廖立 - 3Pedia

廖立Liao Li

リョウリツ

(?~?)
蜀長水校尉

字は公淵。武陵郡臨沅県の人。

劉備が荊州牧になったときに召し出されて従事とされ、まだ二十代のうちに長沙太守に抜擢された。諸葛亮は孫権からの手紙に答えて「龐統と廖立は楚(荊州)の良才で、後世に伝えるべき功業を補佐し、興隆できる人物です」と述べている。建安二十年(二一五)、呉の呂蒙が長沙・零陵・桂陽の三郡を襲撃すると、廖立は益州に逃れた。劉備は彼を深くは責めず巴郡太守に任じた。

同二十四年に劉備が漢中王に昇ると中央に召されて侍中となり、のち劉禅が帝位に即いたとき長水校尉に転任する。彼は内心、才能・名声ともに諸葛亮に次ぐと自負していたので、閑職に移されたことが不満であった。あるとき丞相掾李劭・蔣琬が訪ねてくるとこう言った。

「先帝(劉備)は漢中を手に入れようとせず、呉と荊州南三郡を争ったすえ奪われ、漢中が曹操の手に落ちると夏侯淵・張郃らが攻めてきて益州も危ないところだった。ようやく漢中に入ったと思ったら関侯(関羽)は一兵卒も残さず滅ぼされ、上庸地方も失った。それは関侯が武力に頼って滅茶苦茶な行動をとったからだ。治中文恭の仕事はでたらめだし、長史向朗などはむかし馬良兄弟を聖人だと思い込んで尊敬さえしていた。郭攸之は人の後ろを付いて行くことしかできないのに侍中の大任に就いている。まさに今は末世なのだ。王連のような俗物が偉ぶってるから民衆は疲弊してこんな事態になったのだ」。

この言葉を李劭・蔣琬が諸葛亮に言上した。諸葛亮は帝に上表して廖立を庶民に落とし、汶山郡に流した。廖立は妻子とともに汶山郡に赴き、農耕を営んで生計を立てていたが、のちに諸葛亮が没したと聞くと「わしは蛮民になってしまう」と涙を流して歎いた。姜維は軍勢を率いて汶山を通過したとき廖立を訪ねたが、彼の気迫が衰えず言論も以前通りだったことを称讃した。廖立は配所で死亡した。

【参照】王連 / 夏侯淵 / 郭攸之 / 関羽 / 姜維 / 諸葛亮 / 向朗 / 蔣琬 / 孫権 / 曹操 / 張郃 / 馬良 / 文恭 / 龐統 / 李劭 / 劉禅 / 劉備 / 呂蒙 / 益州 / 漢中郡 / 荊州 / 桂陽郡 / 呉 / 上庸郡 / 楚 / 長沙郡 / 巴郡 / 汶山郡 / 武陵郡 / 臨沅県 / 零陵郡 / 王 / 侍中 / 従事 / 丞相掾 / 太守 / 治中従事 / 長史 / 長水校尉 / 牧 / 馬氏五常(馬良兄弟)