董和 - 3Pedia

董和Dong He

トウワ

(?~?)
漢益州太守・掌軍中郎将

字は幼宰。南郡枝江の人。

先祖は巴郡江州の人だったという。董和は一族を引き連れて益州に入り、牧劉璋により牛鞞・江原の県長、成都県令を任じられた。当時の益州の風俗は奢侈贅沢に傾いていたが、董和は率先して粗衣粗食に甘んじ、領民にも身分をわきまえぬ振る舞いを禁止したので、彼の統治した地域はみな治まった。しかし一部の豪族たちが彼を煙たがり、劉璋に根回しして巴東郡属国都尉に転任させようとした。ところが董和を慕う数千人の住民たちが留任を懇願したので、劉璋は二年間の留任を認めた。のち任期を終えて益州太守に栄転。異民族と協力しながら誠意を貫いた政治を行い、南方の人々は彼に信頼を寄せて尊敬した。

のち劉備が益州を平定すると掌軍中郎将に召し出され、諸葛亮とともに左将軍(劉備)の役所の仕事を担当した。善いことを勧めて悪いことを止めさせるような付き合いをして、諸葛亮と仲良くした。董和は官吏になってから、外向きには異民族の土地をよく治め、内向きには政治の中枢を担い、合わせて二十年以上になったが、彼が死んだとき家にはほとんど財産を残さなかった。

のちに諸葛亮が丞相に就任したとき、部下への命令の中でこう言った。「仕事をするからには人々の意見をよく聞いて批判を遠ざけてはならない。自分とは異なる意見を聞いて仕事を成し遂げるのは、破れた草履を棄てて珠玉を手に入れるようなものなのに、それができないのが人間というものだ。しかし徐庶だけは人々の批判をよく受け入れ、董和も仕事のうえで疑問があれば何度も考え直したり相談にやってきたりした。十分の一でも彼らの態度を見習うことができたら、私も過失を減らすことができるのだが」。「私は昔、崔州平と付き合ってたびたび欠点を指摘され、のちには徐庶からもいろいろと教えられた。董和と一緒に仕事をしたときは言うべき事を言ってくれたし、胡済には諫言してもらって間違いを改められた。私は愚か者なので全てを受け入れることはできなかったけれど、この四人とはずっと気があった。これというのも彼らが言うべき事を躊躇せず言ってくれたからだ」。

【参照】胡済 / 崔州平 / 諸葛亮 / 徐庶 / 劉璋 / 劉備 / 益州 / 益州郡 / 牛鞞県 / 江原県 / 江州県 / 枝江侯国 / 成都県 / 南郡 / 巴郡 / 巴東郡 / 巴東郡属国 / 県長 / 県令 / 左将軍 / 掌軍中郎将 / 丞相 / 属国都尉 / 太守 / 牧