段煨 - 3Pedia

段煨Duan Wei

ダンワイ

(?~209)
漢大鴻臚・光禄大夫・闅郷侯

字は忠明《後漢書董卓伝集解》。武威郡の人《賈詡伝》。

初平元年(一九〇)三月、董卓は洛陽の宮殿・人家を焼いて天子を長安に遷したが、このとき東中郎将董越を弘農郡黽池に、中郎将段煨は同郡華陰に、中郎将牛輔を河東郡安邑に、その他の中郎将・校尉も諸県に駐屯させて山東の義兵を防がせた《後漢書董卓伝》。段煨は農業に力を入れて略奪を働かなかった《賈詡伝》。学者董遇や楽士李堅らが段煨に身を寄せている《王朗伝・晋書楽志》。

董卓が誅殺されると、李傕・郭汜らが天子を脅して政権を握ったが、仲違いしてせめぎ合った。興平二年(一九五)七月、天子の御車が長安を出立して洛陽に向かう途中、郭汜が天子を脅迫して郿に連れて行こうと企てた。楊定・楊奉・董承が反対したので、郭汜は李傕と手を結んだ《後漢書董卓伝》。

御車が華陰に到着すると、寧輯将軍段煨は天子に御服を献上し、公卿以下に物資を援助し、わが陣営に遷座されよと天子に請願した。ところが段煨は馬上で手綱をとったままで下馬しようとしなかった。そこでもともと段煨と仲が悪かった楊定は彼が謀叛を企てていると誣告した。天子が「段煨はわざわざ迎えにきてくれたのに、どうして謀叛などというのか」と問うと、楊定と親しかった侍中种輯は「御前にいたっても下馬せず、顔色が尋常ではありません。必ずや異心を抱いておりましょう」と答えた。大尉楊彪が「段煨が叛逆しないことを臣らは死をもって保証いたします。御車を彼の陣営に幸なされませ」と擁護した《後漢書董卓伝》。

そのころ李傕・郭汜は天子を東方にやったことを後悔し、段煨を支援するという名目で接近し、内心では天子を誘拐して西方に連れて行こうと企てていた。天子が段煨の心中を計りかねていると、董承・楊定は「いま郭汜が七百騎を率いて段煨の陣営に入りました」と言上した。こうして天子は楊定らを信じ、段煨の陣営を避けて弘農の東の谷間で露営した。李傕・郭汜は天子の軍勢を襲撃し、楊奉・董承と仲が悪かった張済も李傕らに同調した。楊定は李傕の仲間であるとして、段煨の陣営を十日余りにわたって攻撃した。それでも段煨は天子のために御膳を奉献し、百官に資金援助して二心を抱くことはなかった《後漢書董卓伝》。

李傕に仕えていた賈詡は、彼から受けた宣義将軍の印綬を朝廷に返還し、同郡出身の段煨に身を寄せて華陰に行った。賈詡にはもともと名声があり、軍中でも期待の的となった。段煨は軍勢を奪われてしまうのではないかと内心恐れたが、表面では賈詡に敬意を払って礼遇をきわめて篤くした。賈詡が南陽に駐屯していた張繡に招かれて立ち去ると、彼が張繡と自分とのあいだを取り持ってくれるのではないかと期待し、彼の家族を手厚く世話した《賈詡伝》。

建安三年(一九八)四月、謁者裴茂に従って李傕を討伐し、三族皆殺しとした《後漢書献帝紀》。その功績によって安南将軍・闅郷侯(闅郷亭侯とも)となった《後漢書董卓伝》。そののち鎮遠将軍・領北地太守となったようである《後漢書董卓伝集解》。

段煨は中央に召されて大鴻臚・光禄大夫となり、同十四年、病にかかって卒去した《賈詡伝・後漢書董卓伝》。

【参照】賈詡 / 郭汜 / 牛輔 / 种輯 / 張済 / 張繡 / 董越 / 董遇 / 董承 / 董卓 / 裴茂 / 楊定 / 楊彪 / 楊奉 / 李傕 / 李堅 / 劉協(天子) / 安邑県 / 華陰県 / 河東郡 / 弘農郡 / 山東 / 長安県 / 南陽郡 / 郿県 / 闅郷 / 武威郡 / 黽池 / 北地郡 / 洛陽県 / 安南将軍 / 謁者 / 郷侯 / 校尉 / 公卿 / 光禄大夫 / 侍中 / 宣義将軍 / 大尉 / 大鴻臚 / 太守 / 中郎将 / 鎮遠将軍 / 亭侯 / 東中郎将 / 寧輯将軍 / 夷(三族皆殺し) / 印綬 / 学者 / 楽人 / 領