董承 - 3Pedia

董承Dong Cheng

トウショウ

(?~200)
漢車騎将軍・開府

董貴人の父、献帝(劉協)の舅《後漢書伏皇后紀》。霊帝(劉宏)の母董太后の甥で、献帝の叔父にあたるとするのは誤り《先主伝集解》。

はじめ董卓に仕え、中郎将牛輔の部曲の将であった《後漢書董卓伝》。初平三年(一九二)四月に董卓・牛輔が殺されたのち、李傕・郭汜らとともに長安に入ったものらしく、翌四年七月に献帝の御車が長安を出立したとき、郭汜・張済・楊定・楊奉とともに取り立てられ、安集将軍となった《後漢書献帝紀・董卓伝》。郭汜が天子を脅して郿県に移そうとしたが、董承は楊定・楊奉とともに反対した《後漢書董卓伝》。

御車が華陰に到達したとき、寧輯将軍段煨が衣服を献上して、自分の陣営に天子を遷そうとしたが、段煨と仲が悪かった楊定が「段煨は謀叛を企てております」と誣告した。董承は楊定に同調して「いま郭汜が七百騎を率いて段煨の陣に入りました」と言上した。天子はこれを信じて、野宿することになった《後漢書董卓伝》。

李傕・郭汜は天子を長安から出してしまったことに後悔して、天子を誘拐して西に連れ去ろうとし、御車に随行していた張済も董承・楊奉と仲が悪かったので李傕らに同調した。弘農の東の谷で戦いとなり、董承・楊奉は敗れた。数え切れないほど多くの百官・士卒が殺され、天子の御物などは残らず略奪された《後漢書董卓伝》。御車が曹陽に到達したとき、董承・楊奉は李傕らと偽りの和睦をし、河東郡に密使を送って、かつての白波賊の統帥李楽・韓暹・胡才、また南匈奴右賢王(または左賢王)去卑らを呼び寄せた。おのおの数千騎を率いて彼らがやって来ると、李傕らの軍勢を破って数千人の首を挙げ、御車はようやく進むことができた。しかし李傕らがふたたび襲ってくると、後詰めの楊奉らは敗れて多くの死者を出した《後漢書董卓伝》。

陝に到達すると楊奉らと相談し、ここで黄河を北に渡ることにした。李楽に舟を準備させて天子を乗せたが、河に落ちた者が舟に捕まろうとするので、董承は戈で彼らの指を切り、舟底に落ちた指は手ですくえるほどになった《後漢書董卓伝》。河内太守張楊が食膳を捧げて出迎え、天子を河東郡安邑に遷した《後漢書董卓伝》。

建安元年(一九六)正月、兗州牧曹操が天子を迎えようと計画し、曹洪を派遣してきた。董承は袁術の将萇奴とともに要害に籠って曹洪の侵入を阻止した《武帝紀》。二月、諸将のあいだで権力争いが起こり、董承は韓暹に攻められて張楊の元へ亡命した。七月、張楊が洛陽の宮殿を修復したのでようやく帰ることができ、張楊は大司馬、楊奉は車騎将軍、韓暹は大将軍・領司隷校尉となり、董承は韓暹と宿所を同じくした。しかし韓暹は功績を誇って政治に干渉したので、董承は密かに曹操を召し寄せた。韓暹は処罰を恐れて出奔し、董承は衛将軍に昇進して列侯に封ぜられた《後漢書董卓伝》。

同四年、董承は車騎将軍に昇進し、開府を許された《後漢書董卓伝》。董承の女は献上されて貴人となった《後漢書伏皇后紀》。献帝は曹操が政治を専断していることを憎み、董承に曹操誅伐の密詔を下した。董承は左将軍劉備と計画を立てたが、劉備は袁術討伐に出ることになり、そのまま下邳で兵を挙げた《先主伝》。董承は偏将軍王子服(または王服)・長水校尉(または越騎校尉)种輯・議郎呉碩・将軍呉子蘭らと計画を練った。翌五年正月、計画が曹操に漏れ、董承は王子服・种輯・呉碩とともに殺され、三族皆殺しになった《先主伝・後漢書董卓伝》。

【参照】袁術 / 王子服 / 郭汜 / 韓暹 / 牛輔 / 去卑 / 胡才 / 呉子蘭 / 呉碩 / 曹洪 / 曹操 / 段煨 / 种輯 / 張済 / 萇奴 / 張楊 / 董貴人 / 董太后 / 董卓 / 楊定 / 楊奉 / 李傕 / 李楽 / 劉協(献帝) / 劉宏(霊帝) / 劉備 / 安邑県 / 兗州 / 華陰県 / 河間国 / 河内郡 / 河東郡 / 下邳国 / 黄河 / 弘農郡 / 陝県 / 曹陽亭 / 長安県 / 郿県 / 洛陽県 / 安集将軍 / 右賢王 / 衛将軍 / 越騎校尉 / 貴人 / 議郎 / 左賢王 / 左将軍 / 車騎将軍 / 将軍 / 司隷校尉 / 大司馬 / 大将軍 / 太守 / 中郎将 / 長水校尉 / 寧輯将軍 / 偏将軍 / 牧 / 南匈奴 / 府(開府) / 領 / 列侯 / 白波賊