傅僉 - 3Pedia

傅僉Fu Qian

フセン

(?~263)
蜀左中郎将・関中都督

義陽郡の人。傅肜の子、傅著・傅募の父《楊戯伝》。

父傅肜の死後、左中郎将を拝命、のちに関中都督となる《楊戯伝》。景耀六年(二六三)、魏の鍾会が漢城・楽城を包囲するとともに、胡烈を別働隊として関口を攻撃させた。このとき傅僉は蔣舒とともに関城を守っていたが、蔣舒が「いま賊軍が来たからには、出撃せずに楯籠るのは良計ではない」と言うので、傅僉は「ご命令の通り、城を守ってこそ手柄になるのだ。いま命令に反して出撃して、もし軍勢を失い国益を損ねてしまっては死んでも無益だ」と反対した《姜維伝》。

蔣舒は聞き入れず、手勢を率いて出発し、陰平まで行って胡烈に投降した。胡烈は関城を襲撃した。傅僉は蔣舒が敵軍と戦うつもりだと思い込んでいたので、不意を突かれ、格闘のすえ討死した。魏の人々は彼を義士だと思った《姜維伝》。

胡三省は「蔣舒に迎撃させても必ず勝てるわけではないのに、傅僉はどうして備えを怠ったのか。関城の失陥は傅僉にも責任がある」と批判している。

のち、晋の武帝は詔勅を下した。「蜀の将軍傅僉はかつて関城にあり、死を顧みることなく身をもって官軍に対抗した。傅僉の父傅肜もまた劉備のために戦死した。天下の善は一つであり、彼我によって違いがあろうか」。論者は父子二代にわたる忠義を称えたのであった《楊戯伝》

【参照】胡烈 / 司馬炎(武帝) / 蔣舒 / 鍾会 / 傅著 / 傅募 / 傅肜 / 劉備 / 陰平道 / 関中 / 魏 / 義陽郡 / 蜀 / 晋 / 成固県楽城) / 沔陽県漢城) / 陽安関(関口・関城) / 左中郎将 / 都督