董襲 - 3Pedia

董襲Dong Xi

トウシュウ

(?~212?)
漢偏将軍

字は元代。会稽郡余姚の人。

董襲は身の丈が八尺もあり、武力は人並み外れていた。孫策が会稽郡に入ったとき、董襲は高遷亭で出迎えた。孫策は彼を見て偉丈夫だと思い、門下賊曹に任命した。そのころ山陰では、かねてより賊徒の黄龍羅・周勃が数千人の徒党を集めており、孫策は自ら討伐に出かけた。董襲はその手で黄龍羅・周勃の首を斬り、帰国すると別部司馬に任じられ、兵士数千人を授かった。のちに揚武都尉に昇進し、孫策の皖城攻略、尋陽における劉勲討伐、江夏における黄祖征伐に従軍した。

孫策が薨去すると、孫権が年少ながらに事業を統括してゆくことになった。太妃(孫権の母)はそれを危惧して、張昭および董襲らを引見し、江東を保ち得るかどうかを下問した。董襲は答えた。「江東の地勢は山川の堅固さを有しておるうえ、討逆明府(孫策)さまの恩徳は民衆に行き渡り、討虜(孫権)さまが基礎を継承され、大人も小者もご命令を奉っております。張昭どのがもろもろの事務を受け持ち、董襲らが爪牙となるのですから、これぞ地が利し、人が和すときであって、万事憂いないのであります」。人々はみな彼の言葉を勇壮に感じた。

鄱陽の賊徒彭虎らが数万人を集めていた。董襲は淩統・歩騭・蔣欽とともに、おのおの手分けして討伐に当たった。董襲が向かった先ではあっさり打ち破られたので、彭虎らは(董襲の)旌旗が遠くに見えただけですぐさま逃げ散り、十日ほどですっかり平定された。董襲は威越校尉を拝命し、(のちに)偏将軍に昇進した。

建安十三年(二〇八)、孫権は黄祖を討伐した。黄祖は二艘の蒙衝を横に並べ、沔口を両側から挟むようにして守った。しゅろの大綱を石に繋いで錨とし、船上にいる兵千人が代わる代わる弩を発射すると、飛来する矢は雨のように降り注ぎ、孫権の軍勢は前進することができなかった。董襲は淩統とともに先鋒となり、おのおの敢死兵百人を率い、(敢死兵の)人々には鎧を重ね着して大舸船に乗り込ませ、(黄祖軍の)蒙衝と蒙衝の隙間に突入した。

董襲がその手に持った刀で両側の綱を切断すると、蒙衝はでたらめに流れだし、(孫権の)大軍はそのまま進撃した。黄祖はすぐさま城門を開いて逃走したが、兵士が追跡して斬って捨てた。翌日、大宴会が催されたが、孫権は盃を董襲に捧げながら言った。「今日の宴会は、綱を切断した功績があればこそだ!」

曹操が濡須に進出すると、董襲は孫権に随従して駆けつけた。(孫権は)董襲に五隻の楼船を監督させ、濡須口に駐留させた。夜中に突然、暴風が吹いて五隻の楼船は横転した。左右の側近は走舸を切り離し、董襲に脱出するよう請願した。董襲が怒りながら「将軍の任務を受けてここで賊軍に備えておるのだ。どうして投げ出して逃げることができよう!あえてまた言う者があれば斬るぞ」と言うと、彼にあえて逆らおうとする者はなかった。その夜、船は崩壊し、董襲は死んだ。孫権は喪服に着替えて葬儀に参列した。

【参照】呉夫人(太妃) / 黄祖 / 黄龍羅 / 周勃 / 蔣欽 / 曹操 / 孫権 / 孫策 / 張昭 / 歩騭 / 彭虎 / 劉勲 / 淩統 / 会稽郡 / 晥県(皖県) / 江夏郡 / 高遷亭 / 江東 / 山陰県 / 濡須 / 濡須口 / 尋陽県 / 鄱陽県 / 沔口 / 余姚県 / 威越校尉 / 討逆将軍(討逆明府) / 討虜将軍 / 別部司馬 / 偏将軍 / 門下賊曹 / 揚武都尉 / 敢死兵 / 前部(先鋒) / 走舸 / 大舸船 / 蒙衝 / 楼船