鄧芝 - 3Pedia

鄧芝Deng Zhi

トウシ

(?~251)
蜀車騎将軍・仮節・督江州・兗州刺史・陽武亭侯

字は伯苗。義陽郡新野の人。漢の司徒鄧禹の末裔。

漢の末期、蜀に入ったが人に認められるには至らず、益州従事張裕が人相を見ると聞いて彼に会いに行った。張裕は「君は七十を越して大将軍となり侯に封ぜられる」と言った。巴西太守龐羲が士を好むと聞いて彼に身を寄せる。劉備が益州を平定したとき郫県の邸閣督(食料庫監督)となった。劉備は視察で郫県を訪れたさい鄧芝と語り合い、彼を非常に高く評価した。それより郫県令、広漢太守と昇進し、それぞれの任地では清潔・厳正な態度をもってよく治め、中央に召されて尚書となった。

劉備が白帝城で亡くなると、丞相諸葛亮は呉の孫権が背くのではないかと考えたが、どうしてよいかわからなかった。そこへ鄧芝が見えて言うには「いま劉禅陛下は幼く、即位されたばかりです。呉に友好の使者を遣すべきではありませんか」。諸葛亮「わしもそれを考えているが、使者に相応しい人が見つからなかったのだ。今その人物が見つかった」、鄧芝「それはどなたで」、諸葛亮「君だ」。こうして鄧芝が派遣され、孫権との友好を図らせた。

孫権は彼を警戒して会おうとしなかったが、鄧芝は手紙を書いて「私は呉のために来ました。ただ蜀だけの利益を考えているのではありません」と上表した。そこで孫権は彼を引見し、「わしはもともと蜀との友好を望んでいたが、蜀の君主が幼くて国土が小さいことを魏に付け狙われるのではないかと心配しているのだ」と述べた。鄧芝は答えて「呉・蜀は四つの州を支配し、大王(孫権)は一世の英雄ですし、諸葛亮も一代の傑物です。蜀に険しく連なる山々の守りがあり、呉にも三江の守りがあります。互いの長所で助け合えば、天下を取ることも三国鼎立することもできます。もし大王が魏に臣従されるなら、魏は入朝せよ、太子を寄越せと言ってくるでしょう。それに逆らえば謀叛人討伐と称して攻めてくるでしょうし、蜀も長江にそって侵攻いたします。そうなれば江南は大王のものではなくなってしまいますぞ」。孫権はしばらく考えて納得した。

孫権は魏と断交し、張温を使者として蜀に返礼した。蜀も再び鄧芝を派遣した。孫権は「天下太平の世となれば、二人の君主で国を分けて治めるのも面白いじゃないか」と鄧芝に語った。しかし鄧芝は「天に二日なく地に二王なしと言います。魏を滅ぼしたのちは、双方の君主が徳を競い、双方の臣下が忠節を尽くし、将軍が陣太鼓を下げて戦いを始めるのです」と答えたので、孫権は「君らしい正直な答えだ」と大いに笑った。孫権は諸葛亮への手紙で「丁厷の言葉は上辺だけで、陰化は言葉足らずだったが、こうして両国が睦まじくできるのは鄧芝の功績だ」と述べている。

諸葛亮が漢中に駐屯したとき中監軍・揚武将軍となり、その没後は前軍師・前将軍に進んで兗州刺史を兼ね、陽武亭侯に封じられる。やがて督江州となる。孫権はたびたび鄧芝に手紙を送って鄭重に贈物をした。延煕六年(二四三)に任地で車騎将軍の辞令を受け、のち仮節を与えられた。将軍の地位にあること二十年余り、信賞必罰で臨んで兵卒をいたわり、衣食は支給だけで間に合わせて倹約も利殖もしなかったので、妻子は飢えや寒さを耐え、家には僅かな財産も遺らなかった。性格は気が強く磊落で、感情を露わにするので人々と上手く付き合えなかった。彼が他人を尊敬することは少なく、ただ姜維の才能だけを高く評価していた。

同十一年、涪陵国の住民が郡都尉を殺して叛乱を起こした。鄧芝はこれを鎮圧し、賊の首領を晒して領民を落ち着かせた。この遠征のとき鄧芝は、山道で黒い猿を見つけ、これを弩で射当てた。すると子猿が矢を抜いて母猿の傷口に木の葉を巻いた。鄧芝は「ああ、物の本性に背いてしまった。わしはもうすぐ死ぬだろう」と歎いた。同十四年、鄧芝は亡くなった。

【参照】陰化 / 姜維 / 張裕 / 諸葛亮 / 孫権 / 張温 / 丁厷 / 鄧禹 / 龐羲 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 兗州 / 漢中郡 / 魏 / 義陽郡 / 呉 / 広漢郡 / 三江 / 江州県 / 江南 / 蜀 / 新野県 / 長江 / 白帝県 / 巴西郡 / 郫県 / 涪陵郡(国) / 陽武亭 / 県令 / 侯 / 刺史 / 司徒 / 車騎将軍 / 従事 / 将軍 / 尚書 / 丞相 / 前軍師 / 前将軍 / 太守 / 大将軍 / 中監軍 / 邸閣督 / 亭侯 / 都尉 / 督 / 揚武将軍 / 仮節 / 相(人相を見る) / 鼎立