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翻訳・校訂
- 218 IMAGINE 2004/07/28(Wed) 10:56
- 218 名前: two_yossy 投稿日: 2004/06/02(水) 18:24 [ rJjwsy.k ]
搓@紀、ご苦労されている様子。拝見したところから、老爺心までに。
史書は「太史籀の書体」という意味で、小竹武夫訳『漢書』元帝紀では、たしかに
「隷書」となっていますが、「大篆(=籀文)」の誤りです。
「輒ち意を下して難問す」は、「(自分も脇に控えて授業を盗み聞きし、分からない
ところがあると兄たちの前で恥ずかしい思いは持ちながらも)、思いきって質問した」
の意に解するのが通じやすいと思います。
なお、「汝は女工を習ひて以て衣服を供さず云々」の文は、『魏書』文昭甄皇后伝
の裴注と同一表現なんですね。
「塩菜」は「塩」と「菜の物」の意(「塩漬けの菜」ではなく)。「捫」は(1) 撫で
る・さするの意のほか、(2) さぐる、(3) つかむ等の意があり、吉川忠夫訓注では、
「まさぐる」と訓じています。夢の中でのぼんやりとした出来事なのでよい訓だと思
います。それと「鍾乳」は今日言う「鍾乳石」のことで、王先謙はその鍾乳石の説明
として「氷柱のようなもの」と解説しているのだと思います。
「乃ち仰ぎ漱りて之を飲む」の「仰ぐ」は、「乳児が乳房を吸うように仰ぐ」の意で、
そういうニュアンスが出る表現に。
「使修」。この箇所、「兄の訓は謁者と為り、使(つかひ)して石臼河を修め、歳ごと
に数千人を活かせり」と訓ずるのがよく、その意は、「勅命を奉じた使者として、(死
者を多く出している)石臼河の運河開削工事を巡察し、その不急不要について申し上げ
て工事を中止したことで、(そのまま工事を続けていたらさらに死者が出ていたので)結
果として数千の命を救ったのである」というもの。『史記』の汲黯伝と同趣旨ですね。
「外舎」は注に「外家」と。すなわち后の看病のために内省に入れた「后の母と兄弟
(=外戚)」のこと。「幸私」は「寵幸」と「私愛」のことで両字ともに意通ず。王先謙
が恵棟の説を引いて互文を言っているのも、そのこと。
「而して后は独り素なるを著く」の「素」は、単に「質素」の意でいいと思います。
というのも、中国では古来「白い服」は「喪服」ですから、宴会など着るのはあまりに
不吉(狂人扱いされる)。色(染め)やガラが非常に(庶民が身に着けるように)地味で質素
だったということだと思います。
「正坐離立」は、『礼記』曲礼上に、「離坐・離立するときは、往きて参する毋れ(二
列になって座ったり立ったりするときには、そこに割り込んで三列になってはいけない)」
とあるのをふまえています。したがって「正坐」も「離坐」の意に解してよいでしょう。
鄭玄の注に「離は、両なり」とあり、「離騒」の離字に「つく」の意があることから、
「二人並んで(くっついて)座る(立つ)」と訳すのがよいと思います。「身を僂めて自ら卑
くす」には貴訳のように「卑下する(遜る)」遠意と、長身秀麗な后が自分が目立つことな
いよう、背中を丸めて背を低くし(見た目も悪くし)たことが直接の意だと思います。
「逡巡して後に対へ」は、「(ご下問があっても)すぐには反応せず、(陰后が先に発言す
るのを待って)その後でお答えした」の意。
「才人」は『史記』淮南・衡山列伝に、「故(もと)の美人・才人の幸を得る者十人をし
て居に従はしめよ」とあることからも分かるように、宮中の女官の名称です。
「我 意を得れば」は、「(和帝が崩御して)太后とな(り、意のままにふるまうことがで
きるようにな)ったら」の意。
「属」は王先謙も言っているように、「たまたま」の意。吉川訓注でも、「属(たまた)ま
使の来ること有つて」と訓じています。
とりあえず、そんなところ。ガンバレ!!!!
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