种劭 - 3Pedia

种劭Chong Shao

チュウショウ

(?~194)
漢益・涼二州刺史

字は申甫。河南尹雒陽の人。种払の子。

种劭は若くして名を知られ、中平年間(一八四〜一八九)末期に諫議大夫となった。

大将軍何進が宦官らを誅殺しようとして幷州牧董卓を呼びよせたとき、董卓が澠池に到着したのに、何進の方ではまた心変わりし、种劭に詔勅を届けさせて董卓を留めようとした。董卓は聞き入れず、そのまま河南まで進軍した。

种劭は彼を迎え入れて労をねぎらうとともに、軍勢を引き返すよう説得した。董卓は「すわ変事出来か」と思い込み、兵士に命じて武器を突きつけて种劭を脅した。种劭は腹を立てて「詔勅である!」と大声で怒鳴りつけ、兵士どもがみな引き下がると、つかつかと進みでて董卓を難詰した。董卓は返す言葉もなく、軍勢を夕陽亭に返した。

何進が敗北して献帝が即位すると、种劭は侍中を拝命した。董卓は権力を欲しいままにすると、种劭の強力さを疎ましく思い、議郎に左遷し、(そののちに)益・涼二州刺史に出向させようとした。ちょうど父の种払が戦死したため、着任せずじまいになった。

ここでは着任していないこととされているが、『後漢書』献帝紀には「前益州刺史」、『後漢紀』には「故涼州刺史」とある。任地への道中で父の訃報を受けて引き返したということだろうか。

服喪を終えると、中央より少府・大鴻臚に徴されたが、みな辞退して受けず、「むかし我が父君は身をもって国家に殉じた。私は臣下でありながら悪党を除いて復讐を果たすこともできずにおるのに、どの面下げて明主に拝謁できようか!」と述べた。こうして馬騰・韓遂および左中郎劉範・諫議大夫馬宇とともに李傕・郭汜を攻め、敵討ちしようとした。興平元年(一九四)三月、長平観の下で郭汜と戦ったが、戦いに敗れ、种劭らはみな死んだ。

【参照】何進 / 郭汜 / 韓遂 / 种払 / 董卓 / 馬宇 / 馬騰 / 李傕 / 劉協(献帝) / 劉範 / 益州 / 河南尹 / 河南県 / 夕陽亭 / 長平観 / 幷州 / 黽池県(澠池県) / 雒陽県 / 涼州 / 諫議大夫 / 議郎 / 左中郎 / 刺史 / 侍中 / 少府 / 大鴻臚 / 大将軍 / 牧