孟達 - 3Pedia

孟達Meng Da

モウタツ

(?~228)
魏仮節・建武将軍・散騎常侍・新城太守・平陽亭侯

字は子敬、のち子度《劉封伝》。扶風の人。孟他の子《明帝紀・法正伝》。

建安年間(一九六〜二二〇)の初め、天下で飢饉が起こったため、孟達は同郡の法正とともに蜀の劉璋に身を寄せた《法正伝》。

別駕従事張松が「劉予州(劉備)は使君(知事どの)の同胞でございますので、交誼を結ぶべきかと存じます」と説得したので、劉璋はもっともだと思い、法正を派遣して先主(劉備)と好を通じ、ほどなく法正および孟達に軍兵数千人を送らせて先主を支援した《劉璋伝》。孟達は法正の副使として随行していたが、法正が帰国したあと、先主は彼らの軍勢を合わせて孟達に宰領させ、江陵に留め置いた《劉封伝》。蜀が平定されると孟達は宜都太守に任じられた《劉封伝》。

建安二十四年(二一九)、孟達は秭帰から北上して房陵を攻めよと命じられた。房陵太守の蒯祺は孟達の手勢に殺された。孟達が上庸へ進攻しようとしたとき、先主は内心、孟達単独では難しかろうと思い、劉封に孟達軍を統率させるべく漢中から沔水を下らせ、上庸で孟達と落ち合わせた。上庸太守申耽が軍勢を挙げて降服し、妻子および一族を(人質として)成都に差し出すと、申耽は上庸太守に復し、弟の申儀は西城太守に任じられた《劉封伝》。

関羽は樊城・襄陽を包囲して以来、続けざまに劉封・孟達を呼び、軍勢を催して自分を支援せよと命令した。劉封・孟達は山中の郡が帰服したばかりなので動揺させてはなるまいと考え、関羽の命令に承知しなかった。関羽が敗北すると、先主は彼らに恨みを抱いた。しかも劉封と孟達とはいがみ合って仲が悪く、劉封が孟達の鼓吹を没収した《劉封伝》。孟達は罪責を恐れるのと劉封への怒りとによって、延康元年(二二〇)、とうとう先主に辞去を告げ、部曲四千家余りを引き連れて魏に帰服したのである《明帝紀・劉封伝》。

魏の文帝(曹丕)はこのとき王位に就いていたが、かねてより孟達のことを聞いていたので非常に喜び、見る目のある臣下をやって観察させると「将帥の才でございます」、または「公卿の器でございます」とのことであったので、王はますます孟達を好ましく思い、孟達に手紙を送り、うやうやしく彼を迎え入れた《明帝紀》。

孟達が譙に到着して拝謁すると、進退の有様は優雅、才能弁舌は人並み以上であり、注目せざる人はなかった。王は近くまでお出ましになったとき、小さな輦に乗り、孟達の手を取って背を撫で、「卿が劉備の刺客でなければよいが」と冗談を言いながら同乗させた《明帝紀》。

文帝は孟達の容姿風采を称え、散騎常侍・建武将軍として節を仮し、平陽亭侯に封じ、房陵・上庸・西城の三郡を合わせて新城郡を作ると、孟達に新城太守を領させた《劉封伝・晋書宣帝紀》。郤正の父郤揖は孟達の営都督であったが、孟達とともに魏に降って中書令史となった《郤正伝》。

群臣の中には孟達への待遇が度外れであり、地方の任務を委ねてはならぬと主張する者もあったが、王はそれを聞いても「吾は彼に他意のないことを保証しよう。譬えるならば、よもぎの矢でもってよもぎの的を射るようなものだ」と言うばかりで《明帝紀》、司馬懿が、孟達の言動には媚びへつらいがあるので任用すべきでないと、たびたび諫言しても聞き入れなかった《晋書宣帝紀》。

孟達が容姿才幹に秀でていたため、文帝は大層立派な人物だと思って敬愛した。領軍の劉曄が「孟達は姑息な心を持っており、才能を鼻にかけて詐術を好みますゆえ、絶対に恩義に感銘することはありますまい。新城は呉蜀と隣接しており、もし変事が起これば国家の災いを生じまするぞ」と諫めたが、文帝は改めることなく《劉曄伝》、征南将軍夏侯尚・右将軍徐晃を派遣して孟達とともに劉封を襲撃させた《劉封伝》。

孟達は劉封に手紙を送った。「足下は漢中王(劉備)にとって路上の人間に過ぎず、親しさからいえば骨肉でもないのに権勢に拠りかかり、義からいえば君臣でもないのに上位に座り、行けば片翼の威力を持ち、留まれば副軍の称号をお持ちです。阿斗(劉禅)が太子に立てられて以来、(足下の身を案じて)識者は肝を冷やしておるのです。もし足下が身を翻して内地に来られるなら、ただ三百戸を封ぜられて羅国を継ぐのみならず、大国を与えられて開祖となられるでありましょうぞ」。劉封は聞き入れなかった《劉封伝》。

申儀が劉封に叛き、劉封は敗走して成都へ帰った。申耽は魏に降って懐集将軍に任じられ、申儀は魏興太守となった。先主は孟達を追い詰めたこと、関羽を救援しなかったことを咎めて、劉封に死を賜った。劉封は「孟子度の言葉を用いなかったのが悔やまれる」と歎き、自裁した《劉封伝》。孟達は新城に入部して白馬塞に登り、「劉封・申耽は、金城千里に拠りながらそれを失ってしまったのだ!」と歎息した《明帝紀》。

建興三年(二二五)、蜀の諸葛亮の元に降人の李鴻が参詣してきた。李鴻は「孟達の元を訪ねましたとき、ちょうど王沖が南方から来ており、明公(との)が歯ぎしりして孟達の妻子を誅殺しようとしたのを、先主が許可しなかったのですと申しましたところ、孟達は『諸葛亮は物事を心得ておるゆえ、そのようなことはあるまい』と言って王沖の言葉を信じることなく、明公に期待を寄せておりました」と告げた《費詩伝》。

その場にいた費詩が「孟達は小人であり、振威将軍(劉璋)に仕えて不忠、のちには先主にも背反いたしておるのですぞ」と諫めるのも聞かず、諸葛亮は手紙を書いた。「あのことは劉封が足下を追い詰め、先主の士人を待遇する建前を傷付けたのが真実であります。また王沖が作り話をしたとき、足下は吾が心を忖度して王沖の言葉を受け入れなかったと李鴻が申しておりました。平素の好を思い出し、こうして手紙をお送りするのです」。孟達は諸葛亮の手紙を受け取り、しばしば款を通ずるようになった《李厳・費詩伝》。

孟達が文帝に馬・弩を要求すると、帝は司馬懿の反対を押し切って「吾は天下の主であり、道義として自分から他人に背いてはならない。吾が心を呉・蜀に知らしめてやろう」と言い、要求された以上のものを孟達に与えてやった《華陽国志》。

孟達は文帝に寵愛され、また桓階・夏侯尚とも親しかったが、文帝が崩御すると、同じころ桓階・夏侯尚もみな卒去し、自分がよそ者の身でありながら久しく国境にいることを思い、内心では不安になってきた《明帝紀》。太和元年(二二七)春、諸葛亮が成都から漢中へと移駐すると《後主伝》、孟達は玉玦、織成の泥よけ、蘇合香を諸葛亮に贈った。諸葛亮は「玉玦は決断したこと、織成は作戦が完成したこと、蘇合は計画が合致したことを言っているのだ」と述べ《明帝紀集解》、呉王孫権もまた彼を誘った《華陽国志》。

諸葛亮は孟達の態度が煮え切らず、また彼が問題を起こすことを心配し、申儀との仲が悪いのを利用して決起を促そうと思い、郭模に降服するふりをさせて申儀のところへ送り、(わざと)計画を漏洩させた《晋書宣帝紀》。申儀は孟達が蜀に通じていることを密かに奏上したが、帝(曹叡)は信じなかった《明帝紀》。また、驃騎将軍司馬懿は事態の急変を恐れ、孟達に手紙を送った。「郭模の発言はただごとではありません。諸葛亮がどうして軽々しく暴露するでしょうか。それで(彼の策略が)容易に分かるのであります」。孟達は手紙を受け取って大いに喜び、ぐずぐずして決起しなかった《晋書宣帝紀》。

孟達が諸葛亮と款を通じて以来、挙兵に至るまで、各事件の起こった順番が確かでないところがある。

同年十二月、司馬懿が参軍梁幾を調査に出して、孟達に入朝するよう勧告すると、孟達は驚いて恐怖した《明帝紀》。諸将は、孟達が二賊(呉・蜀)と連繋しておるゆえ様子を見てから動くべきだと言ったが、司馬懿は「孟達は信義のない輩。奴めが迷っているうちに勝負を決せねばならんのだ」と言い、州泰の先導により昼夜兼行で道を急ぎ、八日間で城下に到達した《鄧艾伝・晋書宣帝紀》。

もともと孟達は諸葛亮に手紙を送り、「宛から洛陽まで八百里、吾が城まで一千二百里も離れております。吾が挙兵を聞いて天子に奏上し、返事が来るまで一ヶ月はかかるでしょう」と言っていたが、司馬懿の到達を知り、また諸葛亮に「吾が挙兵から八日ですが、もう敵軍が城下に迫って参りました。なんと神業のごとき速さでしょうか!」と告げた《晋書宣帝紀》。呉・蜀はそれぞれ西城の安橋・木闌塞に将軍を派遣して孟達を救援しようとしていたが、司馬懿は諸将を分遣して阻止させた《晋書宣帝紀》。

新城郡の治府は房陵県に置かれていたが、ここで孟達が上庸にいるのは戦時だからであろうか。

上庸城は三方を川に囲まれており、孟達が城外に出て(残りの一方を)木柵で固めていた。司馬懿は川を渡ってその柵をぶち壊し、まっすぐ城下に向かい、八方から攻撃をかけた。司馬懿が孟達の甥鄧賢と部将李輔を誘降すると、鄧賢らは城門を開いて司馬懿軍を招き入れた。孟達は同二年正月、包囲を受けてから十六日にして敗北したのである。司馬懿は孟達を斬って首級を京師に送り、捕虜一万人余りを手に入れて宛城へ凱旋した。孟達の首級は洛陽の四つ辻で燃やされた《明帝紀・晋書宣帝紀》。

申儀は長らく魏興にいて辺境で威張りくさっており、詔勅と称して勝手に官印を彫ったりしていたが、孟達が誅殺されると、司馬懿は人をやって申儀を呼び出し、詔書偽造のことを問責して身柄を拘束し、京師に送り返し、また孟達の残党七千家余りを幽州に移住させた。蜀の部将姚静・鄭他らの将兵七千人余りが降服した《晋書宣帝紀》。新城郡の上庸・武陵・巫県は分割されて上庸郡となり、錫県は錫郡となった《明帝紀》。

【参照】王沖 / 夏侯尚 / 蒯祺 / 郭模 / 桓階 / 関羽 / 郤正 / 郤揖 / 司馬懿 / 州泰 / 諸葛亮 / 徐晃 / 申儀 / 申耽 / 曹叡 / 曹丕(王・文帝) / 孫権 / 張松 / 鄭他 / 鄧賢 / 費詩 / 法正 / 孟他 / 姚静 / 李鴻 / 李輔 / 劉璋 / 劉禅 / 劉備(先主・漢中王) / 劉封 / 劉曄 / 梁幾 / 安橋 / 宛県 / 漢中郡 / 魏 / 宜都郡 / 呉 / 江陵県 / 秭帰県 / 譙県 / 上庸県 / 上庸郡 / 襄陽県 / 蜀 / 西城郡魏興郡) / 成都県 / 錫県 / 錫郡 / 白馬塞 / 樊城 / 巫県 / 扶風郡 / 武陵県 / 平陽亭 / 沔水 / 房陵郡新城郡) / 木闌塞 / 幽州 / 予州 / 羅県(羅侯国) / 雒陽洛陽県) / 右将軍 / 営都督 / 王 / 懐集将軍 / 仮節 / 建武将軍 / 散騎常侍 / 参軍 / 振威将軍 / 征南将軍 / 太守 / 中書令史 / 亭侯 / 驃騎将軍 / 副軍将軍(副軍) / 別駕従事 / 領軍 / 玉玦 / 鼓吹 / 織成 / 節 / 蘇合香 / 部曲