孟獲 - 3Pedia

孟獲Meng Huo

モウカク

(?~?)
蜀御史中丞

建寧郡の人《華陽国志》。『三国志演義』では南蛮の王とされる。

のちに官吏に登用されていることからも彼が漢民族であることは間違いないだろうが、雍闓のために益州夷を説得したり、越巂の叟王高定元に指導者として擁立されていることから見ても、彼が「蛮民からも慕われていた」《諸葛亮伝注》というのはあながち誇張ではないと思われる。

雍闓が叛逆したとき、益州の夷(えびす)たちは同調しなかった。そこで雍闓は孟獲を派遣して彼らを説得させることにした。孟獲がお上は無理難題をお前たちに要求しているぞと欺くと、夷たちは雍闓に従うことに決めた《華陽国志》。

建興三年(二二五)春、諸葛亮が雍闓征討の軍を起こすと、高定元の部曲の兵は雍闓を殺害して、代わりに孟獲を立てて君主とした。夏五月、諸葛亮は瀘水を渡って益州郡に進軍し、(懸賞金を掛けて)孟獲を捕虜とした。諸葛亮が孟獲を軍中に案内しながら「我が軍はどうだ」と訊ねたので、孟獲は「知らなかったのが残念です。公はたやすく勝利なさるでしょう」と答えた。諸葛亮は北征しようと計画していたが、南中の人々が叛乱を好むことを心配し、計略を立てて、孟獲を釈放して再び決戦させた。およそ七度捕虜とし、七度釈放したが、孟獲は心服し、夷も漢民族も善に立ち返りたいと思うようになった。諸葛亮がまた質問すると、孟獲は「明公は天の威光そのものです。辺境の民の長老は悪事に手を染めないでしょう」と答えた《華陽国志・諸葛亮伝》。

同年秋、(諸葛亮が滇池に到達すると)南中四郡は平定され、その住民のうち女子供・老人は、土地の豪族の焦・雍・婁・爨・孟・量・毛・李氏に配属された。諸葛亮は彼らのなかから優れた者を選び、建寧郡の爨習、朱提郡の孟琰を孟獲とともに官吏に登用した。のちに孟獲は御史中丞にまで昇った《華陽国志・諸葛亮伝》。

『華陽国志』では李恢・爨習とともに建寧郡の人士として称えている。

【参照】高定元 / 爨習 / 諸葛亮 / 孟琰 / 雍闓 / 李恢 / 益州郡建寧郡) / 朱提郡 / 滇池県 / 南中 / 瀘水 / 御史中丞 / 華陽国志 / 三国志演義 / 益州夷 / 豪族(大姓) / 七縦七禽