陳震 - 3Pedia

陳震Chen Zhen

チンシン

(?~235)
蜀衛尉・城陽亭侯

字は孝起。南陽郡の人。

劉備が荊州牧になったとき従事となり諸郡を取り仕切った。劉備に随行して益州平定に従軍。蜀郡北部都尉となる。蜀郡北部が郡に昇格されて陳震は汶山太守となった。のち犍為太守に転任する。建興三年(二二五)、中央に召されて尚書に任じられ、やがて尚書令に進み、勅命を受けて呉への使者として赴いた。

建興七年(二二九)、孫権が帝号を称すると、衛尉に昇進して呉に赴き、孫権の即位を祝賀することになった。武昌の都に到着すると、呉帝孫権は陳震とともに祭壇に昇り、犠牲の血をすすって盟約を結び、徐州・予州・幽州・青州を呉の領有とし、幷州・涼州・冀州・兗州は蜀の領有とし、司州は函谷関を境界として東西に分割することとした。陳震は帰国して城陽亭侯に封じられた。

同九年、李厳が責任転嫁の発言をして罷免される事件があったが、諸葛亮は蔣琬・董允に手紙をやって「陳震は以前、李厳には腹のなかに棘を抱えていると言っていた。私は棘に触れないようにすればよいと考えていたが、李厳があのような嘘八百を言うとは思わなかった」と言っている。

建興十三年(二三五)、陳震は薨じた。

【参照】諸葛亮 / 蔣琬 / 孫権 / 董允 / 李厳 / 劉備 / 益州 / 兗州 / 函谷関 / 冀州 / 荊州 / 犍為郡 / 呉 / 徐州 / 城陽亭 / 蜀郡 / 蜀郡北部 / 司隷(司州) / 青州 / 南陽郡 / 汶山郡 / 武昌県 / 幷州 / 幽州 / 予州 / 涼州 / 衛尉 / 従事 / 尚書 / 尚書令 / 太守 / 亭侯 / 都尉 / 牧