三国志モバイル人物伝

王匡Wang Kuang

オウキョウ
(ワウキヤウ)

(?〜191?)
漢河内太守

字は公節。泰山郡の人《武帝紀》。

侠気ある人物で、財貨を軽んじて人に施すことを好んだ。若いころは蔡[ヨウ]と親しくしていた。大将軍何進は彼を召し出し、割符を持たせ、徐州から強弩五百張を都に運ぶ任務を与えた。都に帰ると、何進が殺されたため、王匡は官を棄てて故郷に帰った。まもなく王匡は河内太守に抜擢される《武帝紀》。

初平元年(一九〇)正月、曹操らに呼応して、反董卓の義兵を起こした《武帝紀》。韓浩を従事に任命して孟津に駐屯させ《夏侯惇伝》、自身も故郷泰山郡の兵を率いて河陽津(孟津か)に進駐したが、董卓は平陰から渡河するように見せかけて、密かに精鋭部隊を小平で北に渡河させ、背後から王匡を襲撃させた。王匡の軍勢は壊滅し、泰山に逃げ帰った《董卓伝》。故郷で兵を募り、数千人を手に入れたので、張[バク]らに合流しようとした《武帝紀》。

王匡は軍資金と軍糧を徴発するため、領内に腹心の書生を放って官民の罪過を探らせ、罪過を犯した者はすぐさま逮捕して、金銭や穀物で罪過をあがなわせた。それに従わない者があれば一族皆殺しにして、自分の威信を高めた。常林の叔父もそうした嫌疑にかかったが、王匡と同県の胡毋彪が常林の依頼を受け、処罰の中止を求めたので、常林の叔父は釈放された《常林伝》。

同年六月(または翌二年七月以降)、董卓は執金吾胡毋班らを河内に派遣して、袁紹らに解散するよう説得した。王匡は袁紹の命によって胡毋班らを投獄した。胡毋班は王匡と同郡の出身であり、また妹婿でもあった。胡毋班は「董卓を憎むのは当然ですが、私は天子の遣した勅使です。あなたは董卓への怒りを私に転嫁していますが、なんと残酷な仕打ちでしょう」と王匡に手紙を送り、獄中で死んだ。王匡は胡毋班の二人の遺児を抱いて泣いた《袁紹伝》。

胡毋班の親族たちは怒りを押さえることができず、曹操と協力して王匡を殺した《武帝紀》。

興平元年(一九四)に呂布が[エン]州入りしたとき、すでに王匡の部下であった韓浩が夏侯惇の将として活躍している。王匡が死んだのはそれ以前のことだろう。

【参照】袁紹 / 何進 / 蔡[ヨウ] / 韓浩 / 胡毋班 / 胡毋彪 / 常林 / 曹操 / 張[バク] / 董卓 / 徐州 / 河内郡 / 河陽津 / 小平 / 泰山郡 / 平陰県 / 孟津 / 従事 / 執金吾 / 太守 / 大将軍 / 符(割り符)

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