李義 - 3Pedia

李義Li Yi

リギ

(?~?)
魏太僕

字は孝懿。馮翊郡東県の人《裴潜伝》。一名を李恢という《杜畿伝》。中平年間(一八四〜一八九)の末頃、二十歳余りだった《裴潜伝》。

性質は重厚で葬儀を取り仕切ることが得意だった。もともと東県には官吏を出す名門がなかったが、隣県の名族桓氏・田氏・吉氏・郭氏、また元の侍中鄭文信らは、同県の厳幹とともに彼を認めた。三輔が混乱したとき、人々は難を避けて土地を離れたが、李義と厳幹は知人たちとともに残り、薪取りをして生計を立てた《裴潜伝》。

建安元年(一九六)に東西の交通が回復すると、詔勅によって馮翊郡は東西に分割された。李義の故郷は西側の左内史郡に属すことになったが、李義は厳幹に「左内史郡の小僧らと席を争うのはごめんだ。今は一緒に方牀(?)を作るだけにしよう」と告げ、東側に仕えて重職に就いた。その年末、厳幹は孝廉に推挙され、李義は上計掾に任じられた。のち都に留まって平陵県令となり、冗従僕射に昇進した《裴潜伝》。

建安十八年(二一三)五月、曹操は魏公になると李義を招いて軍祭酒とし、のち尚書左僕射に昇進させた。曹丕が帝位に昇ると李義は諫議大夫となり、のち衛尉に昇進し《裴潜伝》、また太僕に転じたが《杜畿伝》、在職中に卒去した《裴潜伝》。李義は人と付き合うとき、正直さをもって誠実を貫いた。そのため陳羣らも彼と対等に付き合ったのである《裴潜伝》。

子李豊は父の縁故で軍に入って名声を得たが、李義はそれを好ましく思わず、門を閉ざして客の来訪を断った《裴潜伝》。李義は杜畿とも親交を結んでいたが、李豊が杜畿に会ったとき、杜畿は「李義には子がないばかりか、家までなくなってしまうだろう」と嘆じた《杜畿伝》。はたして李豊は大将軍司馬昭の暗殺を企てた廉で、夏侯玄らとともに三族皆殺しとなった《夏侯尚伝》。

【参照】夏侯玄 / 郭氏 / 桓氏 / 吉氏 / 厳幹 / 司馬昭 / 曹操 / 曹丕 / 陳羣 / 鄭文信 / 田氏 / 杜畿 / 李豊 / 魏郡 / 左内史郡 / 三輔 / 東県 / 馮翊郡 / 平陵県 / 衛尉 / 諫議大夫 / 軍祭酒 / 県令 / 公 / 孝廉 / 上計掾 / 冗従僕射 / 尚書僕射(尚書左僕射) / 侍中 / 大将軍 / 夷三族(三族皆殺し)