文聘 - 3Pedia

文聘Wen Pin

ブンペイ

(?~226?)
魏後将軍・持節・新野威侯

字は仲業。南陽郡宛の人。

はじめ劉表の大将として北方の守りを担当した。劉表が亡くなると子劉琮は曹操に降伏した。しかし文聘は「荊州を守ることができなかったので、処罰を受けるのが当然です」と言ってお召しに応じなかった。曹操が漢江を渡るころになってようやく出頭した。曹操に「なぜ遅かったのだ」と問われ、「私は劉表さまを補佐して天子にお仕えするつもりでしたが、劉表さまはお隠れになりました。そこで遺児劉琮さまを守り立てて、漢川を防御戦として荊州を守ることにしました。その計画も失敗し、悲しみと恥ずかしさのあまりお顔を会わせることができなかったのです」と言い、涙を流してすすり泣いた。曹操も痛ましく思って「仲業、そなたは真の忠臣だ」と言い、彼を礼遇した。

曹操は文聘と曹純に劉備を追撃させた。こうして荊州が平定されると、曹操は文聘を江夏太守として、北方の兵を授けて呉との国境を守らせ、また関内侯の爵位を与えた。楽進とともに尋口で関羽を討伐して、延寿亭侯に進み、討逆将軍に任命された。また漢津で関羽の輜重隊を攻撃し、荊城で敵の船を焼き払った。

文帝(曹丕)が帝位に昇ると、長安郷侯に転封となり、節を与えられた。夏侯尚とともに江陵包囲作戦に従事し、文聘は別働隊として沔口に駐屯することになったが、途中の石梵で宿営したとき敵に遭遇し、それを撃退する武功を立てたので後将軍に昇任し、新野侯に取り立てられた。

黄初七年(二二六)八月《明帝紀》、孫権が五万の軍勢を率いて、自ら石陽の文聘を包囲した。ちょうど石陽では大雨が降って城壁が崩れていたが、まだ補修できないでいた。文聘は孫権の来襲を聞いて困じ果てていたが、わざと静寂を守って孫権に疑念を抱かせるしかないと考えた。そこで外からは城内の人が見えないようにして、自分は官舎に寝そべって立ち上がろうとしなかった。孫権はこれを見ると、「曹操は文聘を忠臣だと考えて、この郡を守らせているのだ。それなのにわしが来てもじっとしている。伏兵があるに違いない。そうでなければ援軍が来ているのだろう」と語り、二十日余りで包囲を解いて撤退した。文聘は孫権を追って撃破した。五百戸を加増され、合計千九百戸となった。

文聘は江夏郡を数十年にわたって守ったが、威信と恩寵によって敵国にも名声はとどろき、敵もあえて侵入することができなかった。文聘の所領は分割され、子文岱が列侯に取り立てられた。また文聘の従子文厚が関内侯となった。文聘は逝去すると威侯と諡された。文岱は先に亡くなっていたので、文聘の養子文休が相続した。文休が亡くなると、子文武が相続した。

【参照】夏侯尚 / 楽進 / 関羽 / 曹純 / 曹操 / 曹丕 / 孫権 / 文休 / 文厚 / 文岱 / 文武 / 劉協(天子) / 劉琮 / 劉備 / 劉表 / 宛県 / 延寿亭 / 漢江 / 漢津 / 漢川 / 荊州 / 荊城 / 呉 / 江夏郡 / 江陵県 / 尋口 / 新野県 / 石梵 / 石陽 / 長安郷 / 南陽郡 / 沔口 / 威侯 / 関内侯 / 郷侯 / 侯 / 後将軍 / 太守 / 大将 / 亭侯 / 討逆将軍 / 列侯 / 諡 / 節