蒯越 - 3Pedia

蒯越Kuai Yue

カイエツ

(?~214)
漢大鴻臚・樊亭侯

字は異度。南郡中廬の人《劉表伝》。劉表の大将《劉表伝》。

蒯越は雄大な容姿を備えた英傑で、精神の奥底に智慧を満たしていた。大将軍何進はその名声を聞き、召し寄せて東曹掾とした。蒯越は宦官どもを誅殺すべきと勧めたが、何進がぐずぐずして決断しなかったので、何進の失敗は必定とみて、汝陽の県令に出向したいと申し出た《劉表伝》。

劉表が荊州刺史になったとき、長江以南には宗賊ども、魯陽には袁術、長沙には蘇代、華容には貝羽らがいて、それぞれが軍勢を抱えて混乱を起こしていた。劉表は赴任するなり宜城に入り、蒯良・蒯越・蔡瑁を招いて協議すると、蒯良は「仁義の道を行くならば百姓たちは川の流れのように帰服するでありましょう」と述べた《劉表伝》。

蒯越は「平和を統治する者は仁義を優先し、混乱を統治する者は策略を優先するものです。軍事は人数の多さではなく人材の任用によって決まるのです。袁術は勇猛ではありますが決断力がなく、蘇代・貝羽は武人に過ぎず、宗賊どもの貪欲さは下々の者に恨まれております。蒯越には昔から養ってやっている連中がおりますから、これを使者として利益を示してやれば、彼らは必ず軍勢を率いて来降いたします。使君が無法者を誅殺し、(それ以外の者を)慰撫し、任用してやれば、州内の人々はみな生命を惜しむとともに、貴君の恩徳を聞いて襁褓を背負って参りましょう。軍勢民衆が集まってから南方は江陵を占め、北方は襄陽を固めるならば、荊州八郡は檄文を飛ばしただけで平定できます。袁術らが来てもなすすべはございますまい。」《劉表伝》

劉表は「子柔(蒯良)どのの言葉は雍季の議論、異度どのの計略は臼犯の策謀ですな」と言い、蒯越に命じて宗賊どもを勧誘させ、五十五人全員を殺し、その軍勢を奪い取った。ある者には部曲を授けた。江夏の賊徒張虎・陳生が軍勢を抱えて襄陽を占拠していたので、蒯越は龐季とともに従者も付けずに出向し、降服を勧告した。こうして長江以南はすっかり平定されたのである《劉表伝》。詔書を賜って章陵太守となり、樊亭侯に封ぜられた《劉表伝》。

曹操と袁紹が官渡で対峙していたとき、袁紹は使者を遣して劉表に救援を求めてきた。劉表はそれに承知しつつも出兵せず、かといって曹操に肩入れすることもなく、長江・漢水の流域を押さえたまま天下の異変を窺っていた。従事中郎韓嵩・別駕従事劉先が「両雄が対立しておりますゆえ、天下の行方を決定するのは将軍次第です。彼らの疲弊に乗じて行動を起こすか、さもなくば荊州をこぞって曹公に帰伏なさいませ」と勧め、蒯越もそれを支持したが、劉表は決断に迷い、韓嵩を曹操のもとに遣して内情を探らせただけだった《劉表伝》。

劉備は劉表のもとに身を寄せて樊城に屯した。劉表は彼を礼遇する一方、その人となりを嫌い、あまり信用しなかった。あるとき劉表が酒宴を催して劉備を招いたが、蒯越・蔡瑁は酒宴を利用して劉備を捕縛しようとしたが、劉備に気付かれて取り逃がしてしまった《先主伝》。

建安十三年(二〇八)、曹操が劉表を征討したとき、まだ到着しないうちに劉表は病死した。人々は劉琮を跡継ぎに据えた。蒯越・韓嵩・傅巽らは曹操に帰服すべきと劉琮を説得した。曹操軍が襄陽に到着すると、劉琮は荊州をこぞって降服した《劉表伝》。

曹操は劉琮を青州刺史に取り立てて列侯に封じ、蒯越を初めとする十五人を封侯した。曹操は荀彧への手紙で「荊州を手に入れたことは嬉しくないが、蒯異度を手に入れたことが嬉しいのだ」と語っている《劉表伝》。

蒯越はのちに光禄勲にまで昇進し、十九年に卒去した。死を目前にしたとき、曹操に手紙を送って蒯氏一門のことを託すと、曹操は「死者が生き返ったとしても、生者は恥じるものではない。孤(わたし)はあまり推挙できなかったが、そうしたことはたびたび実行してきた。死者に知覚があるならば、孤のこの言葉も聞いているはずだ」と誓いを立てた《劉表伝》。

【参照】袁術 / 袁紹 / 何進 / 蒯良 / 韓嵩 / 臼犯 / 蔡瑁 / 荀彧 / 蘇代 / 曹操 / 張虎 / 陳生 / 貝羽 / 傅巽 / 龐季 / 雍季 / 劉先 / 劉琮 / 劉備 / 劉表 / 華容侯国 / 漢水 / 官渡 / 宜城侯国 / 荊州 / 江夏郡 / 江陵県 / 襄陽県 / 章陵郡 / 汝陽県 / 青州 / 中廬侯国 / 長江 / 長沙郡 / 南郡 / 樊城 / 樊亭 / 魯陽県 / 県令 / 光禄勲 / 刺史 / 従事中郎 / 太守 / 大将軍 / 亭侯 / 東曹掾 / 別駕従事 / 列侯 / 宗賊 / 部曲