趙韙 - 3Pedia

趙韙Zhao Wei

チョウイ

(?~201)
漢征東中郎将

巴西郡安漢の人《華陽国志》。一名を趙穎ともいう《華陽国志》。

はじめ中央で太倉令の官を務めていたが、官を棄てて益州牧劉焉に従って益州帳下司馬となり、劉焉が没すると、治中従事王商らと計って劉璋を擁立した。朝廷では劉璋を監軍使者・領益州牧に、趙韙を征東中郎将に任じて荊州牧劉表を討伐させた《劉焉伝》。興平二年(一九五)、巴郡を三分割して新たに固陵郡・永寧郡を立てることを進言《華陽国志》。

益州には南陽郡・三輔地方の人々が数万戸も流れ込んでいて、劉璋は彼らから兵士を徴募して東州兵と名付けていたが、東州兵が益州の人々を害すことがあっても取り締まることができなかった。趙韙が人々の心をつかんでいたので、劉璋は彼に東州兵の問題を委ねた《劉璋伝》。建安五年(二〇〇)、趙韙はしばしば劉璋に進言したものの容れられず、そうした恨みから劉璋に叛逆する《華陽国志》。趙韙は荊州牧劉表と結び、州内の豪族らを率いて都合数万人の軍勢を擁し、蜀郡・広漢・犍為が彼に呼応した。劉璋は成都城に籠って防戦し、東州兵も必死になって反撃し、江州まで進んで趙韙を攻撃した。翌六年、趙韙の部下龐楽・李異らが裏切って、趙韙を斬殺した《劉璋伝》。

【参照】王商 / 龐楽 / 李異 / 劉焉 / 劉璋 / 劉表 / 安漢県 / 永寧郡 / 益州 / 荊州 / 犍為郡 / 広漢郡 / 江州県 / 固陵郡 / 三輔 / 蜀郡 / 成都県 / 南陽郡 / 巴郡 / 巴西郡 / 監軍使者 / 征東中郎将 / 太倉令 / 治中従事 / 帳下司馬 / 牧 / 東州兵 / 領