■IMAGINEメイン板に戻る■  最後のレスまで飛ぶ  レスを全部見る  最新レス100件を見る
翻訳・校訂
175  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:35
175 名前: two_yossy 投稿日: 2004/05/01(土) 02:57 [ rJjwsy.k ]

むじん院主
  いいかげん寝かしてください(笑)。
  173のスレ、いい線いってるんじゃない?
  ふつう漢文で「毎に(常に)」という場合、季節ごととか節気ごととか、ほぼ年間を
 通じての意に解されますから、きちっと支給(?)があったというのも変じゃない。周代
 以来、礼服は官職に合ったものを下賜する制度があり、そのものが亡くなった場合は
 一度返納し、あらためて官職を継いだ子どもが頂戴することになっていました。
  引用を疑ったのは、清代の杭先生が書いたわりには、「以」とか「為」とか、文義を
 補う字が抜けてて分かりにくいんですよ、この文。やはり逸書の類の引用でしたか。
  ところで、平成大不況のさなかでも贅沢に馴れたわれらにゃ計り知れない「質朴」さ
 ってヤツ、忘れちゃいけないっすよね。晋代になると貴族文化もピークに達して、宮中で
 出された料理に思わず「ゲッ、まずい!!」と橋を下ろした御仁もいたそうですが、
 三国のころには院主がおっしゃったような「質朴」さ、まだあったでしょ。
  最近、陳舜臣『中国の歴史 (三)』で後漢〜南北朝あたりを読んだんですけど、
 前漢に2,000万超だった人口が後漢のはじめには800万まで激減し、後漢末から
 三国騒乱でもまた減少し、呉では人をさらってでも集めようと
 「徐福の末裔」を求めて仙島を捜させたんですってね(ご存じかと思いますが)。
  質朴で、なんとなくたゆたった感じですねー。
  『葉隠』のエピソードに、鍋島直茂の旗本でしばしば戦場で命がけの働きを
 した御仁が、直茂隠居後のころ餓死寸前のありさまとなり、「自分たちは
 主君のためにたびたび手柄を立てた。こんな目に会う覚えはない」と、息子と
 ふたりで御用米を襲って奪ったそうです。御用米に手をつければ打首獄門。
 ことは当主・光茂に言上されましたが、光茂は父親の股肱の臣ということで、
 隠居の直茂に伝えさせたところ、直茂は陽帯院と顔を見合わせて口も利けない
 様子。それを聞いた光茂は、「その御用米は余がかれらに与えたものだ」と
 言って不問に付したところ、直茂は「オイドンはよか息子ば持ったものたい」
 と言ったとか。
  質朴ですね。
  とかく嫌われがちな「呉」。でもじつは質朴な葉隠武士だったなんて、
 ちょっと親近感が。
  どなたか、呉を九州弁で、蜀を東北弁で(なぜか)、魏を「ざんす」言葉で
 訳してくれないかなー。雰囲気出ると思うんですけど。
sage  pre  等幅 書き込み後もこのスレッドに留まる
名前: メール:

■IMAGINEメイン板に戻る■  ページの先頭まで飛ぶ  レスを全部見る  最新レス100件を見る

readres.cgi ver.1.69β1
(c)megabbs
(original)