀循 / 解系 / 司馬睿 / 司馬衷(帝) / 司馬[月彡] / 周札 / 周 / 周魴 / 斉万年 / 孫晧 / 孫秀 / 陳準 / 潘岳 / 孟観 / 陸雲 / 陸機 / 盧播 / 漢 / 関中 / 魏 / 義興郡 / 建業県 / 呉 / 広漢郡 / 呉郡 / 晋 / 新平郡 / 楚郡 / 雍州 / 陽羨県 / 洛陽県 / 六陌 / 梁国 / 梁山 / 王 / 御史中丞 / 孝侯 / 散騎常侍 / 刺史 / 振威将軍 / 西戎校尉 / 征西大将軍 / 内史 / 太守 / 太常 / 中書令 / 東観左丞 / 都督 / 伏波将軍 / 無難督 / 平西将軍 / 諡 / 羌族 / 凶門 / [テイ]族

【鏈接】《東邪的桃花島》陸平原集(周処碑・doc形式)

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