本当はもっと書きたいことはいっぱいあるんだけど、人に見せることを前提に書こうとすると書けなくなる。てゆーか人に見せること自体はまあいいとしても、正確さを心がけたり、読みやすくしようとしたり、何かそういうことしようとすると書けなくなる。私がほぼ毎日のように人物伝や翻訳を更新できるのは、それがあまり頭を使う作業ではないから。まあ一般的には頭脳作業のうちに分類されるのだろうけども、ただ原文を見て、それらしい日本語に置き換えていくだけだから、そう負荷のかかる仕事ではない。ほとんど単純な肉体作業に近い。それよりも袁術がどんなこと考えて動いてきたのか、とか、曹操がいかに無茶なことをしてきたか、とか、それを説明しようとすると、自分の心にある考えをうまく言葉に変換していかなきゃいけない。それがなかなかハードな仕事なわけで。もう三国については結構深くまで考えていることでもなにしろ形にできないから、他の人にどんどん先に書かれてしまう。こっちのサイトは人物伝以外ろくに更新されないという状況。で、そういう頭を使う作業をしない、そのときそのとき思いついたまんまをここにメモしていけばいいんじゃないかと。別にこれは公開してもかまわない。批判されてもいいわけだし。商業ベースに載っけてるわけじゃないから別に体裁を気にする必要はないし、研究論文を書いてるつもりもないから論拠不充分でも全然問題なし。ただとにかく余分なことを考えずに済めばいい。そういうわけでただだらだら書いていく。書いてる途中になんら脈絡のない話に飛んだりもするし、思い付きだから根拠のないことも書いたりするし。htmlも書かない。もともと「思而不学」のページもそういうつもりで始めたはずなんだけど、いつのまにやら自分でも書きにくい場所になってしまった。だからここに書く。というわけで、だらだらと始まる。 ***** 曹操はもともと袁術シンパ。 しかも張邈の手下。 曹操が張邈に家族を託したという記事は、史書の印象操作で、本当は張邈の方が立場的に上。曹操は張邈に養われている客将の一人に過ぎなかった。董卓と戦うにあたって兵士と、それを養うための食糧と、それを調達するための土地が必要になるわけだけど、曹操はこのとき無官だから何も持っていなかった。それを提供したのが張邈。代わりに曹操は家族を質に入れた。曹操が滎陽に進軍したとき、鮑信と衛茲が同行している。これも張邈配下。鮑信は曹操と同じで張邈の世話になってる客将、衛茲は張邈のお膝元の豪族出身者。張邈に縁のある部将三人が偶然そろったというわけではない。要するに、この滎陽進出そのものが張邈の命令によるもの。そして張邈が袁術シンパであったことについては後述(と言いつつ、それっきり放置する可能性高し)。 董卓に対して積極的に戦ったのにはもう一人、孫堅がいる。こちらもやはり袁術の手下。孫堅と曹操の二人が積極的に戦ったことはよく知られているが、実は二人ともその背後に袁術を背負って戦っていたことになる。そういえば曹操が出奔したとき、彼の家族に誤って訃報を伝えたのも袁術だった。孫堅についてはまた後述。 董卓と戦ったのには二人の他に王匡がいる。この人は袁紹シンパだったような気がするけど、実際、よく分からない。いまいち謎っぽい人物だと思う。とはいってもおおむね袁紹シンパだったとみて問題なさそうだ。 献帝劉協を皇帝と認めるかどうか。それが袁紹と袁術とのイデオロギーの違い。袁術はのちに皇帝を僭称したことで不忠者のイメージが付きまとうが、この時点では、飽くまでも【漢朝護持】【漢朝護持】【漢朝護持】の姿勢をとっていた。王室の守護者だ。一方、袁紹は劉協を正統な皇帝とは見なさない。だから弘農王が殺されたとき新たな皇帝を立てようとした。【廃立】自体、平時なら叛逆と見なされかねないシビアな仕事だ。面倒だからここで言っておく。袁紹は謀叛人。袁術は忠臣。これが私の基本的な立場。理由は後述。袁術は忠臣。繰り返しておく。袁術は忠臣。袁術は忠臣。 その袁術の手下だった孫堅・張邈が積極的に董卓と戦った。張邈はさらにその手下の曹操を出陣させた。なぜ袁術系の武将が積極的に戦って、袁紹系がそうでなかったのだろうか。 袁術はそのイデオロギー上、董卓の手から献帝劉協を取り戻す必要があった。一方、袁紹は新しい皇帝を立てれば済む話なので、別に董卓なんかどうでもよい。とりあえず董卓軍が黄河を渡って冀州に攻めてくるのを防げればそれでいいわけだ。まず孟津を固めて董卓軍の北上を防いで時間を稼ぎ、その間に新たな皇帝を擁立する。そうすれば天下は自然と河北になびくようになるだろう。それがこの時点での袁紹の考え方。 さて、不思議なのは曹操と王匡の動き。どちらも董卓軍に敗れて軍勢を失っている。そして後方で募兵したあと、なぜか酸棗にいた曹操が河内へ、河内にいた王匡が酸棗へ向かっている。なぜ? 王匡についてはまだよく分からないが、曹操が河内へ向かった理由は、彼が袁術サイドから袁紹サイドへと寝返りを打ったのではないかと私は考えている。王匡の記述は「張邈に合流しようとした」とあるだけなので、それを果たせないまま曹操に殺されたのだろう。よく分からない。が、とにかく曹操は空っぽになった河内に入っている。ここ、黄河以北は袁紹の勢力圏だ。 曹操と意気投合し、曹操と似たような立場にあった鮑信の動きについてもよく分からない。別に、曹操に義理立てしなければならないような立場でもないのに、なぜか曹操のために奔走して命を捨てているところから見ても、同時期かどうかは分からないが、曹操と同じく袁紹派へ寝返ったのではないかと思う。 そのころ袁紹による冀州乗っ取り事件が起こる。韓馥は小説でもゲームでも馬鹿みたいな扱いを受けているが、本当は冀州でかなり人気のある君主だった。だからこそ、地元出身者である州吏たちが懸命に韓馥を守ろうとしたのである。その州吏とはまず別駕の閔純、治中の李歴、もとの別駕の沮授(彼については微妙だが)、都督従事の趙浮・程奐、それに州吏ではないが地元の人間と思われる長史の耿武。これだけのビッグネームがのきなみ韓馥に忠誠を誓ったのだ。袁紹サイドに寝返る動きを積極的に見せていたのは、唯一、部将の麴義だけ。しかもこの人は涼州から来たよそ者なのである。 そういうわけだから、韓馥が地位を退いて袁紹が冀州牧になったあとも、冀州の人々は心服なんかしない。むしろ機会さえあればすぐさま袁紹を引きずり落としてやろうと虎視眈々と狙っていた。 袁紹は新帝擁立派だったが、北方の劉虞、公孫瓚の二人は今上守護派だった。袁紹はまだ新たな皇帝の擁立に成功していなかったが、公孫瓚の告発によると、黒い袋に包んだ「詔勅」を勝手に発行していたという。念のため言っておくが、このとき袁紹は皇帝を擁していない。【皇帝のいないところから詔勅が出てきた】わけだ。これは明らかな叛逆行為である。もちろん敵国のとなえるネガティヴ宣伝だから本当に信じてよいかどうかは分からない。だが、そのような疑いを招きかねない振る舞いが袁紹にはあった。少なくとも、自分のシンパに官職をばらまいていたのは事実だ。 このとき劉虞と公孫瓚はまだ決定的には仲違いしていない。むしろ今上守護という立場からいっても共闘関係にあった。だから劉虞は袁術のもとへ幽州兵を派遣したのである。公孫瓚がその派兵に反対したのは、イデオロギーとは無関係に、単に袁術の野心を見抜いていたということだろう。しかし劉虞が派兵を強行してしまった以上、天下人へと昇りつつある袁術に単独で対抗することは不可能とみたのか、一転、袁術の傘下に加わった。いずれにせよ、彼らはみな今上守護派なので派閥内でのごたごた以上の意味はない。公孫瓚は従弟の公孫越に兵を授けて袁術のもとに出した。 予州刺史孔伷が死んだあと、その後任を任命しうる立場は三つあった。一つは献帝を擁している董卓が皇帝の名において任ずるというもの、一つは囚われの献帝に代わって袁術が臨時措置として任ずるというもの、残るは袁紹が新帝の名において任ずるというもの。しかし袁紹はまだ新帝擁立に成功していない。にも関わらず、袁紹は勝手に周グを予州刺史とした。もともと形而上的なイデオロギーの違いでしかなかった袁術・袁紹の対立が、ここで現実の土地をめぐる武力衝突へと進展する。 予州の支配権をめぐって孫堅と周グの抗争が勃発、袁術は孫堅への援軍として公孫越を出したが、周グの兄周昂が袁紹派として参戦し、公孫越が戦死した。そこで公孫瓚は報復すべく袁紹追討の軍を起こした。これは従弟の敵を討つためでもあり、同時に、今上守護派として新帝擁立派を打倒するためでもあり、また自己の勢力拡大のためでもあった。 袁紹から勃海太守の印綬をもらった公孫範が勃海郡兵を率いて公孫瓚軍に合流できたのは、袁紹がいかに本拠地勃海郡で人気がなかったかを示している。公孫瓚軍が南下を始めると、そこかしこの郡県で在地豪族たちが一斉蜂起して長官を殺したり追放したりした。この反乱が州内にあっという間に広がったことも、袁紹の人気の乏しさを示す状況証拠となる。 袁紹の配下には、およそ在地豪族としての背景を持つ州吏と、汝南・潁川・南陽出身の賓客との二つのグループがあった。しかし賓客グループはこのとき全くと言っていいほど実権を持っていない。一方、在地豪族からは広平郡の沮授、魏郡の審配、鉅鹿郡の田豊が、いわば【三羽烏】となって袁紹政権を支えていた。支えていた、というよりは牛耳っていた。 『三国志』によると沮授は「監軍」に任じられたとある。これは袁紹軍の軍政を沮授が統括したという意味である。魏晋の制度でいう「都督」に相当すると考えてよい。しかも魏晋のように各方面に一人づつ権限を分けられたというのではなく、【沮授一人で全軍を掌握している】のだ。そして審配は治中である。これは州政のトップであり、冀州牧袁紹に代わって内政を総攬する。また田豊は別駕である。別駕というのは、州牧と同じ格式の馬車を州牧とは別途に支給されるという意味で、つまり権威名声からいえば州牧に匹敵するかそれ以上の地位にある。治中との棲み分けだが、治中が州牧を代理するのだとすれば、別駕は州牧の補佐にあたったと考えてよいのだろうと思う。 袁紹軍が公孫瓚軍を迎え撃ったのは界橋の地であったが、その界橋以西はみな「三羽烏」の故郷であった。繰り返すと、沮授の広平、審配の魏郡、田豊の鉅鹿である。この辺りが袁紹の実効支配の及んだ地域とみて差し支えないだろう。界橋以東の河間、勃海、清河などは公孫瓚の手に落ちたと思われる。安平は微妙だ。鉅鹿太守が公孫瓚に寝返ろうとしたとき、袁紹方の董昭が「賊の斥候である安平の某から供述を引き出した」と言っているから、すでに安平も公孫瓚方に落ちていたのかも知れない。 公孫瓚軍の先鋒はおそらく冀州刺史厳綱だったのだろう。この戦いで落命していることからそれが窺われる。冀州刺史というからには地元の兵を率いていたはずだが、新附の兵を前面に出すのはほとんどセオリー通りと言ってもよい。それも彼が先鋒を務めたと推測する根拠になる。 公孫瓚は厳綱のほか、単経を兗州刺史、田楷を青州刺史に任じている。兗州と聞いてまず陳留や濮陽のあたりを思い浮かべ、そりゃ実効支配の及ばない地域だろう、刺史とは名ばかりの空虚な任官、いわゆる遥領なのだろうと思っていた。しかし改めて考えると、兗州の中では唯一、東郡だけが黄河北岸に領域を持っている。そして、その地域は魏郡の鄴県とは目と鼻の先なのだ。どうも、単経を兗州刺史に任じたのには、そこいらの兵をまとめて鄴城を襲わせるつもりがあったらしい。また田楷が赴任した青州平原国も、東郡のすぐ近い後背地である。 袁紹の敵は公孫瓚ばかりではない。背後からは黒山賊が迫っていた。黒山賊はもともと叛乱軍に過ぎなかったが、霊帝の時代、主だった者が朝廷から官職をもらっていた。公孫瓚など今上守護派と親密であったのにはそういう事情があったようだ。新帝擁立などという朝廷の権威をないがしろにする振る舞いの袁紹に与しては、自分たちのもらった官職を否定することになりかねない。まあ、袁紹から新たな官職をもらえばそれまでの話なのだが。 このとき南匈奴単于の於夫羅も黒山賊に合流したようだ。初めは袁紹に味方していたが、張楊を人質に取って寝返りを打ち、袁紹の部将麴義の追撃を受けながらも、黎陽城を固めていた耿祉を攻落した。黎陽津、別名白馬津を渡った先に濮陽城がある。黒山賊の白繞らが魏郡を荒らし回ったあと、濮陽に入ることができたのは、おそらく於夫羅と行動を共にしていたからなのだろう。 さて、困ったのは袁紹だ。鄴城を中心に見れば、北の界橋からは公孫瓚・厳綱軍、東の東郡の黄河北岸地域からは単経・田楷、南の濮陽・黎陽には白繞・於夫羅、西には黒山賊の軍勢。四方をぐるりと囲まれ、魏郡一郡だけでも風前の灯火、いつ失陥してもおかしくない極めて危うい有様だった。ましてやその魏郡でさえ、韓馥の旧恩にあずかって袁紹に復讐せんと企てている豪族がうようよしていたはずなのだ。 ここで再登場するのが曹操である。河内入りして以来、これまでどこで何をしていたのかは分からない。袁紹はこの曹操を東郡太守に任じ、白繞らに対抗させた。もちろん、何ら裏付けのない偽の辞令書を発行したのである。袁紹の狙いは、曹操に東郡を片付けさせて黒山賊・於夫羅の脅威を排除しつつ、東方から侵入を試みる単経・田楷らに睨みを利かせるというものだった。それゆえ郡役所を黄河北岸の東武陽に置かせたのである。このミッションを曹操はみごとに達成し、濮陽の白繞を打ち破り、袁紹軍の後背地を安全ならしめた。 こうして後顧の憂いのなくなった袁紹は、界橋に乗りいだし、公孫瓚と雌雄を決する。 くり返すが、この戦いで公孫瓚軍の先鋒を務めたのは冀州刺史厳綱だろう。この時代の刺史は各郡の太守を統率する。その太守らはそれぞれの任地で徴発した郡兵を統率する。侵略軍が新たな占領地から将兵を駆り出して、その地の戦いに使うのはごくありふれたやり方だ。公孫瓚率いる幽州兵は後方で本陣を固めていたのだろう。 この戦いの殊勲者が麴義であることは間違いない。しかし左右に控えていた強弩兵一千の働きも見逃せない。もしこの戦いで強弩兵一千がいなければ麴義も功績を立てられなかったはずだ。ここのところ麴義を過剰評価する傾向があっていささか不満ではある。評価するなら評価するで、どのような状況においてどのような行動を取ったかを正確に把握してないと駄目だ。行動は同じでも状況が違えば功も罪になり、罪も功になる。 史書には明記されていないが、袁紹が勝利すると、つい先日公孫瓚方に寝返ったばかりの郡県も、一斉に袁紹方に鞍替えしたと考えられる。直後、袁紹方の崔巨業が幽州の故安を攻撃している。道筋にあたる河間・安平郡の諸城が袁紹に屈服していなければ作戦は不可能だろう。袁紹に対する忠誠も欠いていれば、公孫瓚に対しても忠誠を固めてはいないのだ。これが戦乱の世の常。主君に忠義を尽くすなんてのは平和の世でしか通用しない。ただし、勃海あたりは公孫瓚の影響の方が強かったのではないかと思う。太守公孫範は宿敵袁紹でさえ認める太守であるし、袁紹が新たに自前の太守を任命したとも聞かない。それに、これ以後も公孫瓚が青州へ向かうのにこのルートを使用しているのは、比較的安定していたからだろう。 崔巨業が故安攻撃に失敗して撤退する途中、公孫瓚がこれを追撃して大勝利を収め、そのまま勝利に乗じて冀州諸郡を平定しながら、青州刺史田楷を斉の地に入れて袁紹軍数万と戦わせたという。この戦いは二年間も続いたが、こうしてみると案外、冀州をめぐる戦いでは公孫瓚が善戦しているように思われる。なにしろ冀州牧の袁紹が冀州東半の支配を失って、その東半というのが異国の一武将に過ぎない公孫瓚の支配下にあるのだ。なお、冀州東部を大きく迂回して平原方面から鄴を窺うというのは、界橋以前にとった戦略と大略同じだと言える。 このあと公孫瓚は興平三年に龍湊で敗北してから幽州を出なくなったともあり、田楷と袁紹との戦いは興平三年から四年まで続いたともあり、記述が一致してないように見える。が、おそらくこれは公孫瓚と田楷とを別個に考えるべきなのだろう。つまり崔巨業を打ち破ったあと、公孫瓚は南下して勃海周辺を収め、青州に田楷を入れた。田楷が袁紹の襲撃を受けて公孫瓚に救援を仰いだところ、公孫瓚は龍湊で敗北して幽州に引き籠もり、田楷は単独で二年間も袁紹と戦い続けた、ということではないか。 話は変わって。史書では董卓討伐の盟主は袁紹であったというが、これが眉唾ものなのだ。もし袁紹が盟主だったのであれば、どうして家族を劉岱に預けたりしたのだろうか。袁紹の家族の命を握っていた劉岱の方が立場が上なのである。そして袁紹と対立していた公孫瓚も騎兵を派遣して劉岱を支援していた。劉岱は、董卓討伐の誓約文を読臧洪にませた五諸侯の筆頭でもあって、そして、この五諸侯が董卓討伐の中心メンバーなのだ。劉岱の檄文を受け取ってようやく参加した袁紹などの出る幕ではない。もし袁紹が真実「盟主」であったというのなら、それは新帝擁立派の領袖だったというだけの話だろう。 さて、この劉岱は、界橋会戦のとき袁紹の家族を寄越さねば兗州を侵略してやるぞと公孫瓚に脅迫されている。これに対し、劉岱は程昱の進言を承けて公孫瓚と手を切り、袁紹と結んだ。袁紹の家族がいつごろ冀州に帰ったかは分からないが、おそらく劉岱の時代に帰されたのではないかと思う。ともあれ程昱の見込みは当たり、袁紹方が戦いに勝利したのだが、これによって劉岱は新帝擁立派に与することになった。さらに袁紹方に鞍替えした曹操が東郡太守、その曹操と親しい鮑信が済北相となり、兗州は新帝擁立派が大きく優勢を取る。一方、今上守護派の公孫瓚は劉岱を正統とは認めず、単経を兗州刺史に任じて対抗した。 劉岱が黄巾賊に殺されたとき、曹操が兗州牧に就任できたのも劉岱が新帝派に与したおかげなのである。もともと界橋会戦のとき、兗州牧劉岱、それに兗州従事らはすでに袁紹方に味方することを決めていた。だからこそ州吏たちは、古くから名望・功績のあった陳留太守張邈や泰山太守応劭ではなく、同じく新帝擁立派で、袁紹と昵懇であった曹操を州牧に迎えたのだ(ま、張邈は兗州人なので兗州牧になれない不文律もあるのだが)。張邈としては面白くない。なにしろ曹操の家族は自分の手元にいる、つまり曹操は自分の手下としか思ってなかったのが、いつの間にやら自分の上に立っているのだ。 袁紹と公孫瓚とはかねてより対立を露わにしていたが、このころ袁術も袁紹との対立姿勢を表明した。おそらく皇帝の正統性をめぐる意見対立がきっかけなのだろうが、具体的にはどういうことなのか伝わっていない。本当は、孔伷の後釜を狙ってすでに対立していたはずなのだが、なぜ『武帝紀』がわざわざこの時点で両者が対立したと書いたのだろうか。多分、曹操自身が二袁の戦いに直接からむことになったからなのだろう。ともあれ公孫瓚は高唐・平原・発干から袁紹に圧迫を加えたということだが、やはりこのルートなのである。このとき発干から出立した公孫瓚方の部将に陶謙という名が見えるが、これは徐州刺史とは同姓同名の別人だろう。袁紹シンパである曹操が戦場に駆けつけてこれを防いでいるが、これは同盟者として対等の立場で袁紹に協力したというよりは、袁紹の手下として駆り出されたと見た方がいい。陶謙と戦ったとき、袁紹の部将朱霊が曹操に附けられ、戦後もそのまま曹操の元に残ったといい、また劉備が高唐県令であったというのもこのころのことだろう。 興平四年、その後の歴史を左右しうる重大事件が発生する。長安に身柄を拘束されていた献帝が、董卓の死後、李傕の手に落ち、その李傕の戦略方針を承けて諸侯に官職をばらまき始めたのだ。このとき官職を拝領したかどうかが、今上守護派であるか新帝擁立派であるかを見分ける最も重要な基準の一つになる。 まず今上守護派の領袖である袁術が左将軍・仮節・陽翟侯になった。また袁紹と最も激しく対立していた公孫瓚は前将軍・易侯、東方の勇将陶謙は安東将軍・領徐州牧・溧陽侯、独自路線を歩んでいた劉表も鎮南将軍・荊州牧・仮節・成武侯に昇進した。このあたりが今上派の中心メンバーと言えるだろう。さらに袁術の元にいた孫策が懐義校尉となり、公孫瓚は冀州・青州・兗州刺史を独自に任命し、劉備を平原相に取り立てた。 余談になるが、今上派勢力はこれに留まらない。そのころ朱儁は中牟に駐屯していたが、山東の諸将がその朱儁を太師に推挙している。その上奏文に連名しているのは、徐州刺史陶謙を筆頭に、前揚州刺史周乾・琅邪相陰徳・東海相劉馗・彭城相汲廉・北海相孔融・沛相袁忠・泰山太守応劭・汝南太守徐璆・前九江太守服虔・博士鄭玄。朱儁はかねてより董卓討伐に積極的であったし、陶謙とはこれ以前から協力し合っていた。彼もまた今上守護派と見なされるし、彼を推挙した連中もやはり今上派である。琅邪・東海・彭城は徐州の領域、北海は青州、博士鄭玄も青州の人士で、沛は予州東北、汝南は予州東南、泰山は兗州東北。北海相の孔融は公孫瓚や田楷、陶謙らと共闘関係にある。前述した袁術や公孫瓚の領域とも合わせれば、中国全土の大半を今上守護派が占めていたことになる。 献帝の官職ばらまきのうち最も注目すべきは冀州刺史および兗州刺史の任命である。いずれも袁紹・曹操が自官している職なのだ、彼らがやすやすとその地位を明け渡すとは思われない。そこで今上派は用意周到にも、あらかじめ軍事力によって彼らの赴任を支援する計画を立てていた、らしい。 袁紹は北方で公孫瓚と戦っていたが、戦勝の後、ちょうど三月の上巳(桃の節句)を迎えたので、薄洛津に賓客たちを集めて酒宴を開いていた。そこで容易ならざる一報を受けた。魏郡の兵士が叛逆をなして黒山賊と手を結び、軍勢数万を擁し、太守栗成(栗攀)を殺害して鄴城を占拠した。しかも彼らは献帝が任命した冀州刺史壺寿を推戴しているという。鄴の城内には諸将・豪族から取り立てた家族を軟禁していたから、それが壺寿らの手に落ちれば、家族の身を案じた諸将が袁紹の元を去る可能性が高まる。 一方、兗州刺史金尚はまず南陽の袁術に身を寄せ、その後、袁術とともに陳留郡の封丘に進入した。おそらく太守張邈とは内密に計画を固めていたのだろう。冀州の政変の主力は黒山賊であったが、兗州の政変でもやはり黒山賊が一枚噛んでいた。黒山賊と南匈奴単于の於夫羅が袁術を支援したと史書にある。つまり、冀州と兗州の事件は別個ばらばらに起こったのではない。袁紹と曹操とが相互協力できぬよう、黒山賊と袁術とが共同歩調をとって計画を一斉発動させたのだ。兗冀二州同時クーデター。 新帝擁立派にとっては空前絶後、最大の窮地であった。しかし、この政変は失敗に終わる。まず冀州であるが、黒山賊の一味陶升という者が袁紹方に寝返り、鄴に監禁されていた諸将の家族を袁紹の元に送り返したのである。これで冀州豪族の寝返りを心配する必要は軽減された。勢いを盛り返した袁紹軍はそのまま黒山賊を討滅し、壺寿の首級を挙げる。一方、兗州戦線では、袁術の先鋒劉詳が曹操に敗れ、袁術は曹操の包囲を恐れて金尚を連れて揚州寿春へと敗走した。 この戦いで、曹操は朝廷に弓引く意志を公然と示すことになった。どう言い繕おうとも繕いきれるものではない、歴然たる【朝敵】である。これまで権臣の傀儡に過ぎないとして幼主を蔑ろにしてきた袁紹もやはり、献帝その人の決定にはっきりと違背する姿勢を見せた。 さて、陳留太守張邈は今上守護派である。新帝擁立派の袁紹とは激しく意見が対立していたし、袁術が金尚を擁して兗州入りしたときもこれといった抵抗を示していない。のちに曹操が国許を空ければ反旗を翻し、曹操に打ち破られて袁術を頼っている。こうした彼の行動を見てみると一貫して袁紹・曹操派とは仲が悪く、袁術派と親しかったことが分かる。それでも張邈は曹操の家族を手元に押さえていた。官職においては曹操の配下であったが、実力においては曹操に後れを取るものではなかったのだろう。 そのころ陳留に辺譲という人物がいて、孔融・王朗・蔡邕らがこぞって彼と交流を求めたほどの当代一流の名士であるが、その人が激しく曹操の姿勢を批判していた。同郷の人が彼を告発したことを利用し、曹操はこの辺譲を誅殺した。のちに袁紹はこう言っている。「辺譲は英俊であったが曹操に直言したため殺され、それ以来、人々は怒り悲しみ、一人が腕を挙げれば一州こぞって呼応した。曹操が徐州で敗北し、土地を呂布に奪われたのはそのせいである」と。これが事実ならば、張邈の乱は辺譲殺しが直接の原因ということになる。 第一次徐州遠征のとき曹操の家族は張邈の元に預けられていた。しかし第二次遠征のときは鄄城に移されていたらしく、張邈の乱が起こったとき、夏侯惇が鄄城に馳せ向かい彼らを迎えに行っている。袁術が侵入してきたときか、あるいは辺譲が誅殺されたころ、曹操は張邈との関係が悪化し、同時に張邈に対する優位を獲得して、その家族を張邈の手から取り戻したのだろうか。 曹操の家族すべてが張邈や曹操の元にいたわけではない。とりわけ実父曹嵩などは、【曹操に付いていくことを拒否して】徐州の陶謙に身を寄せていたという。これもおそらくは皇帝の正統性をめぐる意見の相違があったのではないだろうか。だからこそ今上守護派の雄陶謙に身を寄せるのである。また泰山太守応劭は陶謙のシンパである。曹嵩は徐州琅邪を発って、その泰山に入ったところで陶謙の都尉張闓に殺された。こうしてみると陶謙・応劭には曹嵩を殺害する動機がない。やはり張闓の気まぐれだったのではないだろうか。後述するが、曹操が彭城一帯で大量虐殺を働いているため、張闓の家族もそれに巻き込まれ、私的に復讐したのかもしれないし、そうすると琅邪に居住していた曹嵩が泰山に移ろうとしたのも、虐殺被害者の家族による報復を避けるためだったとも思われる。 『武帝紀』では、まず曹嵩が殺され、その復讐のため曹操が陶謙を攻撃したかのように書かれているが、これは事実でない。『後漢書』でも曹嵩殺害を陶謙の仕業だとしているが、その理由を曹操にたびたび攻撃を受けていたからだと言っている。曹操による徐州侵略の方が先に立っていたのだ。さらにさかのぼれば、陶謙の方が泰山郡の華・費を攻略し、また任城国へ侵出したのが曹・陶抗争の発端だろう。しかし、そうすると陶謙がなぜ任城まで攻め込んだのか、理由がよく分からない。思うに、これは金尚が兗州入りしたとき、陶謙が同じく今上守護派として盟友を支援するため、曹操の後方を脅かしたということではないだろうか。 泰山太守応劭は陶謙と親しかったので、陶謙が華・費を奪ったというのも実は単なる平和的割譲か、あるいは進路を貸してやっただけなのだろう。曹嵩が殺されたとき、彼が泰山郡を捨てて逃亡したのは、ただ曹嵩殺害の責任を負わされただけではなく、やはり今上派として曹操と対立していたからでもある。 陶謙の実力を恐れた曹操は、帝から詔勅を引き出して徐州軍を解散させようとしたという。しかし、このとき曹操は新帝擁立派でもあり、まだ献帝を奉じてはいなかったのだから、詔勅を出せようはずもない。とはいえ、韋昭の『呉書』はありもせぬ詔勅を偽造するような性質の史書でもないから、どこかに間違いはあるとしても大枠では事実を書いていると私は判断する。あるいはこの詔勅の出所は袁紹近辺だったのではないか。公孫瓚の告発によると袁紹は詔勅を偽造していたというのだ。 ともあれ、この詔勅への違背と、父の復讐のため曹操は第二次徐州遠征を決行した。この間、曹操は彭城一帯で大量虐殺に手を染めているのだが、それが第一次のときなのか第二次のときなのか、はっきりしない。武帝紀や陶謙伝に引く『呉書』では曹嵩が殺されたのちのこととしているが、『後漢書』および『三国志』陶謙本伝では第一次のこととしている。陶謙伝の方が戦闘の経緯を詳しく書いて地名も明らかにしており、これによると第一次では曹操軍が彭城方面から侵入したとあり、第二次では琅邪・東海方面を攻略したとあり、大量虐殺の現場が彭城一帯であることから考えても第一次のときとする陶謙伝が正しいのだろう。第二次のときとする武帝紀でさえ、第二次遠征では東海方面に進出したとしている。 曹操が国許を空けて徐州に遠征していたとき、兗州では政変が企てられていた。首謀者は将軍陳宮、従事中郎許汜・王楷と、どうしたわけかみな曹操麾下の人物ばかり。これに張邈・張超兄弟が加わり、潁川太守呂布が迎えられた。 この陳宮という人がよく分からない。演義の影響で謀臣のイメージが強いが、彼は文人らしい官職に就いていたとする記録はない。むしろ「将軍」と書かれている。これは私兵を抱えた地方豪族を呼ぶときの表現だろう。東郡東武陽の人というから、東郡の中でも黄河北岸、あの公孫瓚と袁紹との戦いで係争地となった地域である。兗州牧劉岱が死んだとき、曹操を後任に迎えるよう運動したのはこの陳宮である。その陳宮がなぜ今さら曹操を裏切るのか、まるで理解できない。史書に記載されてなくて挙兵の理由が分からないという場合、大概は豪族としての私益追求のためと私は考えるようにしているので、陳宮もやはりそうなんだろうな。加えて、辺譲の一件も絡んでくるのだろう。従事中郎の許汜・王楷の二人もよく分からない。従事中郎といえば大概賓客のために用意された役職で、許汜が襄陽出身の名士であることも分かっているが、肝心の曹操に刃向かった理由が分からない。 張邈が曹操に叛いた理由はもっと分かりやすい。もともと董卓討伐軍を主唱した五諸侯の一人(張超を含めれば二人)なのに手下だと思ってきた曹操に屈服を余儀なくされ、今上守護派の有力武将でもあり、領民の辺譲を殺されて面目丸つぶれ、おまけに曹操と昵懇の袁紹はたびたび自分の命を狙っている。そんな状況で曹操が全軍こぞって徐州へ遠征していて国許には不在、なぜか曹操麾下の陳宮や許汜からも内定もらって、そのうえすぐ近くに天下に勇名を馳せる呂布がいるというのだから、まあ決断は下しやすいだろうなと思う。 いずれにせよ曹操の辺譲殺害が最も大きな要因であることには疑いがない。 *** 董襲伝。 「也」を見れば「である」と書くようにしている。しかし董襲伝には「会稽余姚人」というだけで「也」という字がないので、「である」は書かない。陳武伝も一緒。 鄱陽の賊彭虎を討伐したとき、董襲の向かうところ「輒破」であったという。これを筑摩では「すべて敵を破り」と訳しているのだが、どうだろうか。それでは彭虎が「旌旗を遠望しただけで逃げ散った」理由にはならないように思う。「輒」には「そのつど」という意味もあり、むしろそちらの意味で使われることが多いのだが、ここでは「たやすく」の意に解した方が、その後の彭虎の態度を説明しやすい。他三人の部将が苦戦したのに対し、董襲一人だけは快勝したので、彭虎は彼の武勇を思い知って恐れをなしたというわけ。わずか十日で完全に平定されたというのも、董襲が「たやすく」勝利したからである。 筑摩では、黄祖が沔口を守ったとき、「二隻の蒙衝を横にならべた」としている。私も「人名事典」ではそのように解した。しかし流れに沿って二隻の船を浮かべただけならば、「並」と書けばよいのであって、わざわざ「横」にする必要はない。それに、普通に岸に着けるだけだったら、わざわざしゅろの大綱を作って錨にする必要はないし、そのような記述をする必要もない。普通でないことをするからこそ、普通でないこととして記述するのだ。ここは船の向きを流れに対して直角にしたと読んだ方がいい。おおよそ船というのは前後に長く、左右に短い。短い方、つまり舳先を敵に向けたのでは、敵に当たる弩兵の数が少なくなってしまう。それでは火力不足だ。長い方、つまり側面を敵に向けることで、より多くの、具体的には「千人」の、弩兵を敵に当たらせることができる。東郷平八郎がバルチック艦隊を撃破したときの陣形を想起すべし。なおかつ川幅には限りがあるので、船の前後の長さによってこれを物理的に塞いでしまうという意味合いもあるのだろう。また、原文に「以弩交射」とあるのを、筑摩では「弩を乱射し」としている。この「交」を問題にしたい。私も「人名事典」では「代わる代わる弩を発射した」とした。つまり「矢継ぎ早に」ということで、設楽原における信長の三段撃ちのようなものを想定してほしい。しかし、上に解したように二隻の蒙衝を流れに対して横向きにしたのであれば、これはとどのつまり左右の拡がりを利用して左手の兵は右へ、右手の兵は左へ、上空から見れば矢の軌跡が十文字に交差するように射た、近代的な言い方をすれば十字砲火を浴びせたという意味なのだ。逆に言えば、十字砲火を浴びせるためには蒙衝を横向きにしなければならないということになる。 筑摩では「それぞれ百人の決死隊を率い」としているところ、原文は「各将敢死百人」である。「敢死」は一般名詞ではなく、呉軍にあった特殊部隊のことでないかと思う。 「大舸船」はついつい「おほあたけ」とルビを振りたくなってしまう。こらえた。 筑摩では「蒙衝艦の腹の下にもぐりこんだ」としているが、蒙衝に潜り込めるような腹は構造的にないように思う。それに董襲の乗ったのは「大型の船」なのだから、なおさら蒙衝の腹の下に潜り込むには無理がある。「裏」には「すきま」という意味があって、ここでは蒙衝と蒙衝の間という意味だろう。左右から矢の飛び交うところへ董襲は突入したわけで、だからこそ孫権が絶賛しているのである。 「身」「自」「手」「親」を普通は「自ら」「手ずから」などと訳すのだが、なぁんかそういうのって漢文読みみたいで嫌いだ。漢文を読まない人にも読めるようにするのが翻訳であって、漢文を読んでる人にしか馴染まない書き方をしても翻訳の体をなさないんじゃないかと勝手に思う。それに「自ら」なんてのはたった二文字しかないくせに漢字の含まれる割合が50%にも上ってなおさら嫌いだ。こういう文字が出たときは「その手で」と書いてることが多い。 「蒙衝乃横流」を、筑摩では「蒙衝艦は勝手に流れ出してしまった」とする。「横」は「勝手に」「意思に反して」「でたらめに」の意。船の構造からいって横向きに流れるということはありえないので、筑摩の解釈が正しい。 原文「今日之会、断紲之功也」を、筑摩では「今日、こうした宴会が開けたのは、矴のロープを切るという手柄があったればこそだ」とし、私もそれを踏襲したのであるが、ただ、原文の書きようからすると「本日の宴会を開いたのは、董襲の手柄を称え、報いるためだ」という意味でないかと思う。「君の手柄に乾杯」といったところ。今回は見送った。まあ最終的には同じことを言ってることになるんだけども。 「曹公が濡須に侵出してきたとき」の原文「曹公出濡須」。自軍が「出」したときは「進出」とし、敵軍が「出」したときは「侵出」と使い分けるよう、以前から意識してたりする。 原文「敢復言此者斬」とあるのを、「それでもまだ言う者があれば、斬る」とした。「敢」を「それでも」、「復」を「まだ」と訳したのは今回で初の試み。「敢」はすぐ後にも出てくるので、同じ文句を使いたくないなという気持ちもあった。「於是」を「その上」としたのも初めて。最近は「於是」へ柔軟に語を充てることが多くなった。「莫敢干」は最初、「あえて逆らう者はなかった」としていたが、あとで「あえて楯突く者はなかった」に代えた。「干」が「楯」だから。 *** 董昭伝。 賈琮うんぬん。佞人と評される董昭も、この時代ではまだ清廉潔白だったのである。 「欲誘致其心,唱與同議,及得其情,乃當權以制之耳.」ここで董昭が「彼らに同調する」と言っているが、それがのちの孫伉斬首の事実に繋がらない。現場をみて計画方針を切り替えたのか、あるいはこの言葉が鉅鹿ではなく魏郡の反乱に対処するときの言葉なのかも知れない。「唱與同議」を、筑摩では「彼らの意見に同調」とするが、それではなぜ「彼らの内情をつかむ」ことになるのか理解できない。ここでは「同調して謀議に加わる」とした。 筑摩では「孫伉ら数十人が謀略の中心として」としているところ、原文「孫伉等數十人專為謀主」。「謀主」は「戦略方針の決定者」「オピニオンリーダー」。本来ならば、太守が右といえば領民も右へ行き、太守が左といえば領民も左へ行くところ、官の定める権限を持たぬ者が右へ左へと民衆を動かし、その者が太守の意見を無視したり、また太守不在に乗じてそのような行為を行うので、「専」つまり「勝手に」「独断で」、「為謀主」つまり「戦略方針の決定者になった」と言っている。筑摩の訳では郡民をリードしているという意味合いを読み取りにくく、逆に郡民に内緒で計画を立てていたように読めてしまうと思う。孫伉は郡の豪族なので、実は公孫瓚が来なくとも普段から指導者面をして郡民を動かしているのだが、官の建前上そういう事実はなかったことにする。彼らは太守よりよっぽど強い権力を持っていて領民も逆らえない。そういう連中が孝廉になるわけだ。原文「驚動吏民」は、「公孫瓚が来るぞお!奴は怖いぞお!」ということなんだろうから、「驚かせ騒がせていた」としなくても、単に「煽動していた」で可。 「當攻鉅鹿,賊故孝廉孫伉等為應」。筑摩では「鉅鹿を攻撃するに当たって、賊であるもと孝廉の孫伉らが同調している」とする。間違っているわけではないが、「同調」という言葉の指す範囲が広すぎて曖昧になっている。原文「応」を生かして「内応」で可。外から公孫瓚軍、内から孫伉勢が一斉に郡を攻撃する。 「一郡惶恐,乃以次安慰,遂皆平集」、筑摩では「郡全体はふるえあがった。そこで順序をたてて慰撫し、かくてみな安定させた」とするところを私は「郡内はこぞって恐慌状態になったが、それから次第に落ち着いてゆき、最後にはすっかり平穏になった」とした。「漸」ではなく「以次」なので筑摩の訳が正しいように思われるが、標点本の解釈はそうではないようだ。乱暴な手を打ったためロスを支払ったが、次第に落ち着いてきたという意味らしい。「乃」「遂」が時間の経過を示しているようにも思われる。 「會魏郡太守栗攀為兵所害」。『袁紹伝』注に引く『英雄記』では「栗成」と作る。「時郡界大亂」。単なるごたごたではない。政権転覆を狙うクーデターが起こっていた。「閒」は「隙間」、友好関係にひびが入ることで、これを筑摩は「仲間割れさせ」とするのだが、それでは交易にきた敵の使者を買収する理由にならないのではないだろうか。ここでは「間者」と解す。だから「虚に乗じる」ことができたのである。虚に乗じて奇襲したのだから「輒」は「そのつど」ではなく「たやすく」の意。しかし「羽檄三至」の意味がさっぱり分からない。羽檄は鳥の羽を添えた書状で、緊急時の命令書のこと。筑摩の訳者もやはり困じはてて「増援を求める緊急の知らせ」と解しているが、それでも意味が通らない。董昭のいた魏郡は一番の激戦地なのだからそこへ増援を求めたとは考えられない。やむなく「戦捷を伝える報告書」と解したが、それでは羽檄を用いる必要性が理解できない。魏郡は袁紹の本拠地なので一秒でも早く勝利を伝えたかったということなのだろうか。 「至河內,為張楊所留」。董昭は魏郡太守だったから郡境を越えたところですぐ捕まったわけである。「時太祖領兗州,遣使詣楊,欲令假塗西至長安,楊不聽」。兗州から長安へは陸路、河南の洛陽から直行できるはずだ。それをわざわざ河内を経由しようとしたのはなぜだろうか。河南の中牟に朱儁・楊原らがあって曹操と対立関係にあったのではないか。 「當故結之」を筑摩では「なんとか彼と手を握るべきです」とする。「当」をneedの意に取っているようだ。「故」は「理由」、「当」は「相当する」で、直前の「曹操は天下の英雄」を承けて「彼と手を結ぶ理由に相当します」とすべきなのだろう。「天子在安邑」は尊敬語で書かれているので、「天子が」とはせず、「天子の」としておく。 *** 先主伝。 郝経きもいです。司馬光は正統の問題を実態と名分とに分けて考え、実態を見た場合、魏も蜀も天下統一することができなかったからとんとん、名分を見ても、劉備が中山靖王の末裔だという主張には裏付けがないといって、実態、名分いずれについても蜀を正統と見ることはできないと主張。郝経は三国の実態を見ず、名分一本槍でけたたましく叫び立ててるわけなんだけども、その名分にしても、本当に劉備が漢朝の宗室であるかどうかを検討せず、そう決め付けて強弁してる。郝経がどういう人なのかは知らない。元代の人ということなのでいろいろ思うところはあったんだろうけど、北宋の司馬光より退化してる。少なくともここに引用されてる議論だけを見れば、きもい。その一言です。 劉備の出自。鬼のように集解が付けられてるけど、劉備が中山靖王の子孫を詐称しているといったものではなくて、ほとんどが字句の誤りの指摘。いわく元狩六年ではない。いわく涿県ではない。いわく陸城ではない。いわく亭侯ではない。しかし、蜀にとって正統性を主張するにあたり柱となるべき根拠部分にこれだけの間違いがあるとなると、やはり劉備は中山靖王の子孫ではないのだろうと思ってしまう。たぶん違うんだろう。 劉備は貧しくなかったということ。演義にしても吉川英治の翻案にしても、劉備は貧しい家柄だったと言っているが、これは小説上の演出であって史料的に根拠があるわけではない。まず祖父が孝廉だった。孝廉なんてのは建前上、孝心深くて高潔な人物に与えられる資格なんだけど、実際には郡政を牛耳る高官や太守に多額の賄賂を贈らなければまあまず認められないエリートによるエリートのための金持ちによる金持ちのための勲章。劉雄の父の段階ですでに郡でも指折りの富豪だったはずだ。しかも父は県令。この人は若死にしたから県令止まりだったけれども、もし長生きしていれば太守くらいには確実になれたはずだ。地方官ともなれば現地からいっぱい賄賂を取れるんだろうなぁ。ミスリーディングを誘う一番の原因は、母と一緒に草履売りをしていたと書いてあることだろう。でも、劉備自身が行商人となって売り歩いたとはどこにも書いていない。本人は大豪邸の奥座敷に座ったまま、大勢の使用人をあごで使って、実際に接客していたのはそういう使用人だったかも知れないのだ。劉備に資金を投じた中山の大商人張世平・蘇双が貧乏人だったと考える人は一人もいないだろう。彼らは馬を売って利益を上げていた。途中で山賊に襲撃されないようある程度の武力を備えていたはずで、いわゆるキャラバンを組んで、大勢であちこちを旅しながらかなり大規模な商売をしていたのだろう。馬を売ったというのは、原文「販」。劉備が草履を売ったというのも原文は「販」だ。要するに馬売りの大商人張世平・蘇双と草履売りの劉備とでは、その売り方だけを見ればわざわざ表現を区別するほどの違いはなかったわけだ。ちなみに大商人の原文は「大商」。たなを構えて通りすがりの客をつかまえて売るのを「賈」と言い、たなを持たないで客のところまで商品を持ち歩いて売るのを「商」と言う。張世平らは旅をして馬を仕入れ、旅をして売り歩いているので「商」になる。劉備も張世平らと同じような売り方(販)をしていたというなら、やはり彼も「賈人」ではなく「商人」だったのだろう。しかし劉備自身がしょいこをかついでいたとは限らない。『後漢書』朱雋伝にこうある。「朱雋は若いころ父を失い、母は常に繒(きぬ)を売(販)るのを家業としていた。同郡の周規が公府に召されて出かけるとき、郡の倉庫から銭百万を借りて冠の費用にあてた。のちに倉庫番の兵士が督促してきたが、周規の家は貧しくて返済できなかった。そこで朱雋は母の繒を持ち出して周規のために立て替えてやった。」父を失ったあと母が物売りをして家業にしたというのだから劉備とそっくりだ。その朱雋が母の財産を使って他人の借金を肩代わりしているのだ。物売りを家業にしているからといって貧しかったとは言えないことになる。貧しいわけでもなければなぜわざわざそういうことを書く必要があるのか。当時、役所勤めをするか、本業(農業)を営むことだけがまっとうな職業であり、それ以外はまっとうな人間のやる職業ではないと考えられていた。一口に「貧賤」とは言うけれど、「貧」と「賤」とは意味が違う。貧しいけれども賤しくはないとか、貧しくはないけれども賤しいということはありうる。たとえば日本でも河原者の弾左衛門は穢多非人とさげすまれてはいたが、そこいらの並の武士よりはよほど大きな財力や権力を持っていたという。霊帝の皇后になった何氏も実家は屠殺業を営んでいたが、何氏を後宮に入れるため担当者に賄賂をつかませたという。賄賂を出すくらいの財力は有していたのだ。それだけの資金力があるのであれば、何后の父何真や兄何進が自分の手で畜獣をさばいていたとは限らないのだ。それだけではない。劉備の屋敷に高さ五丈もの桑の木が生えていたのだから、それだけに広い庭を持っていたはずなのだ。それがそのまま村の名になっていたというのだから、決して一介の村人ではありえない。その村の村長なのである。そして親戚中の子供らが劉備の家に集まってその桑の木の下で遊んだというから、同時に、劉氏一門の惣領家でもあった。そして劉備十五歳のとき母の言い付けにより盧植に師事した。劉備も、学友の劉徳然やら公孫瓚も、そして師の盧植もみな幽州の人である。だから塾が開かれていたのも幽州であったのだとついつい勘違いしそうになるが、『後漢書』公孫瓚伝によると、実際にははるか彼方の緱氏県、時の都雒陽とは目と鼻の先である(幽州上谷郡でも塾を開いたことがあるがそれはずっと後のこと)。旅費も相当なものだろうが、遊学先の物価も相当に高かっただろう。この一事をもってしても並の家柄ではありえない。 中山の豪商張世平・蘇双が劉備に出会ったのは涿郡でのこと。遊学に出ていた劉備もこのときは故郷に帰っていたということになる。 「直入縛督郵」の「直」は劉備の歩いた軌跡が直線的だったということではなくて、督郵との間に人が立って、督郵さまはお会いになるそうですよ、左様でござるか、といったやりとりをせず、相手の許可を得ないまま「今すぐ」「一方的に」ということだから、ここは「づかづか」と意訳。「ず」にしないで「づ」としたのは個人的な趣味。「つかつか」を強調するから「づかづか」。「すかすか」じゃあないよ。 無位無官どころか官憲に追われる身の劉備がなぜ毌丘毅に同行したのか。劉備が身一つで随行したところで何の役に立てるというのだろうか。きっと単身ではなかったのだ。安熹を去ったあとも劉備はずっと私兵を抱えたままで、おそらく傭兵隊長として毌丘毅に雇われ、警固を委ねられていたのだろう。そうすると下密丞の官職をすぐに去ったのも、県丞の薄給では私兵集団を給養できず、また傭兵隊長として警護の仕事を依頼されたのを機に官職を退いたのではないだろうか、と推測。 裴注では、劉備が京師から沛国へ下り、霊帝が崩御したのち挙兵したとする『英雄記』の記事を、高唐県令に任じられた以後に挿入している。しかし高唐県令への任命は公孫瓚によるものである可能性が考えられ、さすれば下密丞の職を去った直後に挿入すべきではないかと思う。 平原劉子平。劉備の武名は青州にまで鳴り響いていたのだ。もともと劉備は涿郡に限ったものではなく、冀州や青州の豪傑連とも交誼を結んでいたのだろう。張純討伐で負傷したとき、旧友が車に載せてくれたので命拾いしたというが、これを筑摩のように「車に載せて連れ出してもらい」としてしまうと、まるで、おーいちょっくら車に載せてくれい、ああいいともさあ載ってきなよ、ってな感じのやりとりがあったみたいになってしまうので、日本語にするときは「後送してもらった」と字句を補うと、重傷を負って倒れているのを旧友に発見され、ぐったりとしたのをかつがれて車に載せられたという感じになって本来の意味が伝わりやすいかと。あと筑摩では「脱出することができた」としてるけど、賊兵はすでに立ち去っているのだから、ここは「命拾いした」と訳すのが素直かと思う。 原文「將出到界」、筑摩「引っぱり出して県境までやってくると」。「将」は「ひきいる」の意。「まさに○○せんとす」とも読む。劉備は督郵を殺して逃亡しようと腹をくくっていたはずなので、この場合は「出奔するつもりで県境まで来た」という意味じゃないかと思う。原文「欲殺之.督郵求哀,乃釋去之」は、「殺すつもりではあったが、督郵が憐れみを乞うたので、そこで『釈』して立ち去った」。「釈」は、「殺すのをやめた」という意味には違いないが、同時に、「繩目を解いた」「縛ったまま見捨てた」という意識が含まれているように思う。どう読むにしても「殺すのをやめた」ことには変わらないから、あとは解いたのか見捨てたのかということを考えてみたいが、やはり劉備は激情を抱いて殺そうとまでしたのだから、それが改めて繩目を解こうとしたとはどうしても納得しがたい。人影少ない県境地帯に縛り上げたまま放置し、そのまま見捨てて立ち去った、と理解しておきたい。 「英雄記云」。書名を掲げて引用する場合、他ではみな「某書曰」とするが、ここでは例外的に「云」とする。曹操が京師を脱出したとき、すでに霊帝は崩御していたはずだ。それを『武帝紀』でも霊帝の中平六年だと言っている。董卓が権力を握ったのは霊帝崩御のあとなので、これはおかしい。 「劉平結客刺備」を「劉平は劉備を刺殺するよう食客に依頼した」とするのはまずい。「結」は「約束する」「誓約を立てる」「契約を結ぶ」で、かなり強固な意志がある。「依頼」ではそうした意志の強さが感じられない。しかしこの刺客はその依頼を裏切って劉備を助けたわけだから、「約束」「誓約」「契約」といった言葉が使えない。適切な訳語が見つからないから「依頼」でごまかしている。はじめは「言い聞かせる」ともしてみたんですけどねー、それだと劉平が一方的にしゃべってる感じになってしまうんで。刺殺の依頼というより刺殺の強要。刺殺の強要というより刺殺すると誓約することへの強要。その両者の関係性を分かりやすく簡潔な言葉で表すってのはなかなか。「是時人民饑饉,屯聚鈔暴」、筑摩のように「このころ民衆は饑饉に苦しみ、寄り集まって略奪を働いていた」とすべきかも知れない。しかしこれは漢文ではよく見られる、ペアになる表現なので、「饑饉」「鈔暴」が外から襲い来たる災い、「人民」「屯聚」がその損害を被る者と読んだ方がいいのではないかなと。「鈔暴」を「略奪を被っていた」と読んだ例はないと思うんだけど、そう読まないと文法構造が対にならない。筑摩が「身分の低い士人に対しても…同じ食器で食をとってより好みをしなかった」と書くと、まるで食べ物の好き嫌いがないと言ってるように読めてしまう。「士之下者」は身分の低い士人ではなくて、たぶん品行の悪い人物のこと。同じ席、同じ皿を用いたことを褒めているのだから、ほんとは筑摩の解釈が適切なのだが、それでは人々が帰依するほどの魅力にはならないのではないかと。 *** 複姓。 王子服 漢将軍。見蜀志先主伝。後漢書作偏将軍王服、出師表作李服。 王孫満 周大夫。見呉書張昭伝注引宜為舊君諱論。又有王孫圉、見呉書張温伝。 夏侯惇 魏大将軍。魏志惇伝曰:漢滕公嬰之後。 毌丘倹 魏鎮東将軍。魏志倹伝集解引漢書高紀師古注曰:曼丘・毌丘本一姓也。又引索隠曰:貫丘古国名衛之邑。 邯鄲淳 魏給事中。見魏志王粲伝及注。 公賓就 王莽校尉。見漢書・後漢書・後漢紀。風俗通曰:魯大夫公賓庚之後。 東郭咸陽 見御覧巻六百二十七引漢書。 梁丘賜 王莽前隊大夫属正。見後漢書・後漢紀。 二名。 王坦之 晋兗州刺史。魏司空王昶玄孫。見魏志王昶伝。 王彪之 晋廷尉。見魏志劉劭伝注。 王文雍 呉主孫権王夫人弟。見呉志妃嬪伝。 王盧九 呉主孫権王夫人父。見呉志妃嬪伝注引呉書。 王和平 魏人。見魏志華佗伝注引典論。 夏侯令女 魏曹文叔妻。見魏志曹爽伝注引列女伝。 軻比能 魏時鮮卑大人。見魏志鮮卑伝。 蛾遮塞 魏時羌大人。見魏志郭淮伝。水経河水注作遮寒。 郭玄信 魏謁者。見魏志鄧艾伝注引世語。 郭攸之 蜀侍中。見蜀志諸葛亮・董允・廖立伝。 簡位居 漢時扶余王。魏志東夷伝集解引姚範曰:簡位居立位居死七字疑衍。 *** 廬江郡の諸将。 漢末の建安年間、廬江郡では山賊に身を落とす者が数多く、その渠帥の名を重複に厭わず『三国志』中から拾い出すと、雷薄・陳蘭(袁術伝)、雷緒(夏侯淵伝)、鄭宝・陳策(劉曄伝)、梅乾・雷緒・陳蘭(劉馥伝)、陳蘭・梅成(張遼伝)、梅成・陳蘭(于禁伝)、陳蘭・梅成(張郃伝)、陳蘭(臧霸伝)、雷緒(先主伝)、鄭宝(魯粛伝)、このほか張多・許乾という者もあったが(劉曄伝)、拠点が廬江であったかどうかはっきりしない。陳蘭は後漢書で「陳簡」と書かれている。また劉曄伝に「陳策」とあるのも陳蘭のこととみて間違いない。おおよそ雷薄・陳蘭・雷緒・梅乾・梅成・鄭宝の六人が主要な顔ぶれというところか。 このうち陳蘭と同時にその名が現れるのは雷薄・雷緒・梅乾・梅成の四人であって、鄭宝を除く全員が陳蘭と同時に語られている。これは陳蘭がそのグループの中心人物であったことを示す。鄭宝は張多・許乾と同時に現れることはあっても、陳蘭らと同時に語られることはない。陳蘭らは灊山を、鄭宝は巣湖を拠点にしたとあり、両者は別個のグループを構成していたのだろう。 兵力の規模は、陳蘭数万(劉曄伝)、雷緒数万(先主伝)、梅成三千余(于禁伝)、鄭宝一万余(魯粛伝)、また鄭宝勢のうち数千は精兵であったとしている(劉曄伝)。雷薄・梅乾については分からない。しかし、どうであろうか。各々がこれだけの軍勢を抱えていたとすれば、廬江全体では優に六万余にも及び、たとい誇張はあるとしても到底信用しがたい数字になる。『後漢書』郡国志によると廬江郡の人口は四十二万余、戸口は十万余とあり、二戸ごとに一人の兵士を供出していたことになってしまう。雷薄・陳蘭・雷緒・梅乾・梅成らは一体であり、まとめて数万人を数えたのであって、それぞれが数万人づつを抱えていたのではないと考えるべきだ。なにより劉馥伝に「梅乾・雷緒・陳蘭らが軍勢数万人を集めていた」とあるのがその証拠になるだろう。「おのおの数万」ではなく、「合わせて数万」なのである。 先主伝に「雷緒数万」と語られる場合、それは陳蘭らの軍勢を加えた数であって、そうすると雷緒もまた陳蘭と同等か、それ以上の勢力を有していたと考えられる。そうでなければ「陳蘭数万」と書かれたはずだからだ。なお雷薄と雷緒とを同一人物とみる説もあるが、とくに根拠はないようだ(袁術伝集解)。 もともと廬江郡は袁術の勢力圏内であって、陳蘭・雷薄もまた袁術に従属していた。建安四年(一九九)ごろ、廬江一帯は飢饉に見舞われ、食糧に窮した袁術は灊山に入ろうとする。しかし陳蘭らの方でも食糧事情が悪かったようで、袁術を拒絶した(袁術伝)。袁術が病死したのち、配下の軍勢はやはり廬江郡に勢力を張っていた太守劉勲に合流するが、その劉勲もまた軍勢を給養できず、予章郡から食糧を調達しようとして孫策の襲撃を受け、曹操の元に出奔した(孫策伝)。曹操は厳象を揚州刺史とし(荀彧伝注)、孫策は李術を廬江太守とした(孫策伝注)。 鄭宝はそれ以前、曹操から使者が到来したとき劉曄に謀殺されており、劉曄は鄭宝の軍勢を連れて劉勲に身を寄せ、その軍勢を彼に委ねている(劉曄伝)。劉勲が孫策に敗れる以前のことだが、それが何年であるかは明らかでない。劉曄が二十歳余りだったというから、もし彼が友人の魯粛と同い年だとすれば興平年間(一九四~一九六)ごろ、魯粛より三つほど年下とすれば建安年間(一九六~二二〇)初頭の事件ということになりそうだ。 翌建安五年(二〇〇)、孫策が死んで弟の孫権が後を継ぐと、李術は孫権の命令を聞かなくなり、厳象を殺害した。孫権は曹操と連絡を取り、李術を滅ぼした(孫権伝)。この間、陳蘭らの動向は判然としないが、李術が反乱を起こしたとき陳蘭らも暴れまわったとあり(劉馥伝)、李術と行動を共にした可能性が高い。曹操が新たに劉馥を揚州刺史に任じると、雷緒らは劉馥に帰服したという(劉馥伝)。この後も廬江諸将の動向は伝えられないが、しばらく平和を享受していたのではないだろうか。 建安十三年(二〇八)、赤壁において曹操が孫権・劉備に敗れ、また揚州刺史劉馥が急逝したことにより、廬江の情勢は急激に悪化、まず孫権が合肥・当塗を攻撃したが、合肥城は堅固であり、さらに曹操が張熹を急派したので孫権は敗退した(劉馥伝・孫権伝)。このころから陳蘭らは孫権への従属を決めたようだ。曹操は「偏将」を派遣して陳蘭を討伐させたが誅殺には至らなかったというが(劉曄伝)、その時期がはっきりしない。どうも「偏将」というのは厳象を指し、揚州刺史として差し向けたことを言っているように思われる。こうした曹操の圧迫に耐えかねたのか、翌十四年、雷緒が軍勢数万人を率いて劉備に服従した(先主伝)。これは西方の劉備と、東方の雷緒とで連繋して曹操に対抗しようとしたもので、雷緒が荊州入りしたわけではないだろう。また前述した通り、ここで数万と言っているのは陳蘭以下の諸軍を含めた人数である。 十四年七月、曹操は譙から出立し(武帝紀)、寿春に着陣、このとき劉曄が陳蘭攻略を進言、曹操はその計略を聞き入れた(劉曄伝)。曹操は合肥に陣を進めて揚州の郡県に長吏を配置すると、十二月、譙へ帰還した(武帝紀)。揚州には夏侯淵以下の諸将が残っており、この歳、夏侯淵は諸将を率いて雷緒を攻撃し、打ち破った(夏侯淵伝)。 張遼伝集解に引く繁欽の「征天山賦」によると、同年十二月甲子、曹操が東征にあたり、張遼らに灊・六県を攻略させたという。それが夏侯淵の雷緒攻略と同じ作戦を指しているのか、あるいは夏侯淵と張遼とが別行動を取ったのかはよく分からない。張遼は張郃・朱蓋とともに陳蘭を攻撃し、于禁・臧霸らが梅成を攻撃した。梅成は降服したあと、すぐにまた手勢三千を率いて灊山に逃げ込み、陳蘭に合流した(張遼伝・于禁伝)。于禁はそこで食糧輸送の任務にあたり(于禁伝)、臧霸は陳蘭と孫権との連絡を絶ちきることにした(臧霸伝)。陳蘭は孫権の救援を得ることができず、灊山の要害に立て籠もったが張遼の強襲を受けて敗北した。陳蘭・梅成は斬首され、廬江の軍勢はすべて張遼軍に捕獲された(張遼伝)。こうして廬江郡の諸将はすべて平定された。