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翻訳・校訂
1  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 09:59
1 名前: IMAGINE 投稿日: 2003/06/25(水) 19:17 [ /MmrDGdg ]

【IMAGINE】に掲載する漢籍日本語訳テキストに関するスレッド。
誤訳を指摘したり、みんなで訳文を考えたり。
286  MM2  2004/12/12(Sun) 22:56
桓帝紀アップ致しました。
やはり集解部分でつまってしまってますが、一応最後までが形になりました。

http://www32.tok2.com/home/mm2/3k/trans/gkn_t07004.html


>公事
なるほど。内容がどうあれ、国や府が絡めば「公事」なのかもしれませんね。
287  むじん  2004/12/13(Mon) 00:00
拝見しました!
これで『桓帝紀』も一通り落ち着きましたね。おつかれさまでした。
288  方壺島主  2004/12/13(Mon) 22:38
襄楷の上疏は列伝20下の襄楷伝に見えます。ほぼ同じ。
「案ずるに」は「愚臣が思いますには」の意
「古への帝王より未だ河の清(す)むこと有らざるなり。清は陽に属し、濁は陰
に属す。当に濁るべくして反つて清むものは陰の陽と為らんと欲すればなり。
豈に諸侯に京都を規(はか)る計有らんや」(五行志三)と訓ずれば意は通じるで
しょう。襄楷伝には「河の当に濁るべくして反つて清むものは、陰の陽と為ら
んと欲(するものに)して、諸侯の帝と為らんと欲すればなり」とあります。

「漢・隋の二志に又た皆な其の事応を著し、其の説は楷より之を発す。又た京
房の易伝に、『河水の清(す)めば、天下 平かなり』(後漢書・襄楷伝)と。故
に鮑照・張暢に皆な河清頌有り(鮑照『河清頌』については宋書・宗室伝・劉
義慶の条を参照)。後斉には此を以て紀元するに至り(「河清」は北斉の世祖・
武成帝の元号)、而して近世中外に賀を表するは、蓋し以て逢ふ可らざるの嘉
瑞と為せばなり。孔毅父 祥瑞の憑る可らざるを論じて、『代宗の河清みて陜
に幸きし事を引きて、以て之を証要す。河清は本より祥瑞の事に非らず、往時
に会要を編みし者、部居を分別し、乃ち休證門中に列□すれば、豈に偶未の思
ならんや。独り襄楷のみ咎証を推原するは固に善し。但だ其の猶ほ易伝の説に
惑ひ、春秋の麟を書くを以て比と為すを恨む』と云ふ。又た漢以来 河清めど
も、史の事応を著さゞるもの、皆な之を推言す可きなり」と解するのかな。孔
毅父以下の部分は難解。
289  方壺島主  2004/12/13(Mon) 22:40
「貞観十四年以後、比(しきり)に三年 河清す(新唐書・五行志三「貞観十四年二
月、陝州・泰州に河清む。十六年正月、懐州に河清む。十七年十二月、鄭州・滑
州に河清む」と)。劉蘭(貞観17年正月)・斉王(貞観17年3月)・張亮(貞観20年3
月) 相継いで畔くを以て誅さる。二十三年に河清む(同前「二十三年四月、霊州
に河清む」と)に、国卹(太宗の崩御)有り。永徽・調露の間に、河の清むこと四
たび(同前「永徽元年正月、済州に河清む。二年十二月、□州に河清む。五年六
月、済州に河清むこと十六里」「調露二年夏、豊州に河清む」と)、則ち応じて
武后在り。開元中に河清み(同前「開元二十五年五月、淄州・棣州に河清む」と)、
則ち応じて禄山在り。乾元二年に河清み、三年にならずして国卹有り。宝応元年
に河清み(同前「宝応元年九月甲午、太州より陝州に至る二百余里 河清み、澄K
にして底を見る」と)、明年 代宗 陜に幸(ゆ)く。建中四年に河清み(同前「建中
四年五月乙巳、滑州・濮州に河清む」と)、原に兵変あり(李希烈の乱/旧唐書
・徳紀上・貞元四年の条参照)。十四年に河清み(新唐書・五行志三「貞元十四年
閏五月乙丑、滑州に河清む」と)、李リ 不軌を以て聞するに其の不祥を為すこと
甚し」です。新唐書が手元にないので澣典参照。
290  方壺島主  2004/12/13(Mon) 22:41
「『老子銘』に曰く、『延熹八年八月甲子、皇上 徳を尚び道を宏くし、閎を含
むこと光大にして、神を存し性を養ひ、意は凌雲に在り。是を以て心を黄軒(黄
帝軒轅氏)に潜め、符を高宗に同じうすれば、夢に老子を見、尊びて之を祀る。
時に陳相・辺韶は、典国の礼を典るも、(材薄く思ひ浅ければ、至人を測度して、
是か非かを弁ずる能はず。案ずるに書籍に拠りて以為(おも)へらく、老子は周
の末世に生れ、玄虚にして静を守り、無名を楽み、不徳を守り、高官を危(あや
ぶ)み、下位に安んじ、孔子に遺るに仁言を以てす。世を辟けて隠居し、姓名を
変易して、唯だ知らるゝことを恐る。夫れ日は幽明を以て節と為し、月は虧盈
を以て自ら成る。盛衰の原を損益して、禍福の門に依伏し、人道は盈つるを悪
みて謙を好む。蓋し老子の労して国を定めず、功を民に加へざるは、隆崇を今
に見はし、時人の享祀する所と為る所以にして、乃ち其の禄を逃れて微に処る
は、『之を損(へら)して又た之を損す』(老子48章)の余胙なり。虚無の清寂を
顕はすを、『天地に先んじて生る』(老子25章)と云ひ、乃ち真を守り寿(いのち)
を養ひ、五福の致す所を獲るなり。敢て演べて之を銘す)と云云」です。
『老子銘』は辺邊韶の作と伝えられるもので、辺韶の事績は文苑伝に見えます。
台湾の「漢学研究中心」(http://ccs.ncl.edu.tw/chinese.html)に劉屹氏の論
文『論〈老子銘〉中的老子与太一』に、『全後漢文』などから引いた全文が掲
載されています。道順は、トップ→全文書刊→《漢学研究》論文全文→「第廿
一巻第一期」です。
291  方壺島主  2004/12/13(Mon) 22:42
「遂に広陵の人・龍尚等と共に井を祭り、符書を作り、『太上皇』と称す」で、
「井戸」のことでよいと思います。応劭『風俗通』の逸文に、「雍丘県の夏后
公祠に神井有り」と見えます。竈や井戸は古くから祭られていたようです。

初学記巻二十四・園圃第十三に、「濯龍 司馬彪『続漢書』に曰く、『濯龍園
は洛陽の西北角に在り』と」と見えます。

「紀 此事を蕃が免官の後に書くは、其の次を失するが似(ごと)し。(天文志は
九年十一月に在り)」です。
整理して考えてみましょう。陳蕃伝を見ると、劉[王+質]・成[王+晉]らが
「皆な獄中に死」したあと、「九年、李膺等 党事を以て下獄し考実せらる。蕃
因りて上疏・極諌し」たことによって、「帝 其の言の切なるを諱み、託するに
蕃の其の人に非らざるを辟召せるを以て、遂に策して之を免ず」とあります。
しかし桓紀には、「(延寿九年)秋七月、(中略)太尉・陳蕃 免ず」とあり、次に
「九月、(中略)南陽太守成[王+晉]・太原太守劉質、並びに譖を以て弃市せらる」
とありますから、順序が違うというのです。なお天文志下に、「其の九年十一月、
太原太守劉[王+質]・南陽太守成[王+晉] 皆な無辜を殺すに坐し、(中略)皆な
弃市せらる」と見えます。

「此れ泰西の中国に通ずるの始め。大秦は漢に在りて羅馬(ローマ)と為す。在今
の義大利(イタリー)国たり」
292  方壺島主  2004/12/13(Mon) 22:42
「『続志』に、(日食の位置は)輿鬼の一度に在り。儒説に壬子は淳水の日なれば、
陽 克たず、将に水害有り。其の八月、六州に大水あり、勃海に盗賊あり」です。
中華書局版・後漢書・五行志六では「六州に大水あり、勃海 海溢る」になって
います。「輿鬼」は二十八宿の一「鬼宿」を指します。

「忠賢の力争して、屡ゝ姦鋒を折(くじ)くに非らざる自りは、斟に依り彘に流る
を願ふと雖も、亦た得可らざるのみ(已)」

左伝・昭公元年伝の文。「左伝に曰く、『天地に国すれば、与に立つもの有り。
数世淫ならずんば、不能弊する能はざるなり』と。信なるかな」
293  方壺島主  2005/02/02(Wed) 00:21
 暫定公開中の宋書・鄭鮮之伝。あやしいところが随分あるんですよね。
 お恥ずかしいかぎり。なかでも特に不安なところを。

  既殺之非己、無縁生之自由。

 これを何と読むか…。いま公開している訳文はダメだと思うのです。
 「之を殺すこと己に非らざるを既(つく)し、之を生すこと自由なるを縁
(よし)無し」かな。
 「無縁」は後漢書列伝35袁安伝などに、「自由」は同后紀下・安后紀や
同列伝33楽恢伝に見えます。今日、仕事帰りに図書館に寄って、吉川訓注
本で確認したところ、「無縁」は「…するに縁(よし)無し」と読んでいま
した。また「自由」はズバリ「自由(勝手気まま)」です。
 要するに文意は、劉毅が生殺に度なく、自分に靡かぬものを殺し、罪人
でも自分に通じているものの死を減じさせる。その好き放題な専断はどう
しようもない、ということでしょう。うまくそう解せる表現に訓じたいの
ですが。
 諸賢のお知恵を拝借。
294  むじん  2005/02/02(Wed) 14:25
うーん、私は読み下しの下訳を作らず直接読んでいて
読み下しになると余計に分からないんですよね。
でも今回のは原文を直接読んでもやっぱり分からない。
島主の解釈を取れば「これを殺すもおのれにあらざるをつくし、
 これを生かすも自由なるに縁なし」かなぁ。
「すでにこれを殺すもおのれにあらざれば
 これを生かすも自由なるよすがなし」と読んではダメですか。
どうも前後の文意がよく分からないんですよねえ。むつかしい…。
295  むじん  2005/04/05(Tue) 22:29
よく分かりません(『呂蒙伝』集解)。
全体的によく分からないけど後半はなおさら分からない。
ヒントください。

魯粛・呂蒙はおのおの時機を見て曹操と張り合い、
気迫は衰えを見せず、しばしば巣湖に出征した。
劉氏とは友好関係を築いて敵の勢力を分散させ、
曹操が年老いて呉を窺う気持ちを起こさせないようすべきであった。
なんとやら。

魯呂各以其時当操気未衰屢出巣湖
当共劉氏結好以分其勢及操老而無擧呉之志
鼎足勢成不拠上游亦非所以立国也
但当与蜀申約規取襄樊徐方議及耳
296  方壺島主  2005/04/09(Sat) 23:21
 前後関係がよく分からないので、訳しづらいっす。

 魯・呂は各ゝ其の時を以て操に当り、気 未だ衰へず、屡ゝ巣湖に出づ。
劉氏と共に好みを結び、以て其の勢を分かつに当り、操の老いて呉を挙ぐ
るの志無きに及んで、鼎足の勢 成るも、上游に拠らざるは、亦た国を立
つる所以に非らざるなり。但だ当に蜀と約規を申べ、襄・樊・徐を取るべ
く、方に議及するのみ。

 …かなあ。「上游」は史記・項羽本紀および高祖本紀に見える、「古への
帝なる者は方千里、必ず上游に居る」を引いたもので、史記集解に「水の上
流に居るなり。游は、或は『流』に作る」としています。
297  むじん  2005/04/12(Tue) 15:59
島主どの、どうもありがとうございます。

前後関係が分かっててもまだ難しいです。
これは、孫権が周瑜・魯粛・呂蒙の三人を比較して、
「荊州の地を劉備に貸せと言ったのは魯粛の欠点だった」
と評価したことに対して、何焯が付けた意見です。

>上游に拠らざるは、亦た国を立つる所以に非らざるなり。
>但だ当に蜀と約規を申べ、襄・樊・徐を取るべく、方に議及するのみ。
私も最初そう読んだのですが、
ここは文法としては通じるけれども何氏の意図としては通じないように思ったんです。
孫権は下流の呉にあって上流の蜀の劉備と土地を争っているので、
それについて意見を述べているところでしょう。
何氏が魯粛を評価しているのか批判しているのかさえ
つかめないので、なかなか文意が通せません。
いま思うには、国を立てるためには上流を取らなければならないが、
一時的に蜀と盟約を結んでおいて、あとでゆっくり襄樊を取るべき、
その方針を立てた魯粛はやはり賢明だ、ということかも知れません。
当初「徐方」で徐州地方かと考えましたが、
ここでは「おもむろ」の意味を取った方が通じやすい気もします。
それでもまだしっくりとくる解釈には至りません。
298  suite  2005/04/25(Mon) 04:10
なんとなくですが・・・


魯・呂は各ゝ其の時を以て操に当り(or 当たるも)、
〔操の〕気未だ衰へず、屡ゝ巣湖に出づ。
〔そこで粛は〕劉氏と共に好みを結び、以て其の勢を分かつに当り、
操の老いて呉を挙ぐるの志無きに及んで、鼎足の勢 成るも、
上游に拠らざるは、亦た国を立つる所以に非らざるなり。
但だ当に蜀と約規を申べ、襄・樊・徐を取るべく、方に議及するのみ。


これは呂蒙・魯粛の取った行動を述べているだけという気はしませんか。
299  方壺島主  2005/04/26(Tue) 01:48
 やはり「魯・呂 以て各ゝ其の時 操の気 未だ衰へず、屡ゝ巣湖に出づるに当
る。当に劉氏と共に好みを結び、以て其の勢を分かつべきに…」かな。
 曹操の南進は建安17年と22年で、その間孫権も2度にわたって合肥を包囲し、
対曹操戦のための前衛の拠点にしようとした気配あり。しかし曹操の2度目の
濡須口進攻を受けた時点で降伏を申し出、その後は曹氏とは小康を確保し、そ
の背後でコソコソした行動を続けました。
 孫権は魯粛の親劉備政策を失策としていますが、本来は劉備とは信義を守っ
て曹操と対決すべきであった。曹操がいよいよ野望を逞しくして外に向けてい
た目を内に(帝位に)転じてからは、三国鼎立が関係したけれど、偽りの降伏策
の陰で関羽を急襲したりせず、本来なら劉備と連携して東西から曹氏を攻める
べきであった。「帝者は上流におる」という言葉どおり、本当にその志がある
のなら、曹氏の南進によって奪われた樊や襄陽等の荊州北部を奪い返したり、
あるいは北出して徐州・沛へ出(て洛陽を伺う勢いを見せ)るべきであった。し
かるに建業に安住していたのは、到底立国の大計を持つものの姿とは言えない。
当初は蜀と肩を組みながら、中途で欲に駆られて荊州領有のことで蜀と仲違い
し、あまつさえ曹氏の軍門に降って相食む間柄になってしまった。本来であれ
ばそのかみに結んだ蜀との盟約に従って、襄陽・樊・徐州へ兵を進めて攻略す
べきであったのに、結局むだな議論に時間を費やしただけであった。
 とまあ、こんな感じに解してみてはいかがでしょうか。
300  方壺島主  2005/04/26(Tue) 01:48
 呉側は「荊州を貸した」の貸さないの、返せの返さないのと言っているが、
結局は腰抜けで、自分で兵を起こして襄陽・樊を奪還し、取り返せばよいので
ある。本当に帝者としての度量があるなら、東は徐州に出て開封へ上り洛陽を
伺うべく、西は襄陽・樊を奪って漢水を溯って長安に迫るべきであった。
 ところが実際には早々曹操の軍門に降って蜀の背後をつくようなコソコソし
たマネをしておいて、「魯粛が荊州を貸したのは間違いだった」とはまったく
小人の言である。魯粛こそは大度量の人物であった。
 という論法。魯粛を大度量と持ち上げるウラには、諸葛亮の大器を暗にほの
めかして同時に持ち上げる意図も。いちおう破綻のない解釈としてコジつけて
みました。
301  suite  2005/05/11(Wed) 08:00
『華陽国志』巻七「劉後主志」

十有一月、大赦。遷尚書令費イ大將軍・録尚書事、
就遷江州キ督ケ芝車騎將軍。

とあるのですが、この「就きて」が訳せません。御願いします。
302  方壺島主  2005/05/13(Fri) 20:08
龍渓精舎叢書本で確認。
「就きてAをBに遷す」でいいかと思います。「就遷す」を分けて訓じた形です
から、Bという官職に就任・転任した、の意です。「A而B」という表現を約め
て「AB」とする形は六朝文学に頻出します。厄介なのですが、仕方ありません。
「就」を「すなはち」と読んで、「費禕を大将軍・録尚書事に転任・昇任させた
ので、ケ芝を車騎将軍に転任・昇任させた」と解することもできますが、そうな
ると、両者の人事が連結し、また時期的にも同時に行われたような表現となりま
す。なおその場合、「就」を「すなはち」とする用例が魏晋の頃の文章にあるか、
確認したほうがよいでしょう。
303  suite  2005/05/15(Sun) 08:05
ご返答感謝です。
普通に「就任」でよかったのですね。難しく考えすぎてしまいました。

「すなはち」ですが、とくに蜀漢の人事昇進は魏呉に比べると比較的わかりやすく、
トップ(丞相・大司馬・大将軍)が任命されるとほぼ同時期に一斉に昇進が行われることが多いようです。
しかしながら微妙にズレが見られますので、「すなはち」では苦しいかもしれません。

>なおその場合、「就」を「すなはち」とする用例が魏晋の頃の文章にあるか、確認したほうがよいでしょう。
やはり奥が深いですね、漢文というのは。
304  むじん  2005/06/05(Sun) 11:47
いろいろとご教授ありがとうございます。
私の理解力ではまだまだ時間がかかりそうです。
難しいですね。
305    2008/03/05(Wed) 23:00


306  I  2008/03/06(Thu) 10:46

(
307  ylatiru  2008/05/19(Mon) 06:40
ホ褊 裼 琺 蓁 蕘 瑟, ツク 粽趾褊, 粢 褪頸.
308  ななし  2008/05/23(Fri) 13:11
蛇足の訳し方をおしえてくださいな
309  むじん  2008/05/23(Fri) 14:16
すんません。おっしゃってる意味がよく分からないんですけど、
「蛇足」を日本語の読みでなんて言うかってことですか?
だとしたら普通に「だそく」でいいと思います。
ちなみに蛇足の出典は「戦国策」という本です。
310  Robert  2008/07/10(Thu) 04:08
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320  Ray Foley  2009/05/01(Fri) 02:07
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翻訳・校訂
321  Bobby Spencer  2009/05/01(Fri) 07:46
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翻訳・校訂
322  Donna Ray  2009/05/01(Fri) 14:25
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翻訳・校訂
323  江頭  2009/07/19(Sun) 17:02
『契丹主隆緒病消渇寝劇、召東平王䔥孝穆、上京留守䔥孝先、使輔立其子木不孤、且誠以無失朝廷信誓。己卯、卒於大斧河。隆緒暁音律、與帳下縦飲或通書夕、自歌起舞。歳獻方物、皆親閲視、必使美好中意、守約甚堅、未嘗稍敢邊隙。立二十四年、年六十一歳、謚曰聖宋。』の訓読、現代語訳できる方いればお願いします。
324  むじん  2009/07/19(Sun) 18:22
出典は分かりますか?
前後の文脈によって読み方が変わってくる場合があります。
325  江頭  2009/07/22(Wed) 06:48
続資治通鑑長編巻20 天聖九年六月丁丑の条です。
326  むじん  2009/07/23(Thu) 20:28
うーん。『続資治通鑑長編』は持っていないですね。
まず時代としては1031年、宋の仁宗の時代です。
隣国の遼の君主が崩御したことを宋側の視点で書いています。

契丹の君主・隆緒が消渇(病名)を患い、病が重くなったので、
東平王の蕭孝穆、上京留守(官名)の蕭孝先を呼びよせて、
息子・木不孤を補佐して即位させるよう命じ、
(聖宗の跡継ぎ興宗の名は木不孤ではなかったと思うので、何か間違いがあるかもしれないです。)
且誠以無失朝廷信誓。
(ここがよく分かりません。朝廷において失敗がないことを宣誓したことについて何か記していますが、主語がはっきりしないです。)
己卯、大斧河にて卒した。
隆緒は音律に通暁し、
近臣と気ままに飲んでいるときでも、
書を読んでいるときでも、
夕方になれば自分で歌い、立ちあがって舞をした。
年貢の地方物産は、すべて自分の目で確認し、
必ず優れた品物を中意した。
(よく分かりません。心のなかで優劣を見抜いた、ということでしょうか)
約束を固く守り、少しでもなおざりにしたことは一度もなかった。
即位してから二十四年、六十一歳だった。
聖宗という諡号を贈られた。

部分的にちょっと意味を取りにくいところがありますが、
大体はこんな感じになると思います。
注釈の類があれば理解の助けになるのですが、わたしの読解力ではこれが限界ですね。
327  江頭  2009/07/25(Sat) 16:57
ありがとうございました。参考にさせていただきます。大学の授業で興味本位で漢文の授業をとってみたものの、実際まだ自分の力だけで漢文を読むという段階まで到達してないので、大変面倒な作業になることは承知の上で、続資治通鑑長編の続きの現代語訳もお願いしたいのですが。大丈夫ですか?

契丹毎歳正月上旬出行射獵、凡六十日。然後並撻魯河鑿冰釣魚、冰泮、卽縱鷹鶻以捕鵝雁。夏居炭山或上京避暑。七月上旬、復入山射鹿、夜半、命獵人吹角、效鹿鳴、既集而射之。
賤他姓、貴耶律、䔥氏。其官有契丹樞密院及行官都總管司、謂之来面、以其在牙帳之北、以主藩事、又有漢人樞密院、中書省、行官都總管司〔十二〕、謂之南面、以其在牙帳之南、以主漢事。其愓隱、宗室也、夷離畢、參知政事也、林牙、翰林學士也、夷離巾、刺史也。内外官多倣中國者。其下佐吏則有敞史、木古、「古」字疑作「宜」字、更詳之。思奴古、都奴古、徒奴古。分領兵馬、則有統軍、侍衛、控鶴司、南王、北王、奚王府五帳分提失哥、東西都省太師兵。又有國舅、ツ轄、遥輦、裳袞諸司、南北皮室二十部族節度、頻必里、九克、漢人、渤海、女真五節度、五治太師、一百、六百、九百家奚。内外官至一百、六百、九百家奚、皆所増。
凡民年十五以上、五十以下、皆籍爲兵。將學兵、必殺灰牛、白馬、祇天地日及木葉山神。鋳金魚符、調發軍馬。其捉馬及傅命有銀牌二百。軍所舎、有遠探欄子馬、以夜聽人馬之聲。


328  江頭  2009/07/25(Sat) 16:58

毎其主立、聚所剽人戸馬牛金帛及其下所獻生口或犯罪没入者、別為行官領之。建州縣、置官屬。既死、則設大穹廬、鋳金爲像。朔望節辰忌日〔十三〕、輒致祭。築臺高逾丈、以盆焚飯〔十四〕、謂之燒飯。
十官各有民戸、出兵馬、阿保機曰洪義官、徳光曰永興官、兀欲曰積慶官、述律曰延昌官、明記曰章敏官、突欲曰長寧官、燕燕曰崇徳官、隆緒曰興聖官、隆慶曰敦睦官、隆運曰文忠王府。
又有四棲、在上京者曰西棲、木葉山曰南棲、龍化州曰東棲、唐州曰北棲。
凡受册、積柴升其上、大會藩人其下、巳、乃燔柴告天、而漢人不得預。有諢子部百人、夜以五十人番直。四鼓將盡、歌於帳前、號曰「聒帳」。毎謁木葉山、卽射柳枝、諢子唱番歌、前導彈胡琴和之、巳事而罷。
三歳一試進士、貢院以二寸紙書及第者姓名給之、號「喜帖」。明日、學案而出、樂作、及門、」撃鼓十二面、云以法雷震。正史載此段於契丹傅末、比實録但増「内外官至六月五家奚」〔十四〕、凡百餘字耳、今依實録、扔附隆緒没後。

329  むじん  2009/07/26(Sun) 02:22
大学の授業での出題なら、それはご自身で考えて解かないと、いつまで経っても実力が付かないんじゃないです?
わたしがここで訳文を書いても、なぜそのように訳したかを考えないで、そのままコピーして提出するおつもりなんでしょう?
せっかく高い授業料を払って講義を受けてるんですから、元を取ってください。
そもそも現役大学生の江頭さんが、中卒のわたしに教えを乞うている時点で何か奇妙な感じがするんですけど。
分からないことがあれば教官に直接尋ねたら親切に教えてくれると思いますよ。
今どきは尋ねることさえしない学生が増えてるらしいので、むしろ質問したら勉強熱心だと評価してくれるかもしれないですね。
335  名無しさん  2010/04/22(Thu) 10:17
「賓客に応ずる」の口語訳、
わかんない… 
んーこんな程度の問題が解けない
とは、ショックだな;
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