三国志モバイル人物伝

王儁Wang Jun

オウシュン
(ワウシユン)

(?〜?)
漢徴士

字は子文。汝南の人《武帝紀》。

若くして范滂・許章らに認められ、南陽の岑[日至]と仲が良かった。曹操はまだ布衣だったとき格別に王儁を愛し、王儁もまた曹操には治世の才を備えていると称揚していた《武帝紀》。

袁紹・袁術が母を亡くし、汝南に帰郷して葬儀を行ったとき、王儁は曹操とともに参列した。曹操は密かに「天下はいまや乱れんとしているが、擾乱の先駆けとなるのはきっとこの二人だろう。この二人を誅殺せねば擾乱は今に起こるぞ」、と王儁に語った。王儁は答えた。「卿(あなた)の言葉通りだとすれば、天下を鎮めるのは卿でなくて誰だろうね」。顔を合わせて笑いあった《武帝紀》。

王儁の人となりは外面は静かでも内面は明るく、州郡や三公の府からの命令も応じず、公車でお徴しにも赴かず、場所を変えて武陵に住まいした。王儁に帰属(して移住)する者が百家余りもあった。献帝は許に遷都すると、再び徴し出して尚書に任じようとしたが、やはり出仕しなかった《武帝紀》。

荊州牧劉表が袁紹の強力なのをみて彼と通じようとしたが、王儁は劉表を諫め、「曹公は天下の雄でございます。必ずや霸道を興し、桓文(斉桓公・晋文公)の功績を継ぐでしょう。いま近き者を棄てて遠き者に味方なさいますと、一朝急あれば、はるか北方からの救援を望んでも困難ではございますまいか」と言った。劉表は従わなかった《武帝紀》。

王儁は武陵で六十四歳の寿命を全うした。曹操はそれを聞いて哀しみにくれ、荊州を平定したとき長江まで遺体を出迎え、江陵に改葬した。上表して述べた。「先賢であった」、と《武帝紀》。

【参照】袁紹 / 袁術 / 許章 / 岑[日至] / 晋文公 / 斉桓公 / 曹操 / 范滂 / 劉協(献帝) / 劉表 / 許県 / 荊州 / 江陵県 / 汝南郡 / 長江 / 南陽郡 / 武陵郡 / 三公 / 尚書 / 徴士 / 牧 / 公車 / 府 / 布衣

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