三国志モバイル人物伝

向雄Xiang Xiong

ショウユウ
(シヤウユウ)

(?〜282?)
晋河南尹・関内侯

字は茂伯。河内郡山陽の人。父の向韶は彭城太守である。

向雄は最初、郡に仕えて主簿として太守王経を補佐していた。のちに王経が死んだとき、向雄は哭泣して哀しみを極め、市井の人々もみな悲しい気持ちになった。のちの太守劉毅は罪なくして向雄を笞打ち、後任の太守呉奮もまた些細なことで向雄を牢獄に押し込めたが、司隷校尉の鍾会が獄中から向雄を召し寄せて都官従事とした。

鍾会が死んでも埋葬してやる者がなく、向雄が遺体を引き取って埋葬した。文帝が向雄を呼んで「かつて王経が死んだとき、貴卿が東市で哭泣するのを私は咎めなかった。いま鍾会はみずからの意志で叛逆したのに、(貴卿は)またもや埋葬してしまった。こんなことを大目に見ていたら王法はどうなるのか!」と叱りつけると、向雄は答えた。「かつて先王さまは仁慈を朽ちた骨にまで及ぼされました。あらかじめ功罪を知ってから埋葬することができましょうか?いま大王は誅伐を加えて法律は全うされ、向雄は埋葬を行って道義を貫きました。殿下は枯骨を憎んで野原に捨てておいでですが、これから仁者賢人を招くところなのに残念なことではありますまいか!」文帝はしごく満悦し、宴席で談笑してから帰した。

次第に昇進して黄門侍郎となった。このとき呉奮・劉毅はともに侍中であり、同じ区画で暮らすことになった。向雄が一言も口を利かなかったので、それを聞いた武帝が「君臣の交わりを回復するように」と命じた。向雄はやむなく劉毅のもとを訪ね、二度おじぎをしてから「さきほど勅命を被りましたが君臣の関係は終わっているのです。どうにもなりませんね」と言い、さっさと立ち去った。帝が激怒して向雄をなじると、向雄は「古代の君子は推挙するにも批判するにも礼儀を用いたものですが、現代ではまるで膝枕を与えたり谷川に突き落とすようなことをいたします。劉河内どのは臣に対して激情を起こさなかったのですから、それだけでも立派なことです。どうして君臣の交わりを回復する必要がありましょう」と答え、帝を納得させた。

泰始年間(二六五〜二七五)、次第に昇進して秦州刺史となり、赤幢・曲蓋・鼓吹を与えられ、二十万銭を賜った。咸寧年間(二七五〜二八〇)初期、入朝して御史中丞となり、侍中に昇進、さらに征虜将軍へ出向した。

太康年間(二八〇〜二九〇)初期、河南尹となり関内侯の爵位を賜った。斉王の司馬攸が領国へ帰されるとき、向雄は「陛下はたくさんのご令息ご賢弟をお持ちですが、徳望ある者は少のうございます。斉王さまは京邑に住まわれて実にふかく国益をもたらされました。ご配慮をお忘れなきよう」と諫言したが、帝は聞き入れなかった。向雄は頑固に意見して叡慮に逆らい、立ち上がってすたすたと退出し、とうとう怒りを募らせて死んだ。

【参照】王経 / 呉奮 / 司馬懿(先王) / 司馬炎(武帝) / 司馬昭(文帝) / 司馬攸 / 向韶 / 鍾会 / 劉毅 / 河内郡 / 山陽邑 / 秦州 / 斉国 / 彭城国(彭城郡) / 洛陽県(京邑) / 王 / 河南尹 / 関内侯 / 御史中丞 / 黄門侍郎 / 刺史 / 侍中 / 主簿 / 司隷校尉 / 征虜将軍 / 太守 / 都官従事 / 曲蓋 / 鼓吹 / 赤幢 / 東市

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