馬隆 - 3Pedia

馬隆Ma Long

バリュウ

(?~?)
晋仮節・平虜護軍・東羌校尉・西平太守・奉高侯

字は孝興。東平国平陸の人。

若くして知勇を備え、功名節義を立てることを好んだ。魏の兗州刺史令狐愚が事件によって誅殺されたとき、遺体を回収してやる者は州内に一人もいなかった。馬隆は武官であったが、令狐愚の食客だと称し、私財を投じて埋葬してやり、墓場に松や柏を植え、三年間の服喪を終えてからやっと帰郷した。州内の人々はみな美談だと思った。武猛従事に任命された。

泰始年間(二六五〜二七五)に呉討伐の戦役が始まり、「呉会地方はいまだ平定されておらず、猛者を手に入れて武功を完成させるべきである。従来より推挙の定めがあるとはいえ、異才を集め尽くすには充分でない。そこで州郡に布告する。勇壮秀才にして傑出する者あれば、その長所のみを評価して抜擢任用せよ」との詔勅が下された。馬隆はその才能が名将に相当するとして兗州より推挙され、次第に昇進して司馬督となった。

かつて涼州刺史楊欣が羌族たちの歓心を損ね、馬隆がその失敗は確実であると言上したことがあった。突如、楊欣は夷狄どもに敗北し、黄河西岸は断絶してしまい、帝(司馬炎)は西方で事件が起こるたびに、朝廷で「だれぞ私のために奴らを討伐して涼州を開通させる者はおらぬかのう」と歎息した。朝臣たちに答えられる者はなかったが、「陛下がもし臣にお任せくださるなら、臣はうまく平定してみせましょう」と進みでたのが馬隆であった。

帝「賊徒を滅ぼすことができるなら任用せぬ理由はない。貴卿の計略がどうであるかを考慮するまでだ」、馬隆「陛下がもし臣にお任せくださるなら、臣のやりたいようにやらせてくだされ」、帝「どうするつもりか?」、馬隆「勇士三千人を公募し、これを率いて西進いたします。陛下の武威恩徳を奉じますれば、夷狄どもを滅ぼすだけで済みましょうか!」帝はこれを許可し、馬隆を武威太守に任じた。

『晋書』武帝紀には、「討虜護軍・武威太守馬隆」とある。

公卿らが「六軍はすでに数多く、州郡の兵員も多数でありますゆえ、これをお使いになるだけでよいのです。むやみに公募を行って前例を崩してはなりませぬ。馬隆のごとき小身の部将の妄説など聞き入れてはなりませんぞ」と反対したが、帝は聞かなかった。

馬隆は、三十六鈞の弩、四鈞の弓を引ける者だけを限定して募集し、標的を立てて試験した。日の出から日中に至るまでに三千五百人を手に入れ、馬隆は「これで充分だな」と言った。そこで武庫(兵器庫)へ足を運んで武器を選ぼうとしたが、武庫令(倉庫番)と口論になり、御史中丞が馬隆を告発した。馬隆が「臣は戦場で命を張って御恩に報いる所存ですのに、武庫令は魏の時代の腐った武器を寄こしました。賊徒を滅ぼさんとの陛下のご意向に背くものであります」と言上すると、帝はそれを認め、三年分の軍需物資を支給した。

咸寧五年(二七九)正月《晋書武帝紀》、馬隆が温水を西へ渡ると、夷狄の樹機能らは一万人ばかりを率いて、一部は要害に籠もって馬隆の前方を塞ぎ、一部は伏兵を設けて馬隆の後方を遮った。馬隆は八陣図によって偏箱車(一側面に板を立てて盾とした車?)を建造し、広い場所では逆茂木を植えて車陣を布き、狭い道では車上に板の屋根を張り、前進しつつ戦い、弓矢の届くところでは弦音とともに倒れない者はなかった。

奇策は合間合間に発せられ、敵の不意を突いた。あるときは細道に磁石を積み重ねて、鉄の鎧をまとった敵兵に進むことをできなくさせ、馬隆の兵卒はみな犀革を身に着けて自由に動いたので、賊兵たちに神業だと思わせたほどである。

転戦すること一千里、殺傷すること一千人単位、出立以来、音信が途絶えていたために、朝廷ではそれを憂慮して、すでに敗北しているのではないかと言う者さえあったが、馬隆の使者が夜中に到着すると、帝はその手のひらを撫でつつ談笑し、群臣を集めて「もし貴卿らの言葉を聞いておれば秦・涼州を失うところであったわ」と難詰した。そして「馬隆は僅かな軍勢を率いて困難を顧みずに戦い、危険を冒して成功を収めた。そこで仮節・宣威将軍とし、赤幢・曲蓋・鼓吹を授ける」との詔勅を下した。

馬隆が武威に到着すると、夷狄の大人である猝跋韓・且万能らは一万人余りの部落を率いて帰順し、前後して誅殺されたり降服したりした者は一万人単位となった。また率善戎である没骨能らが樹機能と大きな戦闘を起こして、樹機能を斬り、十二月《晋書武帝紀》、涼州はついに平定された。

朝廷では馬隆の将兵に恩賞を与えるべきと提議されたが、所管の役人は、馬隆の将兵はみな事前に爵位を得ているので、重ねて授与すべきでないと上奏した。衛将軍楊珧が反論して「かつて将兵を募集したときには、爵位にあずかる者が少のうございました。それは彼らを引き寄せる餌だったからです。いま馬隆は人数を温存したまま勝利し、西方を安定させたのです。以前の授与をもって以後の功績を無視してはなりませぬ。すべてお認めになり、信用を明らかになさいますよう」と述べると、これが採用され、おのおのの功績に従って爵位・秩禄が賜与された。

太康年間(二八〇〜二九〇)の初め、西平郡が荒廃していたことから、朝廷ではすぐさま復興したく思い、馬隆を平虜護軍・西平太守とし、配下の精兵を率いさせるほか牙門の一軍を貸し、西平に駐屯させた。そのころ南方の夷狄である成奚がことごとに辺境で問題を起こしており、馬隆は到着するなり軍勢を率いてこれを討伐した。賊軍は要害に籠もって防ごうとしたが、馬隆は兵士たちに命じて農具を背負わせ、農作業をするふりをさせた。賊徒らは馬隆に戦う意志がないと思い、統率ぶりに少しづつ弛みが出てきた。馬隆はその不備を突いて進軍し、彼らを撃破した。馬隆の任期が終わるころには、もう侵害をなすことはなくなっていた。

太煕年間(二九〇)の初め、奉高県侯に封ぜられ、東羌校尉の官を加増された。十年余りが経過するうちに威信は隴右を震わせた。ときに略陽太守厳舒は楊駿と通婚しており、密かに馬隆の後任の座を窺って「馬隆は年を食って耄碌しており、軍務に就かせてはなりませぬ」と中傷した。こうして馬隆は徴し返され、厳舒が後任に当たることになったが、氐族・羌族が集結して百姓たちを恐怖させると、朝廷では関隴地帯がふたたび混乱することを憂慮し、厳舒を罷免して馬隆を復職させた。

馬隆は在職のまま卒去した。

【参照】厳舒 / 猝跋韓 / 司馬炎 / 樹機能 / 且万能 / 成奚 / 没骨能 / 楊欣 / 楊駿 / 楊珧 / 令狐愚 / 兗州 / 温水 / 関隴 / 魏 / 呉 / 黄河 / 呉会 / 秦州 / 西平郡 / 東平国 / 武威郡 / 東平陸県(平陸県) / 奉高県 / 略陽郡 / 涼州 / 隴右 / 衛将軍 / 仮節 / 御史中丞 / 侯 / 刺史 / 司馬督 / 宣威将軍 / 太守 / 東羌校尉 / 武庫令 / 武猛従事 / 平虜護軍 / 牙門 / 羌族 / 曲蓋 / 鼓吹 / 赤幢 / 率善戎 / 大人 / 氐族 / 八陣図 / 武庫 / 偏箱車