三国志モバイル人物伝

蔡[王炎]Cai Yan

サイエン

(?〜?)
董祀妻

字は文姫、または昭姫。陳留圉の人。蔡[ヨウ]の女《後漢書列女伝》。

文姫は博学で才能に長け、音律に精通していた。六歳のとき、蔡[ヨウ]が琴を弾いていると弦が切れてしまった。文姫は言った。「第二弦ですね。」蔡[ヨウ]が「まぐれ当たりだな」と言うと、「呉札は音楽を聞いて国家の興亡を知り、師曠は南風を歌って不吉を知りました。どうして分からないことがありましょう」と答えた。そこで蔡[ヨウ]はわざと一本の弦を切ってみた。文姫は「第四弦です」と答えた。どちらもぴったりと当たっていた《後漢書列女伝・同集解・同校補》。

文姫は河東の衛仲道に嫁いだが、子ができないまま夫が亡くなったため、実家に戻ってきた。興平年間(一九四〜一九六)、天下に混乱が起こると、文姫は胡人の騎兵に捕まって南匈奴左賢王のものになり、匈奴の部落で十二年暮らしているうちに二人の子を産んだ。曹操はもともと蔡[ヨウ]と親しかったので、跡継ぎがいないのを残念に思い、そこで使者をやり、黄金・玉璧を出して彼女を買い戻し、同郡の董祀と再婚させた《後漢書列女伝》。

「興平」は「初平」の誤りとみる説が有力《後漢書集解》。

董祀は屯田都尉になったが、法に触れて死罪相当と判決された。文姫は命乞いをするため曹操のもとへ参詣した。このとき公卿・名士や遠方からの使者たちが座を埋め尽くしていた。曹操が賓客たちに言った。「蔡伯[口皆]どののご息女が外におるから、いま諸君のお目にかけたい。」文姫が入ってくると、裸足にざんばら頭であった。地べたに頭を叩きつけて命乞いをし、声色は清らか、言葉は悲しみを極めていた。人々はみな襟を正した《後漢書列女伝》。

曹操が訊ねた。「まこと可哀相に思うのじゃが、もう書状を出してしもうたでな。どうしたものかのう?」文姫は言った。「明公は廏舎に馬一万匹、虎賁に林ができるほど武士をお持ちです。どうして一組の人馬を惜しんで、死を目前にした命を助けてくださらないのですか!」曹操はその言葉に感銘し、すぐさま追加の書状を発して董祀の罪を許してやった《後漢書列女伝》。

寒くなりつつある時期だったので、曹操は頭巾と靴下を彼女に与え、「聞くところによれば、ご夫人の実家には古い書物が数多くあったそうじゃのう。まだ記憶しておられますかな?」と訊ねた。文姫は答えた。「むかし亡き父より四千巻ばかり頂戴いたしましたが、事件に巻き込まれたせいでほとんど残っておらず、今でも暗誦できるのは僅か四百篇余りに過ぎません。」曹操が「今からご夫人のお側へ役人十名をやって、それを書き写させよう」と言うと、文姫は「男女を区別して直接伝授させないのが礼儀だと聞いております。紙筆を頂ければ、ご命令通りに書き写しますが」と言った。こうして書物をまとめて送ってきたが、文字の間違いは一つもなかった《後漢書列女伝》。

のちに家族が離ればなれになった悲しみを思い、二章からなる『悲憤詩』を作った《後漢書列女伝》。また匈奴の部落にいるとき『胡笳十八拍』を作っている《後漢書列女伝集解》。

【参照】衛仲道 / 呉札 / 蔡[ヨウ] / 師曠 / 曹操 / 董祀 / 河東郡 / 圉県 / 陳留郡 / 左賢王 / 屯田都尉 / 匈奴 / 南匈奴 / 胡笳十八拍 / 南風 / 悲憤詩

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