崔鈞 - 3Pedia

崔鈞Cui Jun

サイキン

(?~?)
漢西河太守

字は元平。博陵の人。大尉崔烈の子、崔州平の兄《諸葛亮伝・同集解》。「崔均」とも作る《諸葛亮伝》。

父崔烈は北方の州で名声があり、太守・九卿を歴任していた。しかし霊帝の時代、五百万銭を投じて司徒の官職に就いたため名声を失ってしまった。崔烈はしばらくして虎賁中郎将の子崔鈞に訊ねた。崔烈「吾が三公になったことについて、みんなはどう言ってるのかな」、崔鈞「大人(ちちうえ)は優れた名声をお持ちで、九卿・太守を歴任され、三公になるべきでないと言う者はおりませんでした。ところが今その位に昇られますと天下は失望いたしております」、崔烈「どうしてかね?」、崔鈞「言挙げする者は銭臭さを嫌っているようです」《後漢書崔駰伝》。

崔烈が怒って杖を振り上げて崔鈞を殴ったので、崔鈞はあわてふためいて走り去った。崔烈が「命懸けの役職に就いていながら、父に打たれると逃げるのか!それで親孝行と言えるのか!」と罵倒すると、崔鈞は「舜は父に仕えていたとき杖で打たれて逃げましたが、親不孝とは言えないでしょう」と答えた。崔烈は恥ずかしくなって止めた《後漢書崔駰伝》。

崔鈞は若いころから英雄・豪傑と交わって名声を挙げたが、議郎になると忠実・率直さによって称賛された。のちに西河太守になった《後漢書崔駰伝・同集解》。崔鈞には雅心があり、漢末の王公が正装を脱いで幅巾を着けたのを真似て、いつも絹の頭巾を被っていた《武帝紀》。献帝が即位すると袁紹とともに山東で義兵を起こした。そのため董卓は崔烈を収監した。董卓が誅殺されると崔烈は城門校尉となったが、李傕が長安に入ったとき乱戦の中で殺害された。崔鈞はいつも父のために復讐することを念頭に置いていたが、まもなく病気で卒去した《後漢書崔駰伝・同集解》。

【参照】袁紹 / 崔州平 / 崔烈 / 舜 / 董卓 / 李傕 / 劉協(献帝) / 劉宏(霊帝) / 山東 / 西河郡 / 長安県 / 博陵郡 / 九卿 / 議郎 / 虎賁中郎将 / 三公 / 司徒 / 城門校尉 / 大尉 / 太守 / 大人 / 売官 / 幅巾