董允 - 3Pedia

董允Dong Yun

トウイン

(?~246)
蜀侍中・尚書令・輔国将軍

字は休昭。南郡枝江の人。董和の子である。

蜀が建国されると皇太子劉禅のお付きとなり太子舎人を拝命、さらに太子洗馬に転任し、劉禅が即位すると黄門侍郎に昇った。

諸葛亮は北征にあたり、若年の皇帝劉禅のことを心配して「郭攸之・費禕・董允は先帝が選りすぐって陛下にお遺しになった者たちで、宮中の事は全て彼らにご相談くださいませ。もし御徳を高める言葉がなければ、董允らを処刑して職責を明らかになさってください」と上疏した。のちに諸葛亮は費禕を前線に呼び寄せ、また郭攸之はおとなしい性格だったため、劉禅に忠言を奉る役割は董允一人が担うことになってしまった。

皇帝劉禅は国中から美人を集めて後宮を満たしたいと考えたが、董允は前例をもって反対した。劉禅が宦官黄皓を寵愛するようになったが、董允は劉禅に善い行いを勧め、黄皓には厳しくあたったので、黄皓は思い切って悪事を働くことができず、官位も黄門丞までしか昇れなかった。

かつて董允は費禕・胡済とともに馬車に乗って遊びに出ようと約束したことがあった。しかし馬車の準備ができたところで、官位の低い董恢という若者が訪問してきた。董恢は馬車を見て出直そうとしたが、董允は彼を引き留め、馬車を片付けて彼を鄭重に迎えた。董允の相手の身分を問わぬ謙虚さはいつもこのようだった。

延煕六年(二四三)に輔国将軍を加えられ、翌七年には侍中・尚書令の身分のまま大将軍費禕の次官となった。

延煕九年(二四六)、董允は薨じた。人々は諸葛亮・蔣琬・費禕を董允を合わせて「四相」「四英」などと呼んでいた。

そののち陳祗が侍中となって宦官黄皓を政治の場に呼び込んだ。二人は劉禅に取り入ってご機嫌を取り、劉禅は董允を逆恨みするに至った。黄皓は中常侍・奉車都尉に昇進して権力を握り、ついに蜀を滅ぼしてしまった。

【参照】郭攸之 / 胡済 / 黄皓 / 諸葛亮 / 蔣琬 / 陳祗 / 費禕 / 董恢 / 董和 / 劉禅 / 劉備(先帝) / 枝江侯国 / 蜀 / 南郡 / 黄門丞 / 黄門侍郎 / 侍中 / 尚書令 / 太子舎人 / 太子洗馬 / 大将軍 / 中常侍 / 奉車都尉 / 輔国将軍 / 宦官 / 後宮 / 四英 / 四相