司馬勝之 - 3Pedia

司馬勝之Sima Shengzhi

シバショウシ

(?~?)
晋漢嘉太守

字は興先。広漢緜竹の人《華陽国志》。

学問では『毛詩』に精通して『三礼』を修得し、質素清潔で、生まれつき利益や名誉に関心を持たなかった。はじめ郡の功曹となり、たいそう綱紀の体裁をなしていた。益州から従事として招かれ、尚書左選郎に昇進、秘書郎へ異動となった《華陽国志》。

そのころ蜀の制度では、州の書佐が郡の功曹とともに察挙を行うことになっていて、また従事と台郎(秘書郎)は同格であったので、特別処置として重ねて察挙を行い、(司馬勝之は)朝廷の要職に就いていたのだが、帰郷して秀孝(秀才・孝廉)となり、ふたたび郡の筆頭者になったのである《華陽国志》。景耀年間(二五八〜二六三)の末期、郡の請願により孝廉に推挙された《華陽国志》。

統一後、梁州から別駕従事として招かれ、秀才に推挙された。広都・新繁の県令を歴任したが、統治ぶりは非常に際だっていた。清潔優秀であるとして中央に徴され、散騎侍郎となり、宗室扱いとして礼遇された《華陽国志》。

最後は病気を口実に官職を去り、自宅で漢嘉太守の任命を受けて使者が絶えず門前に押し寄せても、固く辞退して着任しなかった。謙虚さを心がけて静かにのんびりと暮らし、つねづね「世間の人々は道徳を修めようとはせず、爵位俸禄に汲々としておるが、わしなんぞは名誉の余りものにあずかるだけで充分じゃわい」と言っていた。郷里の人々を訓育するときは、敬虔さを重視した。六十五歳のとき家で卒去した。子の司馬尊・司馬賢・司馬佐はみな優れた徳行があった《華陽国志》。

ここでは漢嘉太守に就任しなかったとあるが、『華陽国志』後賢志の題名には「漢嘉太守の司馬勝之興先。漢嘉はよくへりくだり、謙譲の徳を備えていた」とある。

【参照】司馬賢 / 司馬佐 / 司馬尊 / 益州 / 漢嘉郡 / 広漢郡 / 広都県 / 蜀 / 繁県(新繁県) / 緜竹県 / 梁州 / 功曹 / 孝廉 / 散騎侍郎 / 秀才 / 従事 / 尚書左選郎 / 書佐 / 秘書郎 / 別駕従事 / 三礼 / 毛詩 / 察挙 / 宗室