董朝 - 3Pedia

董朝Dong Zhao

トウチョウ

(?~?)
呉大司空・兼司徒・郷侯

太平三年(二五八)九月、呉帝孫亮が廃位され、かわって孫休が立てられることになった。董朝は中書郎を務めていたが、乙未、孫綝の命により宗正孫楷とともに孫休を迎えいれる使者となった。はじめ孫休が当惑の色を見せていたので、董朝らは孫綝らが彼を奉迎する意図について詳しく説明した。説得は翌日まで続き、ついに孫休の腰を上げさせた《孫休伝》。同年十月壬午、孫休を出迎えた功労により郷侯に封ぜられる《孫休伝》。

孫晧の建衡元年(二六九)、左丞相陸凱が危篤に陥ると、孫晧は中書令董朝をつかわして遺言を記録させた《陸凱伝》。このとき陸凱は二十条の諫言状を董朝に託したともいわれる《陸凱伝》。

天冊二年(二七六)八月、呉興の陽羨山に長さ十丈あまりの石があり、それは空洞があるので「石室」と呼ばれていたが、各所に瑞祥が現れていると報告された。そこで兼司徒の董朝、兼太常の周処が陽羨県へ行き、国山として封禅の儀式を行った《孫晧伝》。同地に「国山碑」が立てられ、董朝はその碑文に大司空として名を連ねている《国山碑》。「国山碑」は現存するが、摩耗が激しいため全ての文字を読むことはできない。

【参照】周処 / 孫楷 / 孫休 / 孫晧 / 孫亮 / 陸凱 / 呉 / 国山(陽羨山) / 呉興郡 / 郷侯 / 左丞相 / 司徒 / 宗正 / 大司空 / 太常 / 中書令 / 中書郎 / 国山碑 / 兼

【鏈接】《京大石刻拓本資料》呉禅国山碑