宗承 - 3Pedia

宗承Zong Cheng

ソウショウ

(?~?)
魏諫議大夫

字は世林。南陽安衆の人。宗資の子《世説新語》。

若いころから徳行を重ねて公明正大、堂々として群れをなさなかった。郷里の敬慕を受け、お徴しを被っても出仕しなかった。その人徳を聞いて訪問してくる者は(門前で)林をなした《世説新語・晋書王湛伝》。

父の宗資が亡くなると祖先の墓に埋葬したが、自分で土を背負って塚を作り、使用人の手を借りなかった。一晩のうちに盛り土の高さは(勝手に)五尺になり、松や竹がそこに生えた《太平御覧》。

曹操は若いころ、たびたび彼の邸宅を訪れていたが、ちょうど賓客たちが殺到していたころで、なかなか発言することができなかった。そこで機会を窺い、宗承が席を立ったときに歩み寄って引き止め、手を握って交流を求めた。宗承はその人となりを深く軽蔑し、拒絶して受け入れなかった《世説新語》。

袁術は京師にあって袁紹と名誉を競っていたが、何顒が袁紹と親しいのを恨んでいた。宮殿の門前で宗承に会うと、袁術が腹を立てて「何伯求は悪徳の輩だ。吾が奴めを殺してやる」と言った。宗承は「何生は英俊の士でございますゆえ、足下はあれを厚遇し、ご名声を天下に広められませ」と答え、思い止まらせた《荀攸伝》。

曹操が司空として朝政を掌握してからのこと。のんびりとして宗承に訊ねた。「貴卿はむかし吾に振り向いてくれなかったものじゃが、今でも交流してくれないのかね?」宗承は答えた。「松柏の志はまだ残っております。」曹操は機嫌を損ねたが、それでも名士賢者であるということで、彼を尊敬しつづけ、息子の文帝(曹丕)に命じて子弟の礼を取らせ、私邸へ赴いて漢中太守に任命した。しかし、曹操の気持ちに背いてからというもの、宗承は遠ざけられ、その官位は徳望に釣り合うものではなかった《世説新語》。

曹操が冀州を平定して鄴に入ったとき、宗承はそれに付き従っていたが、陳羣らは(曹操を無視して)みな彼に向かって拝礼した。曹操はそれでも昔のままの気持ちで彼に接し、官位は低くとも礼遇は厚く、私邸を訪れて朝政について訊ね、その際には賓客の右側(上位)に座らせていた。文帝兄弟もまたいつも彼の邸宅へ行き、みな牀の側で拝礼した。これほどの尊重を受けたのである《世説新語》。

文帝は(即位したのち)彼を徴しだして直諫大夫に任じた。明帝(曹叡)は彼を招いて宰相に取り立てようと思ったが、宗承は老年を理由に固く断った《世説新語》。

直諫大夫の官名は他書にも見えない。諫議大夫の誤りだろう。

文帝の時代、司空王昶はこう上表している。「むかし南陽の宗世林とともに東宮の属官でございましたが、世林は若くして名声を博し、州里の敬慕を集めておりました。しかし年老いてからは保身に汲々とし、罷免されることばかり心配しましたので、当時の人々はみな彼のことを笑ったものでございます。」《晋書王湛伝》

曹操との交友を断ったのに、曹丕には臣従したことを揶揄しているのである。

【参照】袁紹 / 袁術 / 王昶 / 何顒 / 宗資 / 曹叡(明帝) / 曹操 / 曹丕(文帝) / 陳羣 / 安衆県 / 漢中郡 / 冀州 / 鄴県 / 南陽郡 / 諫議大夫(直諫大夫) / 司空 / 相(宰相) / 太守 / 子弟礼 / 州里(郷里) / 東宮