三国志モバイル人物伝

韓韶Han Shao

カンショウ
(カンセウ)

(?〜?)
漢[エイ]長

字は仲黄。潁川郡舞陽の人。韓融の父。「韓攸」とも書く《集解》。

若くして郡に出仕し、司徒の府(役所)に招かれた。当時、泰山の賊徒公孫挙が称号を偽っており、何年ものあいだ太守や県令は彼を破ることができず、その多くが(功績がないことによって)処罰を受けていた。尚書(人事担当官)は三公の府の掾のうち混乱を収める能力のある者を選抜しており、そこで韓韶も[エイ]の県長になったのである。賊徒どもは彼が賢明であると聞いて、[エイ]県には入るまいぞとお互いに戒めあった。

近隣諸県の多くは盗賊の被害を受けて、耕地や桑畑は廃棄されていた。その地の住民たちは[エイ]の県境に入って衣食を求めたが、その人数は非常に大勢であった。韓韶は彼らの飢え苦しみを哀れに思い、そこで米倉を開放して備蓄米を彼らに恵んでやり、一万戸余りが恩恵を被った。食糧担当官は争うように「いけません」と言うと、韓韶は言った。「困っている人々の命を永らえさせる。それで処罰を受けることになったとしても、笑って地下に赴くまでさ」。

泰山太守は日ごろ韓韶の名声徳望を聞いていたので、とうとう韓韶が処罰を受けることはなかった。同郡の荀淑・鍾皓・陳寔もまた県長を務めて徳政を布いていたので、当時の人々は韓韶とともに「潁川の四長」と呼んだ《集解》。韓韶は在官のまま病卒した。同郡の李膺・陳寔・杜密・荀淑らは彼のために碑を立てた。

【参照】韓融 / 公孫挙 / 荀淑 / 鍾皓 / 陳寔 / 杜密 / 李膺 / [エイ]県 / 潁川郡 / 舞陽県 / 掾 / 県長 / 県令 / 三公 / 司徒 / 尚書 / 太守 / 潁川四長 / 府

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