麴義 - 3Pedia

麴義Qu Yi

キクギ

(?~?)

韓馥・袁紹の将。涼州西平郡の人か。

はじめ麴義は冀州牧韓馥に仕えていた。初平二年(一九一)、麴義は韓馥に背いた。麴義は韓馥との戦いに勝利を収めることができなかったが、勃海太守袁紹は韓馥を恨んでいたので麴義と同盟を結んだ《後漢書袁紹伝》。袁紹は張楊らとともに河内に駐屯していたが、匈奴単于於夫羅が叛逆を企てて張楊を誘拐して去った。麴義が彼を追撃し、鄴の南で於夫羅を撃ち破った《張楊伝》。

その年の冬、公孫瓚が広宗に進出すると、冀州の長吏(県令・県長)は彼が接近していると聞いただけで開門して受け入れた。袁紹は彼を征討するため軍を起こし、界橋の南二十里のところで対陣した。公孫瓚は軍勢三万人に方陣を組ませ、騎兵五千人づつを左右両翼にし、白馬義従が中央を固めた。さらに弓弩部隊を左右に散開させていた。一方、袁紹は麴義に八百人を与えて先鋒とし、強弩兵千人をその左右から進ませ、袁紹自身は数万人を率いてその後に続いた《袁紹伝》。

麴義は長いあいだ涼州にいて羌族の戦法を習熟していたうえ、兵士もまた勇敢であった。公孫瓚は彼が小勢であると見て、騎兵を放って彼らを足止めしようとした。麴義の兵士はみな楯のかげに伏せて動かず、敵が数十歩のところまで来た刹那一斉に立ち上がり、砂塵を揚げ大声を上げながらまっしぐらに衝突した。強弩部隊は雷鳴のごとく発射され、矢が当たれば敵は必ず倒れた。白兵戦となり公孫瓚が任命した冀州刺史厳綱を斬り、兜首千級あまりを挙げたので、公孫瓚軍は敗走した。麴義はさらに追撃して公孫瓚の本陣に到達し、その牙門(陣門)を突破すると陣中の敵兵は全て逃げ散った《袁紹伝》。

袁紹は界橋の手前十数里のところにいたが、馬を下りて鞍を外し、公孫瓚軍が敗れたのを見て備えをゆるめた。そこへ公孫瓚の騎兵二千人が突然襲いかかり、袁紹を幾重にも囲んだ。袁紹麾下には強弩兵数十人と大戟兵百人あまりしかおらず、敵の矢は雨のように降り注いだ。袁紹の強弩兵が乱発して多くを殺傷したので、これが袁紹本陣であるとは知らない敵兵は引き揚げようとした。そこへ麴義が帰ってきて袁紹を救い出した《袁紹伝》。

初平四年(一九三)十二月、幽州牧劉虞が公孫瓚に殺害されると、彼の従事鮮于輔・斉周・騎都尉鮮于銀らは閻柔を烏丸司馬に擁立し、州兵と烏丸・鮮卑族の兵都合数万人を率いて潞県の北で戦い、公孫瓚の任命した漁陽太守鄒丹を殺した。袁紹の方でも劉虞の子劉和に麴義を付けて、鮮于輔らとともに公孫瓚を挟み撃ちにさせた。麴義らは総勢十万人にもなり、公孫瓚軍は何度も敗北した。興平二年(一九五)、麴義が鮑丘で公孫瓚と戦って二万人を斬首すると、公孫瓚は易京に逃げ帰ってそこに楯籠った《公孫瓚伝・後漢書同伝》。

麴義の易京包囲は一年あまりにもなったので、軍糧が底をついて兵士数千人が逃亡した。そこへ公孫瓚が出撃して、ことごとく輜重車を奪われた《後漢書公孫瓚伝》。麴義は功績を誇って自分勝手に振る舞ったため、袁紹から召し寄せられ誅殺された《後漢書袁紹伝》。その残党は処刑されることを恐れて逃走したが、袁紹の大軍は進軍をやめ、別働隊を派遣して彼らを殲滅させ、残りは自軍に編入した。公孫瓚は印綬を偽造して彼らに報復せよと命じていたが、けっきょく救援しなかった《公孫瓚・後漢書袁紹伝》。

【参照】袁紹 / 閻柔 / 於夫羅 / 韓馥 / 厳綱 / 公孫瓚 / 鄒丹 / 斉周 / 鮮于銀 / 鮮于輔 / 張楊 / 劉虞 / 劉和 / 易京 / 界橋 / 河内郡 / 冀州 / 鄴県 / 漁陽郡 / 広宗県 / 西平郡 / 鮑丘 / 勃海郡 / 幽州 / 涼州 / 潞県 / 烏丸司馬 / 騎都尉 / 県長 / 県令 / 刺史 / 従事 / 単于 / 太守 / 長吏 / 牧 / 印綬 / 烏丸族 / 牙門 / 羌族 / 匈奴族 / 鮮卑族 / 白馬義従