楊定 - 3Pedia

楊定Yang Ding

ヨウテイ

(?~?)
漢後将軍・開府・列侯

字は整脩。涼州の大人《董卓伝集解》。

はじめ董卓の部曲の将であったが《後漢書董卓伝》、初平三年(一九二)五月、李傕・郭汜らが兵を率いて長安に迫ると、司徒王允は胡軫・楊定らに迎撃させた。もともと彼らは王允と仲が悪く、このときも王允は二人を呼びつけて、優しげな表情を作らずに「関東の鼠めは何をするつもりか。卿らは行って呼んできなさい」と言ったので、楊定らは彼を憎み、新豊まで行って李傕に降伏した《董卓伝・後漢書董卓伝》。

興平元年(一九四)七月甲子、楊定は鎮南将軍から安西将軍に昇進し、三公のごとく開府した《後漢紀》。翌二年春、李傕が樊稠を殺したことから諸将は疑心暗鬼となり、楊定は李傕に殺されることを恐れ、郭汜とともに献帝(劉協)を自分たちの陣営に招き入れた。李傕はそれを知って、兄の子李暹に数千人を与えて攻撃させた《董卓伝・後漢書同伝》。李暹は天子を誘拐し、郭汜も公卿を人質に取った。楊定は郭汜・張済らと手を結んで李傕を脅かせた《董卓伝》。六月、張済が李傕・郭汜を和睦させた《董卓伝・後漢書献帝紀》。

七月丙寅、楊定は張済・郭汜・楊奉・董承とともに取り立てられ、後将軍となって列侯に封ぜられ、天子の長安出立に随行して洛陽を目指した。八月甲辰、侍中尹忠を自分の長史にしてくれるよう請願したが、帝は「侍中は側近であるゆえ、そのような任務に就けて関東の笑い物になってはならぬ。どうして官職爵位の濫発ができようか?」と述べて却下した《後漢書献帝紀・後漢紀》。

九月丙子、郭汜が御車を郿に移そうと企てたので、侍中种輯・城門校尉衆(楊衆?)は楊定・董承・楊奉に急いで新豊へ行くようにと告げた。郭汜は計画が洩れたと知って逃走した《後漢書献帝紀・後漢紀》。十月戊戌、郭汜の一味夏育・高碩らが反逆して御車を連れ去ろうとしたので、楊定・董承は天子を迎えて楊奉陣営に移し、楊奉とともに夏育らを撃破、首級五千を斬った《後漢紀》。

壬寅、御車が華陰に到達すると、寧輯将軍段煨が衣服と食事を献上して、自分の陣営に天子を招いた。楊定はかねて段煨と仲が悪く、彼が御車の前でも下馬しなかったので、仲の良かった种輯に「段煨は謀叛を企てています」と誣告させた。董承も「郭汜が七百騎を率いて段煨の陣営に入りました」と言ったので、天子は野宿することになった《後漢書董卓伝》。

丁未、楊定・楊奉・董承は段煨を攻撃すべく、种輯・左霊を通じて(段煨追討の)詔勅を引き出そうとした。帝は「王者が征伐を行う場合、天意に沿い民心に従うもの。どうして詔勅が必要なのか?」と延べ、却下した。その夜、段煨陣営に攻撃をかけたが、十日余り経っても陥落させられなかった。司隷校尉管命が包囲を解かせようとしたので、楊定らはそれをうるさがり、楊奉を副官にしてくれるよう要請して管命を殺そうとした。帝はその下心を察知して許可せず、楊定らに帰陣を命じた《後漢紀》。

十一月、李傕・郭汜は天子を長安から出したことを後悔していたので、楊定が段煨を攻撃していると聞いて、段煨を救援するぞと言いつつ、また誘拐して西方へ連れてこようと計画した。楊定は彼らの到来を聞いて藍田に帰ろうとしたが、郭汜に遮られたため、ただ一騎にて荊州に出奔した《後漢書董卓伝・後漢紀》。

【参照】尹忠 / 王允 / 夏育 / 郭汜 / 管命 / 胡軫 / 高碩 / 左霊 / 段煨 / 种輯 / 張済 / 董承 / 董卓 / 樊稠 / 楊衆 / 楊奉 / 李傕 / 李暹 / 劉協(献帝) / 華陰県 / 関東 / 荊州 / 新豊県 / 長安県 / 郿県 / 雒陽県洛陽県) / 藍田県 / 涼州 / 安西将軍 / 興義将軍 / 後将軍 / 三公 / 侍中 / 司徒 / 城門校尉 / 司隷校尉 / 長史 / 鎮南将軍 / 寧輯将軍 / 列侯 / 大人 / 府