秦宓 - 3Pedia

秦宓Qin Mi

シンビツ

(?~226)
蜀大司農

字は子勑。広漢郡緜竹の人。

若くして才能と学問があり、州郡から招聘されたが病を称して出仕せず、儒学者の任安を益州牧劉焉に推挙した。また益州治中従事王商も秦宓に出仕を勧めたが、やはり辞退した。あるとき李権という人が『戦国策』を借りに来たが、秦宓は「人を殺して自分だけが生き残るための書物だ」と言って彼を戒めている。

劉備が益州を支配するようになると、広漢太守夏侯纂が秦宓を「仲父」と呼んで師友祭酒・五官掾に招いた。秦宓は仮病を使って屋敷に籠っていたが、夏侯纂が訪ねてきて「仲父、益州とはどのような国か」と訊いた。すると秦宓は益州を流れる長江が中華第一の大河であること、益州生まれの禹が治水により空前絶後の業績を立てたこと、天帝が益州に連動する星座を見て政策を決めることなどを滔々と述べ、小人物のためには仕官しないことを暗に宣言した。

のち益州から招かれて初めて出仕し、従事祭酒となった。劉備が呉の孫権を討とうとしたとき、天の与える時機ではないと反対したため牢獄に幽閉された。建興二年(二二四)、丞相諸葛亮が益州牧を兼任するようになると別駕従事に迎えられ、さらに左中郎将・長水校尉に進められた。

呉の張温は使者として蜀に来訪すると秦宓に尋ねた。張温「あなたは学問をするのか」、秦宓「学問は五尺の童子でもするものだ」、張温「天に頭はあるか」、秦宓「西にある。『詩経』に『乃ち眷として西顧する』とある」、張温「では耳はあるか」、秦宓「やはり『詩経』に『鶴は九皋に鳴き、声は天に聞こゆ』とある」、張温「では足は」、秦宓「これも『詩経』にある。『天の歩みは艱難、この子猶らず』。」、張温「では姓はあるのだろうか」、秦宓「劉氏だ。天子の姓が劉氏だからそうと分かる」、張温「日は東より生まれるが」、秦宓「東に生まれて西で死ぬのだ」。こうして打てば響くように答えて、張温は大いに敬服した。

大司農に昇進し、建興四年(二二六)、逝去した。

【参照】禹 / 王商 / 夏侯纂 / 諸葛亮 / 任安 / 孫権 / 張温 / 李権 / 劉備 / 劉焉 / 益州 / 呉 / 広漢郡 / 蜀 / 長江 / 緜竹県 / 五官掾 / 左中郎将 / 師友祭酒 / 従事祭酒 / 丞相 / 大司農 / 太守 / 治中従事 / 長水校尉 / 別駕従事 / 牧 / 詩経 / 戦国策 / 儒学 / 仲父