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翻訳・校訂
1  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 09:59
1 名前: IMAGINE 投稿日: 2003/06/25(水) 19:17 [ /MmrDGdg ]

【IMAGINE】に掲載する漢籍日本語訳テキストに関するスレッド。
誤訳を指摘したり、みんなで訳文を考えたり。
2  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 09:59
2 名前: むじん@IMAGINE 投稿日: 2003/06/28(土) 15:22 [ /MmrDGdg ]

【IMAGINE】掲載分に限定する必要はないですね。
漢文の読解や翻訳に関することならなんでも構いません。
ただし、むじん@IMAGINEは漢文のシロートなのでお力にはなれないと思いますが(^^;
3  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 09:59
3 名前: むじん@IMAGINE★ 投稿日: 2003/07/18(金) 07:06 [ /MmrDGdg ]

とにかく楽しむこと。自分のために。




自分には漢文力がないからといって迷う必要はありません。
世界で一番、漢文力がないと自信をもって言える人だけが参加の資格を失います。
しかし世界で二番目くらいかな、という人は、自分より読めない人のために参加してください。
ほかでもない、むじんがその程度のかるい気持ちで『三国志』を訳しています。
もし訳を間違っても、誰かが気付いて直してくれるから心配いりません。
ヘタでもヘタなりにやっていけばいいし、
間違いを指摘されることがあっても、その経験の積み重ねが宝物になっていきます。

「何不為也!」
これが少しでも読めたような気がした人は、私たちと一緒に体験してみませんか。
4  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:00
4 名前: むじん@IMAGINE★ 投稿日: 2003/07/18(金) 07:13 [ /MmrDGdg ]

なにも『論語』一冊まるごと翻訳しろ、とは言いません。
ただ1つの行でも、1つの語句でもかまわないんですよ。
あまり難しく考える必要はないんじゃないかな…。
5  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:00
5 名前: むじん 投稿日: 2003/07/31(木) 17:27 [ /MmrDGdg ]

…わかんないところは他人まかせ。

「但以地処函夏人伝正朔度長n短魏実居多.」
たぶん、漢民族の土地を支配し、暦・度量衡を伝えたのは魏…というような意味かと。

「盍更張,豈真揶揄陳寿哉!」
なんぞ「更張」せざる?陳寿うんぬんは文意が理解できず。

「是書之有紀伝,不必他徴一翻.」
これも意味不明。

「因附列己名参用官本,是書一準王書列名之例.」
官本を参照したらしいけど…。他は?
6  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:00
6 名前: ツ?ツ?ツ? 投稿日: 2003/08/01(金) 16:30 [ /MmrDGdg ]

「迄於両漢名実相允,今古共伝降及曹氏祖名多濫,必無慚徳其惟武王.」
「自晋已還竊号者非.一或承家之僻王,或亡国之庸主,猶曰祖宗.孰云其可.」
「由後比較,而言読者,無以辞害意.」
「使陳寿不美於春秋・遷・固之罪.」
「不託始於魏文,而託始於曹操,実不及魏書,序紀之得体.」
今回はむずかしいです。
7  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:01
7 名前: むじん 投稿日: 2003/08/02(土) 18:13 [ /MmrDGdg ]

今回のナゾ。
「疑以伝疑省多少,呂政牛睿穢汙緗素也.」

今まで以上に意味不明。手がかりさえ掴めず…むぅ。
8  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:01
8 名前: suite 投稿日: 2003/08/03(日) 18:45 [ tWsIOzSo ]

 主語に当たる文字さえわかればと思ったのですが、後文の「呂政」でしょうか?
 だとしたらおそらく始皇帝を指すと思うのですが・・・。
 「睿(=叡)」は、「聡明さ」「聡明なさま」「天子の言動・事物に用いる敬語」
 「穢」は、「よごれた、荒れた」「雑草、よごれ、悪人、邪悪な行為」
 「汙(=汚)+名詞」は、「汚れを洗い落とす」
 「緗素」は、、、訳せません(汗)

 手がかりがつかめたら、またメールします。
9  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:01
9 名前: むじん 投稿日: 2003/08/03(日) 19:06 [ /MmrDGdg ]

おお、なるほど。呂不韋の血筋を引いているから呂政というのですか。
「睿」というのが天子の言動を修飾する敬語以外の使われ方を知らなかったんですが、
かといって穢汚という言葉に付くとも思えず、どうにもならなかったのですが、
呂政の解をお聞きして、ああ、これは東晋の司馬睿のことだと理解できました。
司馬睿は魏将牛金の血を引いていると言われているんです。
「緗」は桑の若葉、または浅黄色の絹のことのようですね。
呂政・牛睿が素絹をけがした、と。…で、いいのかな(^−^
10  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:01
10 名前: KJ 投稿日: 2003/08/13(水) 01:17 [ 3ZIGl9Fs ]

官職・称号でつまずいています。アドバイスをお願いいたします。

「秦州.案禹貢本雍州之域,魏始分隴右置焉,刺史領護羌校尉,中間暫廃.」

秦州。『禹貢』によるともともと雍州の領域であった。
魏の始め、隴右を分けてここに置き、〜〜 暫定的に廃止した。

「刺史領護羌校尉、中間」の部分どう解釈したらいいでしょうか。
刺史|領|護羌校尉、  刺史領|護羌校尉、  刺史|領護羌校尉、
単語の切り分けができません。そのため中間も意味がわかりません。
どうかよろしくお願いいたします。
11  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:01
11 名前: suite 投稿日: 2003/08/13(水) 05:49 [ C9O6rWcU ]

 KJさん、コツコツと「職官志」を訳しているsuiteです。官職関係となるとつい瞳が輝いてしまいます♪
 ところで、このような便利なサイトがあります。
 中華民国台湾のサイトなので、大陸でのみ使われている漢字が採用されていたりと厄介なところはありますが、たいへん有益なサイトです。

 http://www.sinica.edu.tw/~tdbproj/handy1/
 http://china.ic.daito.ac.jp/cgi-bin/handy/ftmsw3

 刺史|領|護羌校尉 でいいと思います。

 隴右ヲ分カチテ焉ヲ置ク、刺史ヲシテ護羌校尉ヲ領セシム(かな?)
  → 隴右を分けてこれを置き、刺史には護羌校尉を兼任させた

 という意味だと思います。
12  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:02
12 名前: むじん 投稿日: 2003/08/13(水) 07:45 [ /MmrDGdg ]

KJさん、こんにちは〜。suiteさんもおつかれさまです。

おおよそsuiteさんのおっしゃる通りで、領・守・行・兼はみな兼任という意味のようです。
「焉」はコレ・ココと読みますが、もしかしたら日本語では読まない「置き字」の可能性も…。
「始」はハジメテと読むのではないでしょうか。
「初」と「始」は日本語での使い分けと少し違うようなので戸惑うことがあります(^^;
「中間」はナカゴロかな?魏の時代の中期という意味でしょうか。たんに「途中」でいいかも。

がんばってください〜♪
13  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:02
13 名前: suite 投稿日: 2003/08/13(水) 10:10 [ C9O6rWcU ]

あら、ほんとだ。。。「焉」は読まなくとも通じますね。
「隴右を分かちて置く」→「隴右を分けて置いた」「隴右地方を分割して設置した」


「初」と「始」のちがいは熟語にしてみればわかりやすかと思います。
  「最初」「初年」→さいしょ
  「開始」「始業式」→はじまり


『晋書』巻二十四「職官志」に、

 「護羌、夷、蠻等校尉,
 案武帝(司馬炎)置南蠻校尉於襄陽,西戎校尉於長安,南夷校尉於寧州。
 元康中(291〜299),護羌校尉爲涼州刺史,西戎校尉爲雍州刺史,南蠻校尉爲荊州刺史」

とあります。このことを指すのでしょうか。

それにしても短時間集中レスですね(⌒▽⌒)у
14  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:02
14 名前: むじん 投稿日: 2003/08/13(水) 11:04 [ /MmrDGdg ]

なんというか、厄介なことで。
魏が隴右から分割設置したというのは一体なにを指しているのでしょうか。
秦州かな?でも『三国志』には魏の時代に秦州が存在したという記述がないんですよね。
おそらく『禹貢』の文を承けて、雍州を指していると思われます。
そうすると後に続く刺史は雍州刺史ということになります。
しかし『三国志』に温恢や徐バクが涼州刺史・領護羌校尉となったことは見えますが、
雍州刺史・領護羌校尉については記載がありません。
suiteさんご紹介の「職官志」でも(後の時代です)、涼州刺史が護羌校尉を兼務したことになっていますね。
魏朝最後の雍州刺史は鍾会とともに蜀を攻略した諸葛諸でしょうか。
蜀攻略が263年冬、雍州を秦州と改めたのが晋朝建国を挟んで269年ですから、
「中間尋廃」したのは雍州のことではなく、刺史と護羌校尉の兼任のことでしょうね。
ああ、ややこしい…ほんと。
15  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:02
15 名前: KJ 投稿日: 2003/08/13(水) 23:44 [ PihvCcGY ]

ご丁寧な、そして早速なアドバイスありがとうございます!

刺史|領|護羌校尉 ですか!なるほど、それに領は兼任ですか。
これはありがたい!一歩前進しました!
IMAGINEはこういう使い方もあるんですねー!

それと魏が秦州を置いた話ですが、
同じ地理志上の雍州志では、
「魏文帝即位,分河西為涼州,分隴右為秦州,改京兆尹為太守,
馮翊、扶風各除左右,…」
とあります。晋書地理志だけで見ると、
魏の始めに(が始まってから)、秦州を置いたようです。

suiteさん、むじんさん、どうもありがとうございました。
また利用させていただきますねー!
16  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:03
16 名前: むじん 投稿日: 2003/08/14(木) 00:06 [ /MmrDGdg ]

この掲示板も少しお役に立てたようで嬉しいです。
それにしても、新事実発覚ですね。
なんと魏文の時代にすでに秦州があったとは思っても見ませんでした。
『三国志』を読んだだけでは三国時代を理解することはできないんですね。
17  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:03
17 名前: KJ 投稿日: 2003/08/21(木) 00:19 [ KpkB4SgU ]

訳す上で知識として知っておきたいことがあります。
蜀郡属国都尉など、郡の属国都尉についてです。

「安帝又以諸道置蜀、廣漢、ケン為三郡屬國都尉,」

意味は、「安帝はまたもや蜀、廣漢、ケン為の三郡に諸道を置いた」
ことと、「三郡それぞれには、屬國都尉が置かれた」
ということだと思います。

「属国」は異民族を支配するときなどに置かれる植民地のようなもの
だと思います。都尉は軍事職によくつけられるので、
属国都尉は、その属国を統治する軍事職だと思います。

上記の原文を見て、名詞と動詞に注意しながら読むと
実は間違って理解しているのではないかと心配になりましたので、
実際はどうなのかを確認をしたいと思っております。
よろしくお願いいたします。
18  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:03
18 名前: むじん 投稿日: 2003/08/21(木) 01:41 [ /MmrDGdg ]

どもです、こんにちは〜!
そうですね、この属国都尉もなかなか難しいところがありますね。
広漢郡の領域は広いため太守一人では治めにくいということで、
はじめ郡北部の統治を担当する出張所を設けました。それが広漢郡北部都尉です。
それは陰平道・甸テイ道・剛テイ道の3道で構成されていました。
のちに北部都尉を格上げして郡と同格にしたのが、広漢属国都尉です。
広漢属国という名前ですが、実は直接益州に属していて広漢郡からは独立しています。
ただ郡と呼べるほどの規模ではないので、属国都尉と呼ぶことにしたわけですね。
その職名も武官だからというだけでなく、太守に準ずるものという意識があると思います。
同じく蜀郡西部都尉、ケン為南部都尉が昇格されて属国都尉になりました。
さらに時代が下って広漢属国は陰平郡、蜀郡属国は漢嘉郡、ケン為属国は朱提郡になります。
ですから、郡中に都尉が置かれたというよりは、
郡を二つに分けて、一方に太守ならぬ都尉を置いたという感じでしょうか。

こういう説明でいいのか、はなはだ疑問ではありますが…(^^;
19  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:03
19 名前: KJ 投稿日: 2003/08/21(木) 02:18 [ KpkB4SgU ]

うおおお!そそる話ですね〜。

>のちに北部都尉を格上げして郡と同格にしたのが、広漢属国都尉です。
くどい質問します。すみません。
「広漢郡北部都尉」は出張所という行政単位でもあり、
同時にそこを治める職(名)でもある、ということでしょうか。

言葉だけでは難しいので表を補足でつけます。

郡−太守
属国−属国都尉
北部都尉−北部都尉
20  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:03
20 名前: KJ 投稿日: 2003/08/21(木) 02:24 [ KpkB4SgU ]

引用部分間違えました。訂正します。
>はじめ郡北部の統治を担当する出張所を設けました。それが広漢郡北部都尉です。
21  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:04
21 名前: suite 投稿日: 2003/08/21(木) 03:35 [ 2nt4YauQ ]

 おお、またもや官職が。

>「安帝又以酷ケ置蜀、廣漢、ケン爲三郡屬國寤ム」

 「安帝は又た香Xの道を以て蜀、廣漢、ケン爲三郡に屬國都尉を置く」
   →安帝はまた諸々の道(異民族が多く住んでいる区域・・・であったと思います)をもって、
    蜀・広漢・ケン爲の三郡に属国都尉を設置した。

 『晋書』志第四「地理上」益州の条でしょうか?
 どこからの引用か記していただけると調べやすいのですが。さいしょ『後漢書』を見てしまいました。

 で、『後漢書』の記述ですが。
 『後漢書』志第二十三「郡国志」(中華書局本だと12冊目3515ページ前後)に、

 「廣漢屬國故北部寤ム,屬廣漢郡,安帝時以爲屬國寤ム,別領三城」
 安帝の在位は、西暦106〜125年。

 「蜀郡屬國故屬西部寤ム,延光元年以爲屬國寤ム,別領四城」
 延光元年は、西暦122年。

 「ケン爲屬國故郡南部寤ム,永初元年以爲屬國寤ム,別領二城」
 永初元年は、西暦107年。

 とあります。

 広漢郡に話をしぼりますと、

 「広漢属国は元々は北部都尉であり、広漢郡に属していた。
 安帝の時代、属国都尉として、〔広漢郡とは〕別に三城を統治させた」

 広漢北部都尉(広漢郡の一部。担当者は広漢北部都尉)→ 広漢属国(広漢郡より独立。統治者は広漢属国都尉)
 でしょう。


 高島俊男さん著『三国志 きらめく群像』(121ページ)によると、

  ・・・属国は、郡レヴェルだが郡よりは面積・規模はやや小さい。属国の長官は属国都尉という。(大意)

 とのことです。
22  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:04
22 名前: むじん 投稿日: 2003/08/21(木) 10:08 [ /MmrDGdg ]

『後漢書』では「広漢属国都尉」「蜀郡属国」「ケン為属国」と項目を立てています。
で、集解が広漢属国都尉の「都尉」は衍字だろうと言っています。
普通に考えれば、地名なら「北部」「属国」だけで充分だろうと思うのですが、
suiteさんが引用したように、「属国=旧都尉」になってますので、
都尉という官名がそのまま彼の支配する地域の地名にもなっているわけですね。
司隷校尉や京兆尹、左内史などと同じです。
そうすると広漢属国都尉を地名とするのも、あながち間違いではないかも知れない…。

ちなみに益州の3つの属国都尉のほかにも、京兆尹の虎牙都尉(劉勲)や、
会稽郡の東部都尉(張紘)、汝南郡の陽安都尉(李通)などがありますね。
23  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:04
23 名前: MM2 投稿日: 2003/08/22(金) 23:11 [ 90LmTkfA ]

どうも。

[糸相]素…
古人の写本の多くに[糸兼]素を用い、浅黄色に染めたものをこう呼んだそうです。
転じて書籍を意味するらしいです。
24  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:04
24 名前: KJ 投稿日: 2003/08/22(金) 23:38 [ G9hSHWtQ ]

ご丁寧な回答ありがとうございます。お二方のおっしゃるとおり、
官職名がそのまま地名となった…。そう考えるのも不思議ではないですね。
京兆尹の尹もおかしいなぁと思っていたのでなるほどと思いました。
具体的な解説のおかげで分かりやすく、収穫もあり、よく整理できましたので、
今後の訳につなげていきます。
むじんさん、suiteさんありがとうございました。

PS:失礼致しました、原文の出典書くようにします。
25  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:04
25 名前: むじん 投稿日: 2003/08/23(土) 01:44 [ /MmrDGdg ]

おおっと〜!「?素」は書籍ですか!これはウチの漢和辞典には載ってない意味ですよ。
「名を竹帛に垂る」と言うときの帛と同じような意味ですね。
そうすると「呂政・牛睿が史書を汚すことを減らす」と読めばいいでしょうか。
おかげさまでやっと訳文ができそうです。ありがとうございました。
26  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:04
26 名前: むじん 投稿日: 2003/08/23(土) 01:49 [ /MmrDGdg ]

京兆尹や司隷校尉は始め戸惑いますよねっ。
『職官志』や『郡国志』を読んでやっと理解の手がかりがつかめました。
今後の翻訳に期待しております〜♪
27  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:05
27 名前: suite 投稿日: 2003/08/25(月) 11:10 [ szAGDuvA ]

 いづれは訳すと心に誓っている『後漢書』袁術伝についてなのですが、
 下調べのために『三国志』のほうと見比べていたら、どうもわからない点があるので、
 お知恵を拝借しようと思って書き込みました。

 袁術は即位するに及んで、九江太守を淮南尹と改称していますが、、、

 ならばなぜ劉備や孫権は帝位につくにあたって尹と改称しなかったのでしょうか。
 蜀尹とか丹陽尹とか、、、

 ふとした疑問なのですが、アドヴァイスお願いします。
28  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:05
28 名前: むじん 投稿日: 2003/08/25(月) 18:14 [ /MmrDGdg ]

うーん、これは難しい問題ですね。どなたかhelpお願いします。
呉の丹陽太守に諸葛恪・李衡・沈瑩・呂範・聶友・滕胤がいるようですが、
丹陽尹が現れるのは東晋以降でした。
蜀が蜀郡尹を置かなかったのは、彼らの意識に京師は長安・雒陽とあったからでしょうか。
29  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:05
29 名前: むじん 投稿日: 2003/08/25(月) 18:26 [ /MmrDGdg ]

おーっとと。司馬睿の実父は牛金ではなかったですね。
司馬懿は牛金を毒殺しましたが、小役人の牛氏と密通した夏侯銅環が司馬睿を生んだのでした。
「おそらくは伝の疑わしい部分を削除し、呂政・牛睿が史書を穢したようなことを加減した…」
ということでしょうか。まだまだ疑問は残ります。
30  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:05
30 名前: むじん 投稿日: 2003/08/25(月) 18:28 [ /MmrDGdg ]

ああ、史書じゃなくて系図ですね。
31  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:05
31 名前: むじん 投稿日: 2003/08/26(火) 11:08 [ /MmrDGdg ]

以前、耿武のことを書いたときも迷ったのですが、これがよく分からない…。
「別駕従事耿武等排閤伏子恵上,願幷見斬,得不死,作徒,被赭衣,埽除宮門外.」

「三国志列伝抄」では、「劉子恵を出し抜いて自分が上に立つことを嫌がり」としましたが、これは疑問です。
斬罪になるのなら上に立つも何もないですし、何より構文として不自然です。

今回「武帝紀訳」では「別駕従事耿武らは押し入って劉子恵に平伏し、上疏した」としました。
これも非常に疑問です。劉子恵に平伏した?うーん…。
32  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:06
32 名前: suite 投稿日: 2003/08/28(木) 06:43 [ szAGDuvA ]

 むじんさんへ。
 蜀漢および呉が「尹」を置かなかったことについて、三国志サポート掲示板というところに書き込んでみてもいいでしょうか。

 『集解』のように近代の人によって編纂された書籍について、漢和辞典で理解できない箇所は、現代の辞典で引くと解決することがあるようです。
 大東文化大学文学部が制作した「中国語大辞典」がすぐれているそうです。

 http://www.daito.ac.jp/gakubu/gaikoku/chinese/#jiten
 http://www.cuc.ac.jp/~zhao/cidian.htm

 こ、この値段は、、、んむぅ、、(自壊)
 任乃強『華陽国志校補図注』でもわからない点があるので、いづれは買うことになるんだろうな、と思っていたのですが、、、
33  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:06
33 名前: むじん 投稿日: 2003/08/28(木) 10:27 [ /MmrDGdg ]

あい、どちらへでもお尋ねになってください〜。なにか分かったらこちらにも教えてくださいね。
『中国語大辞典』って、うわー高い!でも魅力的だなぁ。
34  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:06
34 名前: HARUAKI 投稿日: 2003/09/01(月) 13:22 [ qk4OJynw ]

私はフィールドがやや異なるのですが、『三國志集解』(一九三六年、民國の廬弼撰、藝文印書館)に興味を持ち始めました。簡単に入手できるものと思っていたのですが、私の検索力が足りないのか、ネットの書店で見つからないです。当然のことながら自己責任で購入しますので、購入方法をお教え願えないでしょうか?
35  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:06
35 名前: おばら 投稿日: 2003/09/01(月) 15:04 [ Lush6zBE ]

どもはじめまして。真・漢楚軍談のおばらと申します。
私は琳琅閣書店http://www.rinrokaku.jp/で注文しましたよ。
入荷待ちで二ヶ月待ちましたけど。後漢書と三国志の集解を購入しました。

他にもネット上で簡単に待たずに購入できるところがあるかもしれません。
36  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:06
36 名前: suite 投稿日: 2003/09/01(月) 19:59 [ 0Q9hem6w ]

 HARUAKIさん、はじめまして。すぐ手に入れたいとのことでしたら、
 北九州中国書店 http://www.chugoku-shoten.com/ があります。
 新品で値段は6000円ほどです。リーズナブルなほうだと思います。
 私は違うところで購入したのですが、9000円ほどでした(X_X)
37  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:07
37 名前: HARUAKI 投稿日: 2003/09/01(月) 23:17 [ TUY1oUks ]

おばらさん、こんにちは。スイスイことHARUAKIでございます(^^ゞ
あちこちでお世話になって恐縮です。范増に伝がないとは意外でした…
suiteさん、はじめまして。HARUAKIと申します。
捜神記、大好きです。演義では九十九歳まで生きられたそうですが…
【ヴァレンタイン組曲】第二楽章とは、どういう意味なのでしょう?(余計な質問)

書店のご紹介、ありがとうございます。調べましたところ、
北九州中国書店では、在庫目録一覧で、
三国志集解(精)(注疏本二十五史)/年/ TW芸文 6160円
とあり、東方書店 http://www.toho-shoten.co.jp/ では、取り寄せで、
二十五史 7 三國志集解 台北 藝文印書館 105158 1996年 6,930円 精装 1,218p 27cm ISBN
というのが、ありました。
どこか違いがあるのでしょうか?
細かいことを言って、さらにお騒がせして申し訳ありません。
38  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:07
38 名前: suite 投稿日: 2003/09/02(火) 01:32 [ 0Q9hem6w ]

 HARUAKIさん、こんにちは。

 『捜神記』はおもしろいですよね。あといくつかアップしようと思っていますが、かなり先のことになりそうです。

 『三国志集解』については、、、
 おそらく正式名称が「注疏本二十五史 7 三國志集解」で、TWはTAIWANのことと思われます。
 出版元は中華民国台湾の藝文印書館ですので、まったく同じものでしょう。
 輸入本なので、値段には多少の上下があります。
 6000円台ですか、、、私には9000円近く出した記憶が、、、いいなぁ。


 そしてサイト名についてですが、ホームページをつくろうと思ったとき、

 1.KEEFについてのサイト
 2.三国志のサイト
 3.手塚治虫のBLACK JACKのサイト
   (チャンピオン掲載時、単行本収録時、作者逝去後における書き換え箇所についての指摘)
 4.友人の日記サイト
   (なぜか私が管理をする)

 以上の4つをつくろうと思いまして、平行してつくっていたのですが、、、

 1は、情報量の少なさから断念せざるを得なくなり、、、
 3は、掲載当時の週刊少年チャンピオンを全て集め、初版の単行本をすべて集めるのは無理だと悟り、、、
 4は、その友人の個人的事情によってやめになり、、、

 結果的に三国志サイトだけが残っているわけです。

 http://members.at.infoseek.co.jp/valentyne_suite/index.htm

 本来はこれがサイトのトップ画面で、このアルバムジャケットをデザインしたのがKEEFという人です。1970年前後に活躍したフォトグラファー/デザイナーなのですが、この人の本名がわかったのが数年前というほどの情報量の少なさです。有名どころでは、BLACK SABBATH の初期2枚や、DAVID BOWIE の『世界を売った男』などを手がけていますが、ご存知でしょうか。

 4つのサイトをいっぺんにつくっていたので、なんとなく組曲のようだと思い、それぞれ第一楽章、第二楽章、第三楽章、第四楽章などとつけていたのですが、いま残っているのは一つだけです。中途半端な組曲です(笑)、、、(汗)
 いま考えると無茶なことをしたものです(X-X)
39  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:07
39 名前: むじん 投稿日: 2003/09/02(火) 01:58 [ /MmrDGdg ]

わー、少し目を離したあいだに情報いっぱいですね。
『三国志集解』は標点本が出てなかったと思います。全部白文ですね。
在庫状況は分かりませんが、みなさんご紹介の書店以外に以下サイトが手がかりになりますよ。
私は【日本の古本屋】経由で花島書店から購入しました。

【日本の古本屋】http://www.kosho.or.jp/kosho/user/index.asp
【本の街神田】http://www.book-kanda.or.jp/index.htm
【書虫】http://www.frelax.com/sc/
40  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:07
40 名前: HARUAKI 投稿日: 2003/09/02(火) 15:40 [ lkbUlqjk ]

私は、
【睡人亭】http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~tyv07679/index-j.html
の中国書籍販売店DBを参考にさせていただきました。
おばらさま、suiteさま、むじんさま、皆様のご協力に感謝いたします。
余談ですが、
【HINE's Treasure House】http://www.pure.cc/~hine/
において、
http://www.pure.cc/~hine/RockerRoom/Keef.html
を発見しました。クラシック専門だからなのか、知らなかったです…
宮城谷昌光氏は水彩画・写真に興味を持ち、あれほど色彩豊かな小説を描いているのを読むと、人生に無駄はないなあ、と生意気にも考えてしまっています。
スレッドと全く異なる話題と非営利目的の個人サイトを勝手にリンクをしていますこと、毎度のことながら管理人さんにご迷惑をおかけします。
41  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:08
41 名前: むじん 投稿日: 2003/09/03(水) 18:30 [ /MmrDGdg ]

なるほど、【睡人亭】もありましたね。
中国の本をどうやって入手するかは、多くのみなさんの関心ごとだと思います。
こうした情報についても引き続き募集します。
42  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:08
42 名前: suite 投稿日: 2003/09/08(月) 04:45 [ cSzrZBYc ]

 『後漢書』儒林列伝第六十九上「宋登伝」で、javascriptとstylesheetというのを使ってみたのですが、
 「名前をつけて保存」をすると、「<!-- saved from url=」が2つも表示されます。
 私のパソコン(OSはXP、IEは6)から見ると、原文が旧字体になっていて、自分ではとてもうまくいったと思っているのですが、これでいいのでしょうか。
43  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:08
43 名前: suite 投稿日: 2003/09/08(月) 05:29 [ cSzrZBYc ]

 すみません。「<!-- saved from url=」を一つにできました。
 よくわからないものを使うのは難しいですX_X;
44  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:08
44 名前: むじん 投稿日: 2003/09/08(月) 15:32 [ /MmrDGdg ]

その程度のことなら、私でもなんとか分かりますよー。
メールでもくだされ〜。
45  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:08
45 名前: むじん 投稿日: 2003/09/08(月) 18:58 [ /MmrDGdg ]

「その程度」って変だな…。
「それなら私にもなんとか分かる範囲です」でいいかな。
46  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:08
46 名前: suite 投稿日: 2003/09/20(土) 19:08 [ cSzrZBYc ]

 わからない箇所があるので、教えてください。

 『後漢書』儒林列伝第六十九下「高[言羽]伝」の最後のところ
 「賜錢及冢田」がいまひとつわかりません。

 訳としては、「金銭および墓と耕作地を下賜された」?

 「冢(塚)」は、大きく盛り土をして植樹したお墓
 「田」は、穀物を植える耕作地

 それとも、「冢田」で一つの単語なのでしょうか。
47  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:08
47 名前: むじん 投稿日: 2003/09/21(日) 02:58 [ /MmrDGdg ]

こちらの辞書にも載ってないので推測だけでお答えしますが、
「冢田」というのは、墓守に食べさせるための田地ではないでしょうか。
数人の墓守たちが、この田地から上がる収入で生活し、
農作業の合間に墓を整備するというのを想像してみました。
48  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:09
48 名前: NOB 投稿日: 2003/09/21(日) 04:15 [ TYzOjydA ]

suiteさん、むじんさん、お世話になっております。
たまたま発見できたので、ご報告をば。

漢文解読にかなりスタンダードに使われる(らしい)『漢語大詞典』という辞書があるのですが、そこには「冢田=墓地」とありました。用例や出典は不明でしたが、問題の文章については「亡くなったので、葬儀を営むためのお金と墓地を賜った」と素直に解して問題はないだろうと思います。

なお、嬉しいことに『漢語大詞典』はオンラインでの(一部)利用が可能なんです。
http://www.unihan.com.cn/hydcd/hdhome.htmへアクセスし、「漢語大詞典」をクリックすると認証を求められますが、ゲスト用のIDとパスワードはデフォルトでフォームに書かれていますので、そのまま「登録」を押すとログインできます。
これほどの辞書だと家に置くわけにもいかず(そもそも高すぎる!)、いちいち図書館にいくのも面倒なので、オンラインで調べられるのは本当に便利です。
49  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:09
49 名前: suite 投稿日: 2003/09/21(日) 15:17 [ cSzrZBYc ]

 むじんさん、NOBさん、ありがとうございます。早速修正しました。
 『漢語大詞典』は簡体字なので敬遠していましたが、ちゃんと読まないといけませんね(汗)

 サイトの歴史が浅いので少しでも新規公開しようと、とりあえず短い伝を選んでいるために最近は三国時代とはあまり関係ない人物が中心となっています。時代背景を把握していないので難しいです。
 これからも宜しくお願いします。

 NOBさん。
 『晋書』のほうは、正規に公開されたら僕のサイトのほうは削除するということでよろしいでしょうか?
50  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:09
50 名前: むじん 投稿日: 2003/09/21(日) 23:05 [ /MmrDGdg ]

おお、NOBさんありがとうございます!
なるほど、墓地でよかったのですね。
51  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:09
51 名前: suite 投稿日: 2003/09/26(金) 03:05 [ cSzrZBYc ]

 雑談スレッドが欲しいなぁ、と思いながら書き込みます^^;

 気になるのは、呉班が驃騎将軍に任ぜられたのはいつか、ということです。

 「李厳伝」注によると、驃騎将軍李厳が廃された231年当時の上位将軍の面々は、

 車騎将軍 劉エン
 征西大将軍 魏延
 前将軍 袁リン
 左将軍 呉壱
 右将軍 高翔
 後将軍 呉班

 ・・・そして、揚威将軍がトウ芝とあります。

 ちくま訳本には「呉壱に次ぐ」とあるので(原文省略。以下同じ)、呉壱が車騎将軍に任ぜられた234年ではないはずです。
 個人的には、トウ芝が車騎将軍に任ぜられた243年ではと思っていますが、推測の域を出ません。

 やりきれないのが、231年から234年の間に、驃騎・車騎・征西大の3名が相次いでいなくなってしまったことです。しかも、いずれも病卒ではなく・・・(悲)
 234年には、袁リンが驃騎将軍に任ぜられた可能性がありますが、『華陽国志』にも記されていないことを考えると、231〜234の間に卒したのでしょうか。
 同様に、234年には呉壱か高翔のいずれかが征西大将軍に任ぜられた可能性がありますが、、、これもどこにも記されていません。生没年が不明な高翔はともかくも、234年に確実に生存していた呉班の官位がわからないとは・・・。ただ言えることは、「呉班は諸葛亮卒去後はどうやらいくさには参加しなかった」でしょうか。
 将軍というのはいくさに出ないと名前が史書に残りにくいということでしょうか。漢中やライ降はまだしも、巴東郡のことは殆どなにもわかっていませんし・・・。

 結論としては、
 234年、呉班はとりあえず前左右後将軍よりは上位の将軍であった。(征西大将軍?)
 上位将軍であるから、どこか要所を守備していた可能性大である。(巴東?)
 最終的には驃騎将軍に任ぜられた。(243年?)
52  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:09
52 名前: suite 投稿日: 2003/09/26(金) 03:55 [ cSzrZBYc ]

 つづきです。

 となると、次は胡済の件なのですが、『華陽国志』に、248年に驃騎将軍に任ぜられたと明記されています。守備地は漢中。「董和伝」注と付き合わせると、中監軍・前将軍からの昇進のようです。「右」とあるので、「左」はおそらく呉班でしょう。呉班は少なくとも248年には生きていたようです。
 胡済は231年当時には中参軍であり、諸葛亮卒去時の官位で考察すると、長史の楊儀・ショウエン、司馬の費イに次ぐ官位でした。王平なきあとの漢中を守備したことといい、蜀漢でもっとも再評価されるべき人物と思います。

 「歴代補任表」ですが、私も前に似たようなものを作っておりましたので(『漢書』を手本に手書きでルーズリーフに書き込んで、今は部屋の隅に眠っています)、完成されることを祈っています。
53  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:10
53 名前: suite 投稿日: 2003/09/26(金) 03:58 [ cSzrZBYc ]

 51の書き込みですが、正しくは「揚武将軍がトウ芝」です。すみません。
54  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:10
54 名前: むじん 投稿日: 2003/09/26(金) 11:09 [ /MmrDGdg ]

雑談なら「こんにちは!」スレッドがあるし、まあ新設しなくてもいいかなぁと思ってまふ。
呉班が驃騎将軍に任じられた時期ですか。
そうですね、呉壱の車騎将軍在職が確認される237年以前ではありませんし、
四方将軍着任が遅かった搦ナの車騎将軍任官以後でもないでしょうね。
やはり243年が妥当なところでしょうか。
この年は国内で大規模な政変が起こったらしく、蔣琬が職権を失い、
費禕・姜維・王平・馬忠が一斉に昇進しています。
呉班もこの騒ぎに連動して驃騎将軍に昇進した可能性はかなり高いと思います。
ただ、下位にあった王平が、呉壱の死の直後から督漢中の職務に就いているので、
呉班は漢中以外の方面を担当したということになりそうです。
なるほど胡済の右驃騎将軍は呉班と対をなすものですか。気が付かなかったです。
胡済の官途は姜維・張翼とからめれば考えられそうですね。
256年の時点で張翼が鎮南大将軍、胡済が鎮西大将軍だったのは確実ですから、
259年に張翼が車騎将軍になったのと同時期に驃騎将軍になったとも考えられます。
そうすると呉班は259年まで生存していた可能性も…。
55  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:10
55 名前: suite 投稿日: 2003/09/26(金) 21:58 [ cSzrZBYc ]

 胡済は2人いるようなのです。
 248年に驃騎将軍になった督漢中の胡済(「董和伝」注と「李厳伝」注などに記述有り)と、
 256年の時点で鎮西大将軍であった胡済です。

 劉巴も2人いるようなので(尚書令と征南将軍)、わずらわしいですね。

 というか、私が早く『華陽國志』を訳せばいいという話も、、、^^
56  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:10
56 名前: むじん 投稿日: 2003/09/28(日) 05:20 [ /MmrDGdg ]

ええ、『集解』でも別人ではなかろうかと書いてましたが、
いかんせん論拠が書かれてなかったのでスルーしました。
『華陽国志』の方になにか記載ありましたか。
57  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:11
57 名前: suite 投稿日: 2003/10/04(土) 20:18 [ Vdwf6Aa6 ]

 胡済の話と変わりますが、「後主志」の街亭の戦いの後の記述で、

 「亮抜將西縣千餘家還漢中,戮謖及沐、盛以謝衆,奪襲兵,貶雲秩。」とある次の

 「長史向ト以不時臧否,免罷」

 が訳せないので教えてください。

 諸葛亮は西県の千家余りを移住させて漢中に帰還すると、馬謖および張沐・李盛を誅殺して兵士に謝罪し、黄襲の兵を奪い、趙雲の官位を下げた。
 〔丞相〕長史の向朗はそのとき善悪を判定できなかったので、罷免となった(?)。

 でしょうか。「以不時臧否」の訓読ができずにつまづいてます。
58  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:11
58 名前: suite 投稿日: 2003/10/04(土) 22:18 [ Vdwf6Aa6 ]

 「西県の千家余りを率いて」のほうがいいですね。すみません。
59  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:11
59 名前: むじん 投稿日: 2003/10/05(日) 00:41 [ n2rIJIJc ]

うーん、これはどうなんでしょう?
不時は予期しないこと。臧否は善悪のこと、あるいは善悪をつけること。
「不時をもって臧否した」なのか、それとも「不時の臧否をしたことをもって」なのか…。
どちらにしても意味が読みとりにくいですね〜。どなたかのご教示を待ちましょう。
60  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:11
60 名前: 酒匂貴市 投稿日: 2003/10/09(木) 18:22 [ FIGqaxqU ]

I think; therefore I am!!
http://members.jcom.home.ne.jp/diereichsflotte/の酒匂です
背後関係をよく知らないので信用ならないのですが
「長史向ト時あらざるを以て、臧否せられ免罷す」
"長史の向朗は時宜よろしきを得ることができなかったので、人物を評論され、罷免された。"
ではないかと愚考します。
61  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:11
61 名前: むじん 投稿日: 2003/10/10(金) 02:33 [ n2rIJIJc ]

酒匂さん、こんにちはっ。
背後関係といえば誰も知らない…向朗ってそういう人だから…。
なるほど、向朗は臧否の対象になるのですか。
史書の記述が充分でないばかりに、解読にさえ支障を来すものなんですね。
62  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:12
62 名前: むじん 投稿日: 2003/10/10(金) 03:51 [ n2rIJIJc ]

典韋の出身地は己吾(きご)なのか已吾(いご)なのか…。
『典韋伝』では已吾、『武帝紀』では己吾になってます。困ったなぁ。

『後漢書集解』にヒントがあるのですが、読み方がわからない。
「永元十一年陳王削地以大棘郷直陽郷自隠隷之命以嘉名曰己吾猶有陳楚之俗焉」
陳王劉鈞が減封されたときのことを言っているようなのですが、
「嘉名を以て命(なづ)け己吾と曰ふ」って言われても、
己吾と読んでも已吾と読んでも、どこがどうして嘉名なんだか…。
結局どっちなのかがよくわからないんですよね。
63  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:12
63 名前: suite 投稿日: 2003/10/12(日) 07:36 [ Vdwf6Aa6 ]

 酒匂貴市さん、むじんさん、ありがとうございます。
 流れとしては、街亭の戦いの後、尚朗が馬謖関連でなんらかの不祥事をはたらいたので免官された、という感じです。

 「時あらざるを以て」でしょうか。
 そのように読んで訳すことにします。ありがとうございました。
64  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:12
64 名前: むじん 投稿日: 2003/10/13(月) 16:17 [ n2rIJIJc ]

まだ疑問は残るものの、ひとまず落着でしょうか。
向朗は馬良兄弟と親しく、おそらくそのためにこの事件を起こしますが、
のちに左将軍に復帰して行丞相府事になったりと、謎の多い人物です。
65  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:12
65 名前: KJ 投稿日: 2003/10/20(月) 00:06 [ RTtnIJZk ]

久しぶりに質問致します。
『晋書』袁宏伝で、袁宏の死んだ年を調べています。

「太元初,卒於東陽,時年四十九.」

この太元初の初は、太元の元年と解釈するべきでしょうか。
それとも初期と解釈するべきなのでしょうか。
(個人的には元年であってほしいのですが…)
66  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:12
66 名前: むじん 投稿日: 2003/10/20(月) 01:36 [ n2rIJIJc ]

うーむ、ふつう初年と言えば第一ヶ年と見ていいと思いますが、
この場合もそう読んでいいものかどうかはちょっと微妙ですねぇ。
どうなんでしょ^^?
67  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:12
67 名前: NOB 投稿日: 2003/10/20(月) 16:39 [ 97oRSdtU ]

KJさんはじめまして、むじんさんこんにちは。
「太元初」について、横から失礼します。

素人の個人的見解なのですが、経験上「太元初/太元末」というのは「太元年間の初期/末期」と解釈することが多いように思います。
初年を表したいときは、ほとんどが「太元元年」のように書かれており、「初」を使う場合でも第一ヶ年の意味では「初年」と記されているようでした。
太元年間が短かったら良かったのですが、太元年間は不幸にも(?)およそ20年も続いているんですよね。これだと「初期」というのを元年と解釈するのは、ちょっと勇気がいりそうです。
以上、当てにならない素人の見解でした。
Googleで袁宏を検索してみると、"約328〜約376"のようにうまく誤魔化しているところがありましたね。

余談ですが、自分の場合「太元中」のように書かれていると「太元の中ごろ」なのか「太元年間」なのか、ちょっと悩んでしまいます。


それから、ついでのようで申し訳ないのですが、ずっと前の投稿にレスをし忘れていたことに気付きました。
>suiteさん
>>49の「『晋書』のほうは、正規に公開されたら僕のサイトのほうは削除するということでよろしいでしょうか?」ですが、前に菅原さんもおっしゃっていた通り遠慮なく公開なさって構わないんじゃないかと思いますよ。
遅くなり、本当に申し訳ありません…m(_ _)m
68  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:13
68 名前: KJ 投稿日: 2003/10/20(月) 22:53 [ eCrSrPs. ]

むじんさん、NOBさんありがとうございます。
NOBさん初めまして。

お二人の意見を聞いて私もそう思うようになりました。
原文に「元年」や「初年」と書かれている箇所があることを考えると、
「初」だけの記述は初期という意味ではないかと思います。

そこで。ちくまの三国志ですが、いくつか訳をピックアップしてみました。

孫叔然伝「及建安初,」→「建安の初めになって」
孫叔然伝(賈洪)「建安初,」→「建安の初め」
諸葛誕伝「正始初,」→「正始の初年」
法正伝 「建安初,」→「建安の初年」
馬超伝 「建安之初,」→「建安の初年」
諸葛亮伝「以建安初」→「建安初期」

結局のところ、著者がどちらの意味として書いたかを知ることが正しい解釈の近道ですよね。三国志に限らず、どの史書の著者もそろって同様に「初年」と「初期」を分けて著そうとしたならば、ちくまのこれに関する解釈はいいかげんだと思います。

原文の著者たちは意識的に区別していたのでしょうか。その辺りのことが当時の文献として残っていれば解決ですね。

※原文は、私は本を持っていないため、電子漢籍文献から持ってきました。
69  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:13
69 名前: むじん 投稿日: 2003/10/21(火) 01:23 [ n2rIJIJc ]

NOBさん、ご教示ありがとうございます。
やはり第一ヶ年ではなく、もっと広い範囲を指すと見た方がいいのでしょうかねぇ。
同じ事件なのに「建安初」とも書き「建安元年」とは書かない例などがあれば参考になるかも。
どこかで見た覚えがあるのに、それがどこだったか…(^^;
70  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:13
70 名前: suite 投稿日: 2003/10/21(火) 11:28 [ Vdwf6Aa6 ]

 こんにちは。
 「建安初」を読み下すと「建安の初め」で、訳すときには「建安の初年」「建安の初期」などと別れるのは仕方のないことでしょうね。訳者によって表現は変わりますし。
 例えば「建安の初年」でしたら、だいたい1ケタ年(196〜204)というふうに解釈すれば問題ないかと思います。
 時代背景がわかれば、だいたいこのくらいかな、とわかることもありますしね。

 文帝紀注に引く典論
 「建安初,上南征荊州,至宛,張繡降」

 杜襲伝
 「建安初,太祖迎天子都許」
71  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:13
71 名前: むじん 投稿日: 2003/10/21(火) 17:50 [ n2rIJIJc ]

なるほど、やはり歳をまたがっている例ありましたね。
ということは結局ケースバイケースで判断するしかないということになりますね。
落ち着くところに落ち着いたという感じでしょうか(^^
72  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:13
72 名前: KJ 投稿日: 2003/10/21(火) 22:58 [ c2yHV74U ]

なるほど…。私はつい白黒はっきりさせたがるクセがありまして、
もっと現実的に考えなければならないなぁと反省しました。
しかも「初年」と「元年」を同じ意味だと思っていましたが、
むしろ「初年」と「初め」のほうが同じ意味のようですね。
もっと腰を落ち着けてことに当ろうと思います。
みなさんありがとうございました。
73  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:14
73 名前: むじん 投稿日: 2003/10/24(金) 18:18 [ n2rIJIJc ]

「初」をどう訳したらいいか、この言葉が出るたび迷うところですね。

『三国志』今日の更新分に「玉海引元魏江式曰…」とありましたが、どういう意味でしょうか。
北魏の『江式表』…と言ってるんじゃないかと思うのですが、いまいち確証がつかめず…。
74  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:14
74 名前: KJ 投稿日: 2003/10/28(火) 00:21 [ jfYHR20M ]

「玉海引」は「『玉海』を引いて」と読めませんか。
そもそも『玉海』という漢籍があるかどうかは分かりませんが、
Googleで
玉海巻第四十四 浚儀王応麟伯厚甫
玉海巻一一六「景徳考試新格」
というのが見つかったので、もしかしたらと思いました。
違ってたらごめんなさい。
75  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:14
75 名前: KJ 投稿日: 2003/10/28(火) 00:45 [ jfYHR20M ]

齊の明帝の時代の張融という人が『玉海』を著したようなことが
『南齊書』の張融伝に載っていました(電子漢籍より)。
やっぱりあるのかな…
76  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:14
76 名前: suite@後漢紀 投稿日: 2003/10/31(金) 01:45 [ yDtJXiTM ]

 『後漢紀』巻第二十九「孝献皇帝紀」建安十一年(206)の条です。
 短いので、次回の更新はこの箇所になりそうです。

 十一年春正月,有星孛于北斗。占曰,「人主易位。」
 曹操征高幹,斬之。
 己丑,&舞并前三萬戸,食柘城、陽夏四縣,比昶Z、呉漢故事。

 十一年(206)春正月、彗星が北斗星に流れた。占いでは、「人主たるもの(皇帝)が地位を代える」ということであった。
 曹操が高幹を征討し、これを斬った。
 己丑の日、曹操の封地を増やして前と合わせて三万戸、柘城・陽夏ら四県を食邑とし(?)、昶Z・呉漢の故事になぞらえた。

 このような感じでいいのでしょうか。
 これが終わったら、『華陽国志』劉後主志(パート1)を終わらせます。

 漢籍公開 乞御期待
 奇妙奇天烈 摩訶不思議
77  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:14
77 名前: むじん 投稿日: 2003/11/05(水) 16:30 [ 7eJsAdVM ]

語順から言うと、『玉海』は○○を引用して…ということになりそうです。
ただ「元魏江式」というのが分からないのです。
北魏の時代に『江式表』というのがあるらしく(内容は知らない)、
「元魏」は北魏を指していると思われますが、ちと確証なし。

柘城・陽夏四県を食む、の件。
『武帝紀』建安十五年の注に、曹操は武平・陽夏・柘・苦の四県を食んでいたとあります。
曹操は献帝を奉迎したとき武平を領しています。
この記事は、柘城・陽夏の二県を加増され、合わせて四県になったという意味ではないでしょうか。
探してみれば、これ以前に苦城を賜ったとの記事があるかも知れません。
78  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:15
78 名前: むじん 投稿日: 2003/11/05(水) 16:46 [ 7eJsAdVM ]

『于禁伝』に記載する曹操の于禁評。
ちくま訳「わしが于禁を知ってから三十年になる。危機を前にし困難にあって、
 かえって龐悳に及ばなかったとは思いもよらなかった。」
原文「吾知禁三十年,何意臨危處難,反不如龐悳邪!」

ついでに『演義』立間訳。(于禁従孤三十年,何期臨危反不如龐徳也!)
「于禁は三十年もわしに仕えてきたのに、わからぬものじゃのう。
 いざとなっては、龐徳にもおよばぬとは。」

原文を見てみると、ちくま訳のように「于禁は龐悳に及ばない、意外だ!」と、
彼に失望したようにも読めるし、『演義』などもその解釈に則っているようですが、
一方「やはり于禁が龐悳に劣るわけがないのだ!」と解することもでき、
むしろ断固たる意志をもって彼への信頼を貫こうとしているようにも見えます。
曹操と于禁との関係を考えれば、こちらの方が妥当に思われますが…?

拙訳「吾は于禁を知ること三十年になる。危機に臨んで困難に処するにあたり、
 まさか龐悳にも及ばぬなどと、どうして思えたものだろうか!」
どうとでも読めるように案配してみました。
79  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:15
79 名前: 光璧 投稿日: 2003/11/05(水) 19:07 [ SUWmMgwM ]

どうも、初めまして。【解體晉書】の会員の光璧です。

『集解』も『玉海』も見ていないので、どのような文章か分かりませんが、
『玉海』は南宋の王応麟が著した類書のことと見て間違いないと思います。
その中に「元魏江式曰云々」という文があるのでしょう。

北魏の皇室は拓跋氏ですが、後に漢人風に元氏を名乗っていますので、
北魏のことを「元魏」と言ったりもします。
江式はたぶん、『魏書』巻91に伝のある人物のことではないでしょうか?
そこに「求撰集古今文字表」という文章があります。
ただ、『魏書』ではなく、わざわざ『玉海』から引いている
ところからすると、この文章ではない可能性が高いですけど……
80  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:15
80 名前: suite 投稿日: 2003/11/06(木) 05:29 [ Oy9I6sH6 ]

 むじんさん、ありがとうございました。早速公開しました。
 次は『華陽国志』パート1を完成させます。今年中にパート2(西暦231〜243)に入れるようにしたいです。

 光璧さん、来てくださってありがとうございます。
 中国史を愛する方々みんなで盛り上げていけたら、と思います。

 みなさまのこれからのご活躍をお祈りします!
81  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:16
81 名前: むじん 投稿日: 2003/11/06(木) 15:44 [ DBesovEY ]

光璧さん、はじめまして。
【解體晉書】【虎渓の橋】でお世話になっております。

なるほど、拓跋氏が元氏を称していたのですか。
拓跋魏、北魏、後魏という呼び名は知ってますが、元魏というのは初耳でした。
これでやっと問題が一つ解決しました。ありがとうございます。

【寒泉】を引くと、江式の名は『四庫総目提要』に何ヶ所か見えますが、
彼の著作として引かれるのは『古今文字表』ではなく『論書表』というものです。
どうやら『総目提要』のような内容の書で、すでに散佚していたようです。
『三国志集解』に引かれているのは、『三蒼』という書物の説明のためなので、
やはりこの『論書表』のことなのだろうと思います。

suiteさん、こんにちは。更新分拝見しました。
『華陽国志』も楽しみです。諸葛亮の死をはさんで体制入れ替わりの時期にあたりますね。
この交代期は蜀漢の歴史のなかでもかなり重要だと思っているので、しっかり拝見しておきたいです。
82  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:16
82 名前: むじん 投稿日: 2003/11/11(火) 17:55 [ PTiOfxRo ]

『三国志』徐晃伝。朱霊の注に朱霊の子朱術なんてのが出てきました。
あれ?と思ったのは、ちくま訳と同様【中央研究院漢籍電子文献】でも脱落していること。
両者ともに宋本をベースにしているらしく、おそらく宋本に「子術嗣」の三字が欠けているのでしょう。
盧弼集解ではその異同に触れられず、中央研究院もちくまも校勘漏れしているのが面白いですね。
83  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:16
83 名前: むじん 投稿日: 2003/11/11(火) 17:58 [ PTiOfxRo ]

『三国志』張コウ伝。「張コウが征西車騎将軍になった」とあります。
この官職は未見。『斉王芳紀』では車騎将軍とあるので「征西」の二字は衍字と思われます。
集解でも指摘されず、中央研究院もちくまもマヽ踏襲しています。
84  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:16
84 名前: suite 投稿日: 2003/11/11(火) 22:56 [ Oy9I6sH6 ]

 こんにちは。官職関係ということで目の色が変わっているsuiteです。
 征西車騎将軍とは、悩ませる官職名ですよね。いくつか考えられるものを記してみます。

 1.「征西、車騎将軍」の誤りである。(洪飴孫『三国職官表』の「征西将軍」の項には、「太和元年由左将軍遷,是年転車騎将軍」とあり、「車騎将軍」の項には、「太和元年由征西将軍遷」とあります。張コウは諸葛亮侵攻に対する防衛軍として指揮を執っていますから、征西将軍であっても不思議はないと思います)

 2.「征西車騎将軍」なる官職名が一時的に存在した。(『華陽国志』劉後主志に、「(西暦230年)秋,魏大將軍司馬宣王由西城,征西車騎將軍張コウ由子午,大司馬曹眞由斜谷,三道將攻漢中」とあります。『晋書』景帝紀の最後の部分にも、「宜依霍光故事,追加大司馬之號以冠大將軍」とあり、「大司馬大将軍」なる官職がありました。・・・ただ、車騎将軍が征西将軍的任務を兼任するときには、都督××(隴西・関中など)諸軍事などを加官されることが一般的な気がします。「斉王芳紀」で「車騎将軍」と書かれているのは、品位の上の将軍名のみを採用したのでしょうか)

 私は「1」だと考えますが、どうでしょうか。
85  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:16
85 名前: むじん 投稿日: 2003/11/12(水) 19:41 [ VvX2WbH6 ]

suiteさん、こんにちは。
うーん、これはなかなか難しい問題ですね。どの立場を採るにしろ傍証不足は免れない…。

(1)私もこれを考えてみたのですが、すでに諸葛亮が撤退したところで征西将軍とし、
まだ功績を重ねずして追って車騎将軍に昇任するのは、今ひとつ必然性がないというか…。
出陣前ならまだ納得できるのですが…。うむぅ。
戦捷後の任官であること、功績を挙げないまま次の任官があること。問題点は二つ。

(2)改めて調べてみると、実は司馬昭が「行征西安東将軍」になってるんですよね。
西なのか東なのかはっきりせい!というところですが(^^
それはともかく、征西将軍の職務を代行する安東将軍ということなんでしょう。
張コウの「征西車騎将軍」もおそらくこういうことなのかも知れません。
この場合でもやはり戦捷後の任官ということで問題が出てくるのですが…。
こちらでは一度の任官ということで、問題点は一つ少ないです。

二度の任命があったとすると、張コウは征西将軍府を関中に建設し、
まだそれが完成しないうちに召し返され、洛陽に車騎将軍府を建設しなければならず、
未完の征西将軍府は破棄されることになります。(もちろん夏侯淵や郭淮との引き継ぎでしょうが)
そんなに慌ただしい詔勅があったかどうか、これも(1)の疑問です。
86  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:17
86 名前: むじん 投稿日: 2003/11/20(木) 18:02 [ H2T3sD9A ]

『三国志』李典伝。原文「会尚遣魏郡太守高蕃将兵屯河上,絶水道」
この「河上」って、やっぱり「黄河のほとり」でいいんでしょうか。
水面に軍船を浮かべて…、ということもありえるのかな?
黄河上流ということではないと思いますが…。はてさて。
87  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:17
87 名前: MM2 投稿日: 2003/11/30(日) 18:21 [ .9Vk7KPA ]

「河上」ですが、『日本書紀』では「上流」という意味で使っている箇所があるようです。
水を堰き止めるのだったら「上流」でもいいような気がしますが、ちくま版では「ほとり」になってますね。
88  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:17
88 名前: むじん 投稿日: 2003/12/01(月) 19:18 [ 6PopCmTI ]

ありがとうございます、MM2さん。
水上交通を遮断するなら陸上より水上の方がいいのかな、と思って、
その可能性を疑ってみたんです。やはり「ほとり」でしたか。
他の箇所と同じようにした方がいいようですね。
89  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:17
89 名前: MM2 投稿日: 2003/12/23(火) 02:16 [ .9Vk7KPA ]

こちらでは結構ご無沙汰のMM2です。

かなり前のレスになりますが、己吾について。
魏王朝は土徳ですから己(つちのと)に通じます。已は巳(=へび)に通じるそうで巳は五行だと火徳になるそうです。
なので「己(已)吾」が嘉名なら「己吾」の方で合ってるんじゃないかと。
90  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:18
90 名前: むじん 投稿日: 2003/12/23(火) 17:58 [ XYO68Ovc ]

なるほど〜五行説でしたか!
そうなると陳王劉鈞との関係はどうなるのかな…。
まだ少しすっきりしない部分がありますね。
91  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:18
91 名前: MM2 投稿日: 2003/12/23(火) 22:22 [ .9Vk7KPA ]

なんか変なこと書いてましたね。訂正します。
「已吾」の方ですね、すみません。

>陳王劉鈞
調べてみたのですが…
陳敬王伝によると劉羨(劉鈞の父)は一旦西平王(汝南郡八県が封邑)になってお国替えで最終的な封邑は陳国(当時は淮陽郡)らしいですね。
そして子の鈞の代に西華・項・新陽の三県(郡国志によればどれも汝南に属しています)が削減されてます。
郡国志によると陳留郡の圉県・扶溝県は淮陽に属していたとあり、己(已)吾自体も汝南郡に属しているとあります。
…といったように封邑と削地との異同があるように見えて結構混乱しています。(ひょっとして汝南八県+陳国が封邑なのでしょうか?)
92  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:18
92 名前: むじん 投稿日: 2003/12/24(水) 20:09 [ biq5azsA ]

おお、わざわざ調べてくださってありがとうございます。
この陳王についての記述は複雑で、なかなか結論を出すことができないですよね。
いま「吾=虞」と読む可能性を考えているんですが、それが陳王の事件とどうつながるか…。
またよろしくお願いします。
93  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:18
93 名前: KJ 投稿日: 2003/12/26(金) 02:03 [ p4ZjBA/w ]

周魴の孫「周キ」のキという漢字を調べて頂きたいです。ちくまでは[王巳]となっていますが、三国志原文ではどのようになっていますでしょうか。中央研究院電子漢籍では潰れていました。中華書局の晋書では[王己]でした。どなたかよろしくお願い致します。

三国志:巻六十 呉書十五 周魴伝の最後のほう(ちくま7巻389P)
晋書 :巻五十八 列傳第二十八 周キ伝(中華書局5冊目1572P)
94  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:18
94 名前: 辰田 投稿日: 2003/12/27(土) 02:31 [ wiKrNc6E ]

はじめまして、こそっと漢籍の訳出とか挑戦している辰田と申します。

大学図書館で調べてみましたが、中華書局版、汲古書院和刻本ともに
三国志では[王巳]、晋書では[王己]になっていました。
大漢和には見出しは立っていませんでした。
(汲古書院和刻版三国志は[王已]のようにも見えましたが……。
 急いで見ただけなので記憶違いがあれば申し訳ありません)
95  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:18
95 名前: むじん 投稿日: 2003/12/27(土) 04:09 [ /nUDkRYA ]

こんにちは。中華書局の標点本は「巳」、同社の集解も「巳」でした。
ただ全体的に「巳」「已」「己」の書き分けはそれほど厳密でもなさそうです。
>>94 辰田さん
はじめまして、よろしくお願いします。訳文をweb上に公表してみませんか?
96  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:19
96 名前: むじん 投稿日: 2003/12/27(土) 04:13 [ /nUDkRYA ]

ああ、書き忘れ…。
康煕字典では已(イ)になっています。
しかし音は起と同じとありますから、やはり音符は己なのでしょう。
97  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:19
97 名前: KJ 投稿日: 2003/12/28(日) 20:09 [ VObY7HXY ]

辰田さん、むじんさん、ありがとうございます。
三国志と晋書では違うのですね。本を持っていないので助かりました。
また「巳」「已」「己」は別の漢字ですが実際は厳密に書き分けていない模様と。
それでも音に従うと「己」ではないかと。以上とても参考になりました。
まずは晋書のほうを採りたいと思います。ありがとうございました。
>>94辰田さん
はじめまして。よろしくお願い致します。
98  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:19
98 名前: 辰田 投稿日: 2003/12/28(日) 22:47 [ wiKrNc6E ]

ちなみに大漢和では[土己」と[土巳]がそれぞれ別の字として挙がっていた気がします。
……中華書局の人名索引はどうなってるのか確かめれば良かったですね。
図書館が来年まで開かないので、ちらっと見た記憶でしか確認ができません(汗)
99  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:19
99 名前: むじん 投稿日: 2003/12/29(月) 00:50 [ 3teq4ZZI ]

でも起の方は巳なんですよね…康煕字典。
それと関連しますが三国志集解では郭氾について、シとハンの読み二通りの説を載せています。
諸橋大漢和では二つとも載せてますか。
それは異体字として?それとも全くの別字としてですか?
100  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:19
100 名前: NAGAICHI Naoto 投稿日: 2003/12/29(月) 21:12 [ NHnMDv0s ]

ちょうど『通鑑』でそのへんやってるもので、興味深く読ませていただきました。
『資治通鑑』中華書局版では[王巳]に近い[王已]の字になってます。
微妙にくっついてない。(笑)
うちのテキストでは「周玘」と処理してます。
というかユニコードじゃこれしかないんだもん。
101  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:20
101 名前: KJ 投稿日: 2003/12/30(火) 02:32 [ Wo1Gq8go ]

さらなる情報ありがとうございます。3つ揃ってしまいました(笑)
人間関係から見ても同一人物だし、やはりこの漢字についてきちんと書き分けていないようですね。
もっとも書き写しの際に、読み違い・書き違いしたとも考えられそうですが…。

氾の読みの問題もあるようですし、問題のある漢字の一覧表があると便利だと思いました。
102  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:20
102 名前: むじん 投稿日: 2003/12/31(水) 17:43 [ ICCEMYms ]

おぉ、NAGAICHIさん。情報提供ありがとうございます。
なるほど微妙でしたか。こんなの多いナー(^^
103  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:20
103 名前: KJ 投稿日: 2004/01/04(日) 00:13 [ ogdO343g ]

魏の概要、どう訳せばよいのでしょうか。

原文> 魏武定霸,三方鼎立,生靈版蕩,關洛荒蕪,所置者十二,新興、樂平、…襄陽。
拙訳> 魏の武帝は、覇を唱え、三方に鼎立し、○○○○、関中と洛陽は荒廃し、十二郡を置き(新興、樂平、…襄陽)、

「生靈版蕩」の部分が訳せません。それぞれ四字とも漢和辞典で意味を調べましたが、訳文が全く浮かびません。中華書局本では「靈」に下線が引いてなく、人名地名ではなさそうです。(余談:「三方鼎立」は後でもうひと工夫しようと思います。)
104  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:20
104 名前: MM2 投稿日: 2004/01/04(日) 11:49 [ .9Vk7KPA ]

あけましておめでとうございます。
こちらでは今年初書き込みです。今年もよろしくお願いします。

生靈版蕩す
人民(生靈)の戸籍(版)は揺り動かされ(蕩)定住する者は無く…
という意味でしょうか。
105  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:20
105 名前: 中村 投稿日: 2004/01/04(日) 12:03 [ jRM5CW0w ]

>魏武定霸,三方鼎立,生靈版蕩,關洛荒蕪

二字の主語・二字の動詞(句)のくり返しですね。
MM2さんの指摘に有るとおり生靈は人民のことで、漢和辞書に載ってると思います。載ってなかったら辞書であれば使わないほうが賢明かと(笑)。

「版蕩」は、不安定で乱れることです。『詩経』の板・蕩の2篇が周のq王の治世が混乱したことを記していることからできた熟語です(by『漢語大詞典』)。「板蕩」が本来の形ですが「版蕩」も広く通じているようです。
106  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:21
106 名前: KJ 投稿日: 2004/01/04(日) 15:15 [ YVR7q5G. ]

MM2さん、中村さんありがとうございます。
「生靈」=人民、これは私の事典にも載っていましたが気づかず、「版蕩」は載っていませんでした。「版」を戸籍と解釈するにしても「生靈」が人民だということを知らないとなかなかそこまでたどり着きませんね。そもそも…二字で考えることに頭が回っていませんでした。勉強になりました^^
家にあった旺文社の漢和辞典をとりあえず使っているのですが、やはりこれでは役不足か…?でかいのが欲しくなってしまいました。
107  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:21
107 名前: スケアクロウ 投稿日: 2004/01/04(日) 16:23 [ BSXSoAHw ]

皆さんこんにちは。
現在後漢書の霊思何皇后紀を翻訳中なのですが、
書き下し方・訳し方に行き詰まってしまいました。
どなたか力を貸して下さい。

献帝の生母王美人についての記述からです。

以良家子應法相選入掖庭.

という文なのですがどこで切れば良いのか分かりません。
「良家の子が応法(?)であったからお互いに選んで後宮に入った」
というヘンテコリンな訳になってしまいます。

宜しくお願いします。
108  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:21
108 名前: むじん 投稿日: 2004/01/04(日) 17:38 [ gQLTfAHg ]

うーん、生霊→人民はいいけど、板蕩→版蕩は載ってないなぁ。
漢語大詞典、漢語大詞典…うへぇ、縮刷版で28000円か…(>_<)
KJさん、MM2さん、中村さん、ありがとうございました。
109  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:21
109 名前: むじん 投稿日: 2004/01/04(日) 17:55 [ gQLTfAHg ]

スケアクロウさん、こんにちは。
「良家の子たるを以て法に応じて相選びて掖庭に入る」と読みました。
ですが今ひとつよく分かりません。
110  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:21
110 名前: スケアクロウ 投稿日: 2004/01/04(日) 19:02 [ BSXSoAHw ]

むじんさま、こんにちは。レス有り難うございます。
さしずめ、
「良い家柄の子であったので、后妃となる基準を定めた法に照らし合わせて、
順に選ばれて、後宮に入った。」
というところでしょうか?
111  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:22
111 名前: むじん 投稿日: 2004/01/05(月) 03:19 [ gQLTfAHg ]

そうですね、そういう風に解釈しました。しかし自信はありません。
112  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:22
112 名前: 中村 投稿日: 2004/01/05(月) 14:28 [ CR1Efv3o ]

むじんさん、レスありがとうございます。
ヤフオクでは1万5千円とかでありましたね>漢語大詞典
例文はありませんがネットでも検索できるので、それを使えばいいかと思います。漢和辞典は辞典によって出来不出来が激しいので、選んだほうがいいですよ^^;

スケアクロウさん、こんにちは。
読みはむじんさんの指摘通りかと。
「應法」がやや見慣れない言葉ですが、「法に照らし合わせて」あるいは「基準に合っていたので」というほどの意味かと思います。「后妃となる基準を定めた」というのは原文にないので括弧つけにした方が親切だと思います。
それから「相」というのはここでは「互いに」という意味ではなく、「選んだ」ということを言っているので、「相選」で選ぶと訳すべきところでしょう。私見を述べましたが、参考にしていただければ幸いです。
113  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:22
113 名前: スケアクロウ 投稿日: 2004/01/05(月) 15:01 [ BSXSoAHw ]

むじんさん、中村さん、ありがとうございます。
漢字一字にしても色々な意味があるので漢籍も奥が深いですね。
では引き続き訳出に勤しみます(^O^)g
114  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:22
114 名前: むじん 投稿日: 2004/01/05(月) 17:19 [ 0OigAmKk ]

15000円か…。まだまだ高いな><
当分はweb版を使うことにします(^^

【漢語大詞典】http://202.109.114.220/
115  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:22
115 名前: スケアクロウ 投稿日: 2004/01/05(月) 18:05 [ BSXSoAHw ]

『漢語大詞典』ですかー
こんなサイトがあったんですね。知りませんでした。
熟語が検索できるので便利ですね(*´∇`*)
116  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:22
116 名前: KJ 投稿日: 2004/01/05(月) 22:44 [ Stfp.emc ]

ぬ!そんなサイトがあったのですか!
貴重な情報ありがとうございます。
117  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:23
117 名前: むじん 投稿日: 2004/01/06(火) 01:10 [ jhfvr9NU ]

このサイトはIEじゃないと見られないのが欠点ですね。
内容はどうでしょうか。性質からいえばCD-ROM版と同じなのかな。
118  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:23
118 名前: 中村 投稿日: 2004/01/06(火) 07:45 [ h88U1lmo ]

>【漢語大詞典】サイト
例文が全くないのでCD−ROMの1.0版と同じですね。
最近、用例を含む2.0版が出ました。
119  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:23
119 名前: むじん 投稿日: 2004/01/06(火) 15:51 [ uojREo2Q ]

詳細な情報提供ありがとうございます。
なるほど、やはりそうでしたか。例文はともかく出典が欲しいかな〜。
ああ、それに確かCD-ROM版は中文Windowsのみ対応でしたっけ。
そうすると、やっぱり縮刷版が安くなるまで待つしかないか…。
120  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:23
120 名前: suite 投稿日: 2004/01/19(月) 02:57 [ 40L42EhI ]

晋書トウ注の編纂者の一人である呉士鑑の生没年が記載されているサイトがあったのですが、久しぶりにみたら消えていました。
生没年自体は、清・同治七年(1868)〜中華民國二十三年(1934)と判明しているのですが、ご存知の方がいらしたら教えてください。

http://www.huaxia.com/HuaXiaRenWuKu/XianDai/WenHua/GBK/58802.html
ここが消えてしまいました。
121  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:24
121 名前: むじん 投稿日: 2004/01/19(月) 20:03 [ 3LniOJRM ]

こんにちは。
ディレクトリごと消えてますし、サイト内検索でもヒットしないようですね。
【香港科技大学図書館】http://library.ust.hk/
のLibrary CatalogでAUTHOR検索すれば呉士鑑の生没年が出てきますよ。
122  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:24
122 名前: suite 投稿日: 2004/01/20(火) 03:54 [ 40L42EhI ]

ありがとうございます。
これで「生没年考2」(かつての「近世における史書注釈者生没年一覧」を改称)を公開できました。
123  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:24
123 名前: むじん 投稿日: 2004/01/22(木) 04:39 [ otGT5LnM ]

これは便利なページですね。
著作権保護期限切れのテキストを扱いたい身としては、
先生がたの長寿が恨めしく…(^^;
124  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:24
124 名前: 美麗島の名無桑 投稿日: 2004/01/23(金) 13:34 [ 40L42EhI ]

ついに『後漢書』を開始されましたね。
お祝いの書き込みをしようと思ったのですが・・・
劉寵をとられたァ!(訳したいのは最後のほうだけですが・・・とか言ってみる)

気づいた箇所がありましたので、ご報告しようと思います。
「まだ一度も司徒になっていない」は、
「未だかつて司徒になったことはない」などのほうがニュアンス的にいいかなと思いました。

『後漢書』のほうも続けてくださると嬉しいです。
125  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:24
125 名前: むじん 投稿日: 2004/01/23(金) 18:12 [ 3AXz8JbQ ]

美麗島の名無桑さん、こんにちは。
劉寵伝は劉矩伝に続けて取りかかる予定ですが、
もちろん美麗島の名無桑さんが翻訳されてもいいですよ。
できるだけ多くの訳があった方が、読者から見れば比較検討しやすいです。

『後漢書』を訳すにあたっては『三国志』より読みやすい訳文を心がけていますが、
たしかにご指摘の部分は少し暴走していたかも知れません。改めておきます。
ご指摘ありがとうございます。
126  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:25
126 名前: むじん 投稿日: 2004/01/25(日) 01:24 [ mkqGX29A ]

劉寵伝アップしました〜。
途中、市井うんぬんはちょっと分かんなかったですね。
127  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:25
127 名前: 中村 投稿日: 2004/01/25(日) 13:55 [ kz6WX1JI ]

むじんさん、こんにちは。訳出拝見させていただきました。

気づいた点を少し^^;

劉寵伝
「春秋井田記」…中華書局で波線が附されているように書名。
「愛物」…物は人・他人の意。「他人を愛しんだ」
「言至市當有所鬻賣」…中華書局本で括弧でくくっているように衍字で解釈したほうがいいかと。

市井云々のところですが、いわゆる井田制を想起すれば訳しやすいかと。
8家族を一纏め(1井)にする。
1家族(戸)への土地配分は廬舎(住居)5畝・公田(収穫は全部納税)10畝・田(私田)100畝。なので8家族で計9頃20畝。
1井の土地配置は、「廬舍在内」真ん中に廬舎。なぜかといえば「貴人」人を貴ぶから。
「公田次之」その次(その外側)は公田。なぜかといえば「重公」公を重んじるから。
「私田在外」一番外側に私田。なぜかといえば「賤私」私を卑しむから。
「因井為市、交易而退、故稱市井」
井ごとで売り買いする。(市で)売り買いして、(終われば井に)引っ込むから「市井」と言うのだ。

以上ご検討ください。
128  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:25
128 名前: むじん 投稿日: 2004/01/25(日) 18:39 [ UY7KNaik ]

おー!中村さん、ありがとうございます。
『後漢書』劉寵伝は案外難しかったですね。
かなり当て推量でやってましたので、こういうヘルプはありがたいです。

なるほど、「春秋井田記」で一つの書名ですか。ここも迷っていたところです。
書名・人名は予備知識がないとどうにもならないので、いつもつまづきますね。
愛物。これは調査不足でした。もっとしっかり調べないとダメです。
廬舎は井田の中央にあるわけですね。これを朝廷内とするから後が困る(^^
それというのも貴人を名詞と解釈したからで、おかげであとあと破綻してくる…。

衍字脱文は底本の状態に復旧して、無理矢理訳文を付けています。
これは『後漢書集解』を尊重するための措置です。
『後漢書集解』は誰でも読むことができるはずですが、
パスワード認証に障害があって表示されるべきものが表示されていません。
これは近いうちに改善しておきたいと思います。
129  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:25
129 名前: suite 投稿日: 2004/01/25(日) 19:36 [ nq5mZVjw ]

 どうしてもわからない箇所があるので、どなたか手を貸してください(汗)

 『後漢書』法真伝なのですが、
 「法眞名可得聞,身難得而見,逃名而名我隨,避名而名我追,可謂百世之師者矣」

 「法真の名は伝え広まるであろう。【翻訳不能】百世の師ということができる人物であろう」

 和刻本を見ても手がかりが全くつかめないので、教えてください。
130  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:25
130 名前: むじん 投稿日: 2004/01/25(日) 20:42 [ UY7KNaik ]

『後漢書』劉寵伝ですが、やはりこれだけは分からなかったです。
言至市當有所鬻賣,當於井上先濯,乃到市也.
分かっているのは最初の「當」が衍字ということだけ。(全然だめじゃん^^)
131  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:25
131 名前: むじん 投稿日: 2004/01/25(日) 20:45 [ UY7KNaik ]

suiteさん、こんにちは。
なんとなく意味合いだけでも。
「法眞名可得聞」法真の名声は伝わるべくして伝わった。
「身難得而見」我が身を隠そうとしても現れてしまう。
「逃名而名我隨」名声から逃れようとしても名声の方からついてくる。
「避名而名我追」名声を避けようとしても名声の方から追っかけてくる。
でしょうか(^^?
132  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:26
132 名前: むじん 投稿日: 2004/01/25(日) 21:38 [ UY7KNaik ]

『後漢書集解』の閲覧にパスワードを要求する不具合について仮修正を施しました。
これによってパスワードをお持ちでない人でも閲覧することができるはず。
133  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:26
133 名前: 中村 投稿日: 2004/01/25(日) 23:16 [ i84jPwI. ]

>むじんさん
集解を含む文を拝見しました。ありがとうございます。
「當於井上先濯」は、井上に当たりて先づ濯す。
売るべき物があったら、それを井戸の上で洗う。それから市に行く。でいいと思うのですが。
134  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:27
134 名前: むじん 投稿日: 2004/01/26(月) 20:11 [ 8UoEVXMo ]

中村さん、ありがとうございます。
さらに改変を重ねました。

…あとは「光禄大夫察四行」を残すのみ。
135  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:27
135 名前: 中村 投稿日: 2004/01/27(火) 01:16 [ pjijQD/g ]

「光禄大夫察四行」は、光禄大夫、四行に察す。でしょう。

いわゆる光禄茂材、あるいは光禄四行と言うもので、光禄勲が毎年配下から
数人茂材を挙げ(昇進させ=主として県令につかせ)ることです。

この点は福井重雅『漢代官吏登用制度の研究』103頁にやや詳しい説明があり、
劉寵伝も原文が引用されてます。

ご検討ください。

なお、こうした訳出の指摘もある程度著作権が発生すると聞きました。
別に私の指摘は使っていただいて構いませんが、こちらではどうなって
いるのか、ふと思ったもので。まぁ、著作権でそこまで考えなくてもい
いのかもしれませんが^^;
136  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:27
136 名前: むじん 投稿日: 2004/01/27(火) 02:48 [ P7CNlpNk ]

なるほど、これは手元の辞書にはなかったので助かります。
まだ官吏登用の制度には理解が充分でないなぁ。

著作権についての問題は…ややこしいですよ。
まず著作権法に保護されるべき「著作物」の定義をはっきりさせておく必要があります。
日本の法律では、「思想または感情を創作的に表現したもの」、
なおかつ「文芸、学術、美術または音楽の範囲に属するもの」となっています。
後者については問題はないと思いますが、
ご相談の件を考えるには前者との関連を考慮しなければなりません。
結論からいうと「著作物ではない」ということになりますが、
それは(とてもありがたい)ご助言が「思想または感情」に相当しつつも、
具体的な成果物としてコンテンツ本文中に「表現」されていないからです。

こちらの掲示板に投じられたものについては「表現」と認められます。
もし格別ご希望があれば、こちらへのご投稿をまるごとコンテンツ本文に転用いたしますが、
原則としてそうしないのは、当コンテンツの性格を考慮しているためです。
つまり複製権、公衆送信権、譲渡権、貸与権、翻案権等、
著作権保護においてきわめて重要な権利を自ら制限しているため、
その「表現」を無断転用することは、ご助言してくれた方への権利侵害となります。
だから「解」(思想に相当)だけをいただいているわけです。

(ご質問とこの文面を運営スレッドにも転載したいと思いますが結構ですか)
137  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:27
137 名前: 中村 投稿日: 2004/01/27(火) 11:55 [ eP9SEYr. ]

手持ちの中型辞書には「四行」はなかったですね。『漢語大詞典』『大漢和辞典』
にはありました。漢代の選挙制度に特有の言葉ですから無理もないです。

著作権云々についてはよく分かりました。
解体晋書では会として内部で指摘があって、今まで外部からはほとんどなくこ
うした問題に気がつきませんでした。実は最近HPをもうひとつ作ろうかと思っ
ていて、画像やらをたくさん引用したいのですが、著作権法にやや抵触しそうで^^;
「研究上の引用」は現実的に認められているんですが、引用の度合いがまた微
妙なので。ということで著作権法を読んでいたところだったのです。ぶしつけな
ことで失礼しました。運営スレッドへの転載ですが、それには及びません^^;
138  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:27
138 名前: むじん 投稿日: 2004/01/27(火) 18:38 [ 0UHCC6X6 ]

なるほどなるほど。一応web版の『漢語大詞典』も見てみましたが、
それらしいようならしくないような…微妙な感じでした。
著作権に関しては今後のサイト運営に関わってきますし、
FAQページにもっと詳しく説明しておかないとダメですね。
139  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:28
139 名前: suite 投稿日: 2004/01/30(金) 07:16 [ nq5mZVjw ]

>>131
むじんさん、ありがとうございます。次回の更新でアップしようと思います。
140  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:28
140 名前: suite 投稿日: 2004/01/30(金) 08:19 [ nq5mZVjw ]

suiteです。
アップしようと思っていた『後漢書』逸民列伝第七十三「法真伝」なのですが、
見直したところ、意味がはっきりしない箇所があるので、教えてください。

眞曰,「吾既不能遯形遠世,豈飮洗耳之水哉」

『和刻本』に従って読み下すと、
眞曰く、「吾、既に形を遯(の)がれ、世を遠ざく能はず。豈に耳を洗うの水を飲まんや」と。

法真は、「私は既に政治情勢から逃れ、世を遠ざけることができません(?)。耳を洗い清めた水を飲んだりするでしょうか」と言った。

意味が通じないのです(汗)
141  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:28
141 名前: むじん 投稿日: 2004/01/30(金) 12:28 [ SrZHfcXY ]

うーん、これまた難問ですね。
とどのつまり飲の一字ですよね。「ふくむ」と解して要求を呑む、我慢する
といった感じにならないでしょうか。それで水を飲むにかけている、とか。
どうかな。
142  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:28
142 名前: suite 投稿日: 2004/01/30(金) 12:50 [ nq5mZVjw ]

「豈飮洗耳之水哉」の箇所には自注をつけて、
「穢れたことを聞いた耳を洗い清めること。堯に天下を譲られた許由が不快に思って、川で耳を洗い清めた故事に基づく」
などと入れるつもりです。

前文の「不能」の二字がいまひとつ・・・

流れとしては、
「順帝が西方に巡幸したので、田羽は再び彼を推薦した。帝は無私の御心でもって招き寄せたいと願い、詔勅を下して召したことは前後四度であった。
法真は、「私は既に・・・。耳を洗い清めた水を飲んだりするでしょうか」

「法真伝」、短いけれども難しいです。
「逃名而名我隨,避名而名我追」も読み下せないし・・・。
143  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:28
143 名前: むじん 投稿日: 2004/01/30(金) 14:29 [ SrZHfcXY ]

「私はなりを変えて世を遠ざけることができなかったが、(そのうえ)…」
意味としては、こういうことじゃないかと思いますが、
これを正確に訳していくのはちょっと…ですね。

「名を逃るるも、名、我ながら随い、名を避けるも、名、我ながら追う」かな。
難しいですね。
144  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:29
144 名前: suite 投稿日: 2004/01/30(金) 15:38 [ nq5mZVjw ]

なるほど。ありがとうございました♪
次は、以前より手がけていた、列伝第十七「趙典伝」にかかります。
例の大物はその次になりますね。
145  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:29
145 名前: むじん 投稿日: 2004/02/01(日) 19:51 [ 13GUh2Nc ]

法真伝ついに公開ですね。おつかれさまでした。
趙典というと趙謙の一族でしたっけ。たしか宦官がらみの…。
例の大物ー!
146  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:29
146 名前: 中村 投稿日: 2004/02/04(水) 10:03 [ 9DJ0xQfA ]

公孫さん伝の冒頭
女を彼に娶せた
とあるのはやはり「娘」と訳すべきでは。今回は1件のみ。
147  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:29
147 名前: suite 投稿日: 2004/02/04(水) 16:44 [ SNDvE6Ic ]

 『後漢書』列伝第十七「趙典伝」を一部公開開始しました(分量が多いので3分割)。
 主語が誰であるのかよくわからない箇所がありました。難しい。
148  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:29
148 名前: むじん 投稿日: 2004/02/04(水) 19:15 [ W4C1saqI ]

>>146
やっぱり娘の方が現代語っぽいですよね…。
日本史でもずっと女でやって来たのでそれに慣れてしまいました(^^;
>>147
おつかれさまでした。あとでリンクさせていただきます。
遣○○はよく出てくる表現ですね。帝か朝廷でいいと思います。
149  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:29
149 名前: suite 投稿日: 2004/02/15(日) 21:22 [ /IbfE2Js ]

馬徳信・王子均・勾孝興・張伯岐は功績を立てて仕事を成し遂げ、
劉二主の御代、称美荊楚(?)。
すなわち先漢以来、馮車騎・范鎮南は、みなこの土地に生まれたのだ。

難しいですね。
次のような訳はどうでしょうか。

馬徳信・王子均・勾孝興・張伯岐は功績を立てて仕事を成し遂げた。
劉二主の御代は、荊楚出身の人材を称美していたが、
しかしながら、先漢以来、馮車騎・范鎮南は、みなこの土地に生まれたのだ。

「乃」には、「意外なことに」などの意味があるようです。
150  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:30
150 名前: むじん 投稿日: 2004/02/16(月) 18:45 [ POjEnmZ2 ]

あ〜、なぁるほど。
荊楚というので荊州出身者が優遇されたという意味だろうなとは思いましたが、
そこから馮車騎につながりませんでした。
早速訳文に反映させていただきます♪
151  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:30
151 名前: むじん 投稿日: 2004/02/16(月) 18:54 [ POjEnmZ2 ]

固陵太守になった武陵の康立って廖立のことですよねえ…。
『蜀志』廖立伝では巴郡太守になったとありますが。
152  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:30
152 名前: suite 投稿日: 2004/03/01(月) 13:53 [ /IbfE2Js ]

ようやく停滞中Ver.ということで断片的に復活したのですが、
まだいろいろと慣れない点があるので、文字化けなど教えてくださったら嬉しいです。

【IMAGINE】トップページの私のサイトアドレスを、
http://members.at.infoseek.co.jp/valentyne_suite/san-gokushi/index.htm
に変更お願いします。旧トライポッドからの転送が終了したとの通告がきました。

『晋書』宣穆張皇后伝のリンクを、
http://members.at.infoseek.co.jp/valentyne_suite/san-gokushi/shinjo_re1_senbokuchokogo.htm
に変更し、

『南史』裴松之伝を、
http://members.at.infoseek.co.jp/valentyne_suite/san-gokushi/nanshi_re23_haishoshi.htm
に変更しましたので、修正お願いします。
153  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:30
153 名前: むじん 投稿日: 2004/03/01(月) 18:16 [ d9UY9gh6 ]

おっとと…トップページだけ直すのを忘れてましたね。すみません。
もう大丈夫です。
154  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:30
154 名前: suite 投稿日: 2004/03/06(土) 15:40 [ /IbfE2Js ]

華陽国志を再開させました。

武氐王符徤請降,將軍張尉迎之,過期不至。
大將軍琬憂之。
牙門將巴西張嶷曰,「徤求附款至(略)。」

武宸フテイ王符ケン、降らんことを請ふ。
將軍の張尉、之を迎へるに、期を過ぐるも至らず、大將軍琬、之を憂ふ。
牙門將巴西の張嶷曰く、「ケンは附して款至せんことを求む。(略)」

武都の氐族の王の符ケンが降伏を願い出た。
将軍の張尉に彼を迎えさせたが、約束の時期を過ぎても来なかったため、大将軍の蔣琬はこれを心配した。
牙門将の巴西郡の張嶷が述べるには、

その後が訳せません。
ちくま『三国志』張嶷伝にも同じ会話文があるのですが、どうもピンとこないのです。

ご存知の方がいたら教示願います。
155  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:31
155 名前: むじん 投稿日: 2004/03/06(土) 17:29 [ pW/3B3aI ]

下の「至」は動詞ではなく形容詞だと思います。
「款」は誠実さ、「款至」は誠実さの極致。
「ケンの附するを求むは款至たり。」ではないでしょうか?
156  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:31
156 名前: two_yossy 投稿日: 2004/03/07(日) 01:36 [ rJjwsy.k ]

「華陽国志」が手元にないので、「三国志」を使って訳してみます。
〈巍 之を平ぎて曰く、「苻健 附款を求めて至れば、必ずや他変無からん。
素より健の弟の狡黠なるを聞き、又た夷狄の功に同ずる能はずんば、
将に乖離有らん。是を以て稽留するのみ」と。
数日にして問至り、健の弟 果して四百戸を将ゐて魏に就き、
独り健のみ来りて従ふ。〉
というところでしょうか。
附款は、附はなつく・従う、附庸の附。款も、親しむ・従う、
通款の款。「晋書」載記15苻登伝(中華書局本p.2955)や
「北史」斉高祖紀(中華書局本p.218)参照。狡黠は、狡猾に同じ。
稽留は、稽遅とも。滞る・遅れるの意。「史記」律書(中華書局本p.1247)
参照。役に立ちましたでしょうか。
157  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:31
157 名前: suite 投稿日: 2004/03/07(日) 06:26 [ /IbfE2Js ]

むじんさん、two_yossyさん、ありがとうございます。

ちくま訳「張嶷伝」は、「ケンの附するを求むは款至たり」を採用していると思われます。
とりあえずはこれで読み、「ケンは附款を求めて至れば」を自注で加えました。
158  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:31
158 名前: むじん 投稿日: 2004/03/08(月) 12:32 [ h0iP.sXE ]

やはり「附款を求めて至れば」という読み方もできるんですねぇ。
そうすると、どう読むべきかは文脈によって判断せざるを得ないわけですが、
よくよく見ると、『三国志』では健の弟が四百戸を率いて魏に投じたことになっていて、
『華陽国志』では健が四百戸を率いて蜀に帰したことになってます。
どちらを是とするかで、「健求附款至」の読み方が変わってきますね。
159  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:31
159 名前: suite 投稿日: 2004/04/18(日) 21:49 [ oazses8. ]

晋書巻三十二 后妃列伝下第二 安徳陳太后なのですが、

「安梺ツ太后諱歸女、松滋潯陽人也。父廣、以倡進、仕至平昌太守」

和刻本に従って読み下すと、
「安梺ツ太后、諱は歸女、松滋潯陽の人なり。父の廣は、倡進を以て、仕へて平昌の太守に至る」
となるのですが、「以倡進」が訳せません。

『漢書』列伝第六十七上に同じ部分があるのですが、「楽人を進めた」とあり、意味がわからないのです。
160  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:32
160 名前: むじん 投稿日: 2004/04/19(月) 04:11 [ zs86ZTN6 ]

んー、よく分からないけど固有名詞みたいなものじゃないですかねえ。
太后が歌唱と弾琴を能くしたということなので、
その父親としておこぼれにあずかったという感じだと思います。
わざおぎの親族に与えられる「倡進」という特別待遇があるのでは?
161  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:32
161 名前: two_yossy 投稿日: 2004/04/20(火) 16:58 [ eiziROyw ]

 『史記』外戚世家と『漢書』李夫人伝から推測すると、この表現は
「倡を以て進む」となるはず。史記「然れども皆な倡を以て見はれ、
王侯・有土の士女に非らずんば、以て人主に配する可らざるなり」。
漢書「孝武李夫人、本と倡を以て進む」。
 倡は顔注に「楽人」とあり、そのひとつ前には「倡優(わざおぎ)・
雑伎千人を以て其の園を楽します。故に千人聚と号す」とあるのも参考に。
 つまりこの箇所は、「父の広は、倡優の身から累進出世し、官位は
平昌太守に至った」という訳になると思います。
 詳しくはないのですが、このあたりから晋の門地主義の崩壊が始まる
のでしょうか。
162  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:32
162 名前: suite 投稿日: 2004/04/20(火) 21:57 [ oazses8. ]

「倡を以て進む」でしたか。ありがとうございます。
江戸時代の漢学者は「倡進を以て」で通じたということなんでしょうね‥‥

おっしゃる通り、こういう出仕は例外的かもしれません。
曹操の卞皇后も「本は倡家なり」とあるのが興味深いところです。
芝居などを見に行った権力者が、美しい歌姫を誘った、と想像してみたり^^
163  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:32
163 名前: two_yossy 投稿日: 2004/04/20(火) 23:42 [ rJjwsy.k ]

 suite様
 誤訳ご指摘ありがとうございました。
 161のスレは、手元に資料がなかったのですが、いま野口定男 訳『史記 中』
平凡社を見ると、外戚世家の「見」は「まみえる(謁見)」の意で訳されてますね。
自分は「顕」の意と解釈しました。小竹武夫 訳『漢書8』筑摩書房では、
当該箇所は「光武帝の李夫人は、もと楽人として進められた」となっており、
品物のように「進呈」されたとも、美人として「推挙」されたとも取れる
訳し方になっています。女性だから「進む(累進出世する)」ことがない
との意から、他人によって「進められた」と解したのでしょうか。
 でもそうなると、suiteさまが訳している陳后の父の場合とは合わなく
なりますよね。男なんだから。まあそれでもしがない倡優なので、他人の
意のままに進呈されたと解するべきなのでしょうか。すると、『史記』の
孔子世家に斉が女楽を贈って魯の政治を乱した記事がありますが、
江戸時代の漢学者はそれを想起して、「倡優の進物として」の意として
「倡進なるを以て」と訓じたのかも知れません。
 が、苦しすぎる。
 目下のところ自説の「倡を以て進む」を押します。
164  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:33
164 名前: suite 投稿日: 2004/04/21(水) 00:39 [ oazses8. ]

いえいえ、こちらこそ読み下せなかった箇所が判って感謝しています。

一応、こうなりました。
http://members.at.infoseek.co.jp/valentyne_suite/san-gokushi/shinjo_re2_antoku-chintaigo.htm

自注を添えました。
「倡伎である娘を皇帝に推挙したことにより、或いは、娘が皇帝に召しだされたことにより出仕した、とも読める」

まだ刊行されていませんが、吉川忠夫教授本ではどう解釈されているのか興味あります。
165  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:33
165 名前: むじん 投稿日: 2004/04/21(水) 02:31 [ DBesovEY ]

ふーむ、なかなかややこしい事情があるんですね。
この辺りは当時の文化背景を把握してないと結論でませんね(^^;
166  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:33
166 名前: むじん 投稿日: 2004/04/21(水) 07:15 [ DBesovEY ]

しかし倡をわざおぎと読むのも先入観かも。
倡引=薦引、倡率=率先、倡首=提唱。
167  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:33
167 名前: two_yossy 投稿日: 2004/04/21(水) 10:17 [ eiziROyw ]

 そうですね。倡は唱に通じ、「倡導」「倡和」の意あり。詩蘀兮篇には
「叔や伯や、倡すれば予 女に和せん」と、左伝昭12伝には「外内倡和するを
忠と為す」とあり、礼記にもいくつか用例が。ただ晏子春秋・管子・呂覧の
ような比較的後代に書かれたものでは、「倡優侏儒」(管子小匡)のように
あきらかに「わざおぎ」の意味で使われることが多いようです。
 また「以倡進」の表現については、史記(以倡見)と漢書の表現が先例となり、
新唐書にも用例がありますから、こと史書における「以倡進(以倡見)」の表現
については「倡優」と考えて差し支えないのでは。
 管見ながら。
168  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:33
168 名前: むじん 投稿日: 2004/04/25(日) 13:19 [ Y8RXY5wY ]

ふむ、なるほど。
そうすると、「わざおぎの身分のままで…」ということになりますかね。
どこか完全には足を洗ってないような書き方だと思いました。
身分が変わったのなら「本倡而進」などと書きそうです。
169  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:33
169 名前: むじん 投稿日: 2004/04/30(金) 17:58 [ h0iP.sXE ]

今回更新分の『周瑜伝』ですが、
「孫権毎賜周瑜衣寒暑皆白領諸将皆不及」
これってどういう意味なんでしょうね?
170  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:34
170 名前: two_yossy 投稿日: 2004/04/30(金) 21:42 [ rJjwsy.k ]

むじん院主
  申し訳ござないが、ご指摘の箇所が見つかり申さぬ。
  今回アップされた「正史 三国志」呉書・周瑜伝中の文にござ候かな。
  頭も目も顔も鼻も性根も悪いゆえ、見つかりませぬ。
  それとも『華陽国志』ですかな。あれは恐らく文に誤脱があるらしく、
 読むのが手間ですわい(爺めは『晋書[冓+斗]注』で痛い目にあって
 おりますわい)。
171  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:34
171 名前: むじん 投稿日: 2004/04/30(金) 23:45 [ h0iP.sXE ]

あいや、実は『集解』に引用する杭世駿の一文なのですよー。
盧弼さんの著作権保護がまだ生きてるんでパスワード制限してる部分です。
当該箇所は、太妃が孫権を周瑜に兄事させたという記述の直下です。
どうも「孫権毎賜周瑜衣,寒暑皆白領,諸将皆不及」と区切るんじゃないかと…?
172  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:34
172 名前: two_yossy 投稿日: 2004/05/01(土) 01:26 [ rJjwsy.k ]

むじん院主
  そうですな、それ以外に考えられない。考えられないけど、
 意味が分からない。強いて訳せば、
  「孫権 毎に周瑜に衣を賜ひ、寒暑も皆な白領なれば、諸将 皆及ばず」と。
  君主が臣下に着物を賜うことは日本でもよくあり、これは「光栄なこと」
 と見なされていました。「白領」の用例は『宋書』に少しあるくらいで、
 舞人の衣装を言うことが多いのですが、礼志五に「施毛狐白領(中略)は、
 皆な禁物と為す」とあり、狐の腹の毛皮がついた、白い襟はご禁制だった
 ようです。
  そういうりっぱな着物をもらうことは光栄なことで、これを暑いときも
 寒いときも着ていたとして、ではなぜ「諸将 皆な及ばず」なのか。
  周瑜の殊遇に及ばなかったのか、「白領」が及ばない=もらえなかった
 のか。このへん輿服礼制に詳しくないと分かりませんね。それと三国呉の
 風習も。『三国会要』なんかと載ってるといいのですが。ううむ...
  「孫権 周瑜に衣を賜ふ毎に、寒暑も皆な白領もてし、諸将 皆な及ばず」
 かなあ。
  こうなると、諸将にも衣が賜られることがあっても、周瑜に賜うときだけ
 つねに「白領」で作られたものだったので、諸将はそれを目にするたびに、
 「いつも公瑾のヤツだけ! クーッ!!」と思ったの意に解せますが。
  ところで、この杭先生の文、なにかの引用なんですか。それとも補注の
 地の文? にしたら何を根拠に(~.~)>
173  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:34
173 名前: むじん 投稿日: 2004/05/01(土) 01:43 [ h0iP.sXE ]

ふとした思いつき。
もしかして襟の白さが敵わなかったんじゃないかな。
諸将は白襟の着物を賜っても、しばらく着用しているうちに変色してくる。
でも周瑜は何回も着物をもらっているので、いつも襟が真っ白。
174  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:34
174 名前: むじん 投稿日: 2004/05/01(土) 01:45 [ h0iP.sXE ]

おぉっと、こいつあいけない。うっかりしてました。
「孫権」の前に「呉書云」とありました。「杭世駿曰呉書云…」です。
175  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:35
175 名前: two_yossy 投稿日: 2004/05/01(土) 02:57 [ rJjwsy.k ]

むじん院主
  いいかげん寝かしてください(笑)。
  173のスレ、いい線いってるんじゃない?
  ふつう漢文で「毎に(常に)」という場合、季節ごととか節気ごととか、ほぼ年間を
 通じての意に解されますから、きちっと支給(?)があったというのも変じゃない。周代
 以来、礼服は官職に合ったものを下賜する制度があり、そのものが亡くなった場合は
 一度返納し、あらためて官職を継いだ子どもが頂戴することになっていました。
  引用を疑ったのは、清代の杭先生が書いたわりには、「以」とか「為」とか、文義を
 補う字が抜けてて分かりにくいんですよ、この文。やはり逸書の類の引用でしたか。
  ところで、平成大不況のさなかでも贅沢に馴れたわれらにゃ計り知れない「質朴」さ
 ってヤツ、忘れちゃいけないっすよね。晋代になると貴族文化もピークに達して、宮中で
 出された料理に思わず「ゲッ、まずい!!」と橋を下ろした御仁もいたそうですが、
 三国のころには院主がおっしゃったような「質朴」さ、まだあったでしょ。
  最近、陳舜臣『中国の歴史 (三)』で後漢〜南北朝あたりを読んだんですけど、
 前漢に2,000万超だった人口が後漢のはじめには800万まで激減し、後漢末から
 三国騒乱でもまた減少し、呉では人をさらってでも集めようと
 「徐福の末裔」を求めて仙島を捜させたんですってね(ご存じかと思いますが)。
  質朴で、なんとなくたゆたった感じですねー。
  『葉隠』のエピソードに、鍋島直茂の旗本でしばしば戦場で命がけの働きを
 した御仁が、直茂隠居後のころ餓死寸前のありさまとなり、「自分たちは
 主君のためにたびたび手柄を立てた。こんな目に会う覚えはない」と、息子と
 ふたりで御用米を襲って奪ったそうです。御用米に手をつければ打首獄門。
 ことは当主・光茂に言上されましたが、光茂は父親の股肱の臣ということで、
 隠居の直茂に伝えさせたところ、直茂は陽帯院と顔を見合わせて口も利けない
 様子。それを聞いた光茂は、「その御用米は余がかれらに与えたものだ」と
 言って不問に付したところ、直茂は「オイドンはよか息子ば持ったものたい」
 と言ったとか。
  質朴ですね。
  とかく嫌われがちな「呉」。でもじつは質朴な葉隠武士だったなんて、
 ちょっと親近感が。
  どなたか、呉を九州弁で、蜀を東北弁で(なぜか)、魏を「ざんす」言葉で
 訳してくれないかなー。雰囲気出ると思うんですけど。
176  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:47
176 名前: むじん 投稿日: 2004/05/01(土) 15:31 [ h0iP.sXE ]

おお、それは申し訳なし!ごゆっくりお休みくだされ!
と、日が明けてから言うのもおかしな話ですけどね。

> 173のスレ、いい線いってるんじゃない?
ふむ、そうですか。それではこれでいってみます。
この『呉書』って一体何のことだろう。韋昭の本?いや、今は忘れておこう…。

> 「質朴」さってヤツ、忘れちゃいけないっすよね。
ええ、多分おっしゃってることを言い換えれば合理性なんだと思います。
おそらく重要なのは、何に対して合理的かってことでしょうね。
官にとっての合理性、民にとっての合理性は一致しないもので、
その対立が『三国志』の中にもしばしば描かれてます。「任峻伝」とか。
漢民族の山越や板楯蛮との抗争も同じ要素があるかも知れません。
はじめて伺いました『葉隠』のエピソードもそういうことですよね。

呉は正統イデオロギーから外れた立場にいるので、
建前で包み隠せない本音が表れていて面白いです。
177  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:47
177 名前: suite 投稿日: 2004/05/02(日) 06:12 [ oazses8. ]

『晋書トウ注』注釈者生没年です。

呉士鑑  清・同治七年(1868)〜中華民國二十二年(1933)
http://ustlib.ust.hk:1082/search/a{33355c}{213872}/aTW{21355c}RG{213872}/1,9,16,B/frameset&FF=aTW{21355c}RG{213872}HQ{215e42} 1868 1933&2,,3
 (もう少し詳しいページはないものかと‥‥)

劉承幹  清・光緒八年(1882)〜1963年
http://come.6to23.com/gct/ticket/zhejiang/huzhou/hznxzjytcsl.htm

呉先生のほうは著作権保護が切れているのですが、劉先生のほうはまだのようですね。
178  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:47
178 名前: two_yossy 投稿日: 2004/05/02(日) 12:03 [ eiziROyw ]

 さっそくのアドバイスに感謝感激・涕泗滂沱。
 長生きにもまいりますな、こういうとき。
 強引に行っちゃうかな、侠気を見せて。
 少し検討させてください。
179  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:48
179 名前: むじん 投稿日: 2004/05/02(日) 14:05 [ h0iP.sXE ]

suiteさん、情報提供ありがとうございます。
いま三国志研究会のほうに掲載がなかったので、ちょっと探していたのでした。
180  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:48
180 名前: suite 投稿日: 2004/05/02(日) 16:17 [ hzsD/GK2 ]

一応、ここにリンクをつなげておきましたので、お暇なときにでも御覧になってください。
http://members.at.infoseek.co.jp/valentyne_suite/san-gokushi/chushakusha.htm

>177ですが、 1868 1933&2,,3 までコピーしたほうがわかりやすいかもしれませんね。
181  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:48
181 名前: two_yossy 投稿日: 2004/05/02(日) 18:41 [ rJjwsy.k ]

むじん院主&suite様
  しかしあれですな、自分で読んでも間違いが多くてイヤになりますな。
 コソコソ直していきたいと思いますじゃ。爺めは、自分の訳文をテキスト
 形式にコピペしてプリントアウトし、ゆっくりと校正してますじゃ。
  終盤、范弘之まできて燃料切れですじゃ。上疏文や尺牘が続いて訳し
 にくく、いきおい空気漏れになってしもうてのう。逆に伝賛・結語・王歓
 ...と遡ろうかななどとけしからぬ了見も。
  ともかく次は『後漢書』儒林伝下にいきますわい。
182  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:48
182 名前: suite 投稿日: 2004/05/03(月) 09:57 [ hzsD/GK2 ]

『華陽国志』巻第七「劉後主志 四」訳文追加
『晋書』后妃列伝上第一「壊王皇太后伝」公開
『晋書』后妃列伝下第二「安徳陳太后伝」公開
『晋書』后妃列伝下第二「廢帝孝庾皇后伝」公開
『晋書』后妃列伝下第二「簡文順王皇后伝」公開

以上を追加してくだされば嬉しいのですが。
183  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:49
183 名前: むじん 投稿日: 2004/05/03(月) 19:48 [ Q0RQ0tHE ]

んー、訳文そのものには突っ込み入れられないので、ちと些末なところを。

>two_yossyさん
05-sinjo/091-0-jurinden_01.htmlのページタイトルが「後漢書」になってますね。
あと『後漢書』儒林伝の左フレームが「欧楊歙」に。

>suiteさん
目録に追加しました!
壊王皇太后ではなくって懐王皇太后ですね。

拙訳にも間違いがあればご指摘ください。
184  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:49
184 名前: two_yossy 投稿日: 2004/05/04(火) 00:11 [ rJjwsy.k ]

庵主
  ホゲッ !! ほんとだ !!
  さっそく直しておきまする〜。ご教導かたじけなく存じまする〜。
185  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:49
185 名前: suite 投稿日: 2004/05/04(火) 02:07 [ hzsD/GK2 ]

ありがとうございました。「壊」ではなくて「懐」でしたね。
一応確認してみたら、「章懐太子」もその字のようです。Σ(゚д゚lll)ガーン

まったく気づきませんでした。油断はいけませんな・・・。
186  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:49
186 名前: むじん 投稿日: 2004/05/04(火) 06:08 [ Q0RQ0tHE ]

誤字の指摘はお互いさまでお願いいたします。
私も怨霊さまから「徒」と「徙」を混用しているとご指摘を受けたばかりです。
187  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:49
187 名前: two_yossy 投稿日: 2004/05/06(木) 21:46 [ rJjwsy.k ]

庵主
  『晋書』儒林伝訳了。呉注の件はまだ検討中で未了、和刻本との照合も。
 補注もこれから本格的に始めるようで「まだまだ」づくしなのです。誤訳
 ・誤脱も多いと思いますので、そのあたりどうぞお手柔らかに。
188  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:49
188 名前: むじん 投稿日: 2004/05/07(金) 20:29 [ FfcHDgs6 ]

おつかれさまでした。
やっぱり上奏文みたいなのは難しいですよね。なに言ってんだかさっぱりで。
私も杜恕伝でつまづきっぱなしでした。
さて、これから拝見いたしますね。
189  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:49
189 名前: two_yossy 投稿日: 2004/05/11(火) 22:26 [ rJjwsy.k ]

 轅固生の二目敗けでしょうか。でも「コミ」を入れて半目勝ちということに
しといてあげてください。
 この論争ははじめから轅固生が後手なので、すこし「コミ」をあげないと
フェアじゃない。景帝のレフェリーもいいかげんで轅固生がかあいそう。
 簒奪か放伐かの論争は、抽象論であるところの「命」を認めるか否かに
かかっているわけでして、とかく抽象的なものが苦手な東アジア人には不向き
な議論かと。
 その後の歴史を見ても、「命」の取り扱いはえてして歴史的結果論から
裁定される場合が多く、簒奪か放伐かの論争を避ける意味で、仰々しく
回りくどい「禅譲」作業をせっせとくりかえしたのはご存じの通り。
 ところで外食産業のみなさん、そろそろ「豚」やめてくれないかな。そろそろ
大手を振って牛が食べたいな。
190  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:50
190 名前: むじん 投稿日: 2004/05/15(土) 01:53 [ sNk59YSw ]

にゃー、囲碁用語きた。
弑逆だと言えばそうとも言えるし、放伐だと言えばそうとも言えるし、
どっちにしても観念論になってしまいますね。
そういうあやふやな観念論の上を歩んできた中国の歴史が…。
その辺りで儒林伝見ていると途中で投げ出したくなるわけですけど(^^
191  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:50
191 名前: 名無しさん 投稿日: 2004/05/16(日) 15:41 [ .9Vk7KPA ]

郭泰伝後半をアップしたのでお知らせに書き込もうとしたのですが…
早ッ! 早すぎです。ちょっとびっくりしました。
192  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:50
192 名前: MM2 投稿日: 2004/05/16(日) 15:43 [ .9Vk7KPA ]

あ、すみません。名前入れ忘れました。191はMM2でした。
ご無沙汰しております。次はもっと少ない文量の伝を訳すつもりです。

ではでは。
193  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:50
193 名前: むじん 投稿日: 2004/05/16(日) 16:02 [ POi.jj.s ]

MM2さん、こんにちは。
いやー、たまたま巡回してたところだったので(^^
昨日今日はなんだかあちらこちらで訳文がアップされたようで
目録にまとめるのも一仕事ですよ。
お仕事は一段落されましたか。あまりご無理なされぬよう(^^
194  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:50
194 名前: むじん 投稿日: 2004/05/19(水) 13:33 [ x4k/Sx/. ]

周瑜の子息周胤が罪を犯したので、群臣が上奏して赦免を請いました。
その一節「為胤帰訴,乞匃余罪」は、どう読むべきでしょう?
「周胤の弁解もお聞きくださり、あり余る罪のお赦しを請うのを容れられ」
というちくま訳が、どうしても相当なものとは思えないのですけど。
195  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:51
195 名前: two_yossy 投稿日: 2004/05/20(木) 02:04 [ rJjwsy.k ]

庵主
  寝かしてください(笑)。
  この箇所、読んでみました。難しいですね。
  まず「帰訴」ですが、史書ではこの箇所が最も古い用例のようですね。先例が
 ないので訳しにくい。「乞丐」もこれより古い用例を見かけません。ただ前後
 からのつながりから、「胤が為に帰訴し、余罪を乞丐す」と読めるようです。
 「余罪」は恐らく『史記』呉王�列伝の「死して余罪有り」に由来し、短縮した
 ものです。「乞」も「丐」も「請い求める」。『通鑑』晋紀一に「節度の咎、
 亮に由れば出でて其の死を乞丐す」と。「帰訴」は『後漢書』襄楷伝に
 「帰訴する所無し」、『宋書』竟陵王誕伝に「冒死帰訴」、『左伝正義』
 荘元伝疏に「襄公に帰訴す」とあります。『康煕字典』によれば、「帰」は
 「入る」「投ず」「委ぬ」の意があり、『漢書』の「�錯 恐れて自ら景帝
 に帰す」を引き、顔注に「天子に自首す」と。
  したがって、「胤のために訴えをお聞き入れになり」の意になります。
  後段は反語でしょう。「死して余りある罪を請い求めたい」というのは、
 「死して余りある罪をお許しいただきたい」と解するべきだと思います。
  あるいはなにかの古典を引いた常套句かと疑ったのですが、寡聞にして
 分明しませんでした。
196  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:51
196 名前: two_yossy 投稿日: 2004/05/20(木) 02:15 [ rJjwsy.k ]

庵主
  寝そびれついでに。
  このあいだの件、『後漢書』明徳馬后紀に、「倉頭は緑[衣偏+冓]を衣て、
 領袖は正(まさ)に白く、顧みて御者を視るに、及ばざること遠し」とありま
 すね。「白領」ですよ。襟が白いってことは「自慢」だったんですね、当時。
 ちなみに現代中国語では「white color」の訳語です。
  しかし吉川忠夫博士、現代語訳抜きとは。そんなんありかー!!
197  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:51
197 名前: むじん 投稿日: 2004/05/20(木) 11:09 [ jUbNWw6w ]

やはりそう読むしかないですか。
すぐ後の「還兵復爵」とうまくつながらない気がしたんですよね。
きちんと刑罰を執行した上で、再び取り立てよ。という意味でしたか。
あ、それと余罪も現代日本語とは意味が違うんですね。これは全く気付かず。

白領。すごい、ビンゴ。当たってましたか!
198  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:51
198 名前: むじん 投稿日: 2004/05/21(金) 12:48 [ 9W7UwFMk ]

ここ。助っ人求ム。
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/3098/1055769041/
199  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:51
199 名前: two_yossy 投稿日: 2004/05/21(金) 18:11 [ eiziROyw ]

庵主
  どのスレ? 最後のヤツ?
  王先謙先生の『集解』、持ってないんですよねー。もう少し前後が分からないと
 解しようがないです。
  一番トップの「我曹自可相食、何宜使犬舐其汁乎」は、「我曹 自(もと)より相
 食む可きなるも、何ぞ宜しく犬を其の汁を舐めしむるべきか」で、「我ら(人間)
 は飢えて互いに肉を食らうことはあっても、どうしてその血を犬に舐めさせるよう
 なことができようか!!」の意ですね。『史記』匈奴列伝に、「人 畜肉を食らひ、
 其の汁を飲む」とあります。
200  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:51
200 名前: むじん 投稿日: 2004/05/21(金) 20:07 [ FVegck.s ]

そうか、この掲示板からだと原文には行けないんですね〜。
ここで話題になってるのはココ、三国志事典の郭泰伝(1〜2)。
http://www32.tok2.com/home/mm2/3k/trans/gkn_d5800.html
郭泰その人の発言も伝の本文もなかなか厄介なんです。
後漢書集解も同時掲載しておりますので直にごらんいただけまする。
なにとぞご支援を!
201  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:52
201 名前: two_yossy 投稿日: 2004/05/22(土) 10:00 [ rJjwsy.k ]

庵主
  昨夜、いちお愚見を述べておきました。
  次の課題は「大�」ですかな? 出典は淮南子のようなんですが。
202  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:52
202 名前: MM2 投稿日: 2004/05/22(土) 11:30 [ .9Vk7KPA ]

むじんさん、two_yossyさんありがとうございました。
お陰でとても助かりました。

いつも助けられてばかりなので何かお役に立てればとは思います。
浅学の身ゆえ力が及ばないかもしれませんが。

>我曹自可相食、何宜使犬舐其汁乎
うぉ、古い話題が。
単に人>犬という観念から、犬にその血を舐めさせることにより
死んだ者(王甫)の人としての尊厳を貶めたことに対する憤慨の言葉ですか。
そっちの方がストレートでわかりやすいかもしれませんね。
思わぬところでありがとうございます。
203  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:53
203 名前: むじん 投稿日: 2004/05/22(土) 12:35 [ /gD53EhQ ]

カキコありがとうございます。なんだか活気があっていいですね〜。
大駔は『淮南子』にもとづいてたんですか…。もうややこしいなぁ。
204  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:53
204 名前: むじん 投稿日: 2004/05/24(月) 01:50 [ q9T4ArQ2 ]

『後漢書』和熹皇后紀のことですが、
中研院の「恆垂涕歎息」という句は中華書局『後漢書集解』にありませんね。
集解でも中研院の校勘記でも触れられず。
205  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:53
205 名前: MM2 投稿日: 2004/05/24(月) 19:23 [ .9Vk7KPA ]

「恆垂涕歎息」について確認しました。
私が持ってる「集解」(芸文印書館)でもその字が抜けています。そして校勘に記載なし。
しかし「後漢書」(中華所局版)を確認すると「恆垂涕歎息」の字はありました。
けどここも校勘で触れられていません。集解の写し損じでしょうか…?
206  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:53
206 名前: むじん 投稿日: 2004/05/24(月) 21:28 [ 5piRbWfk ]

ありがとうございます。うーん、やっぱりそうでしたか。
おそらく版本の違いから来てるんでしょう。
『三国志集解』ではその辺りの異同までしっかり注記されてるんですが、
王先謙はそこまで確認してないということでしょうか。
207  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:53
207 名前: two_yossy 投稿日: 2004/05/26(水) 00:18 [ rJjwsy.k ]

 ええ、ちょっとご免なさいよちょっとご免なさいよ。
 横から薮から棒に横槍入れて横道にそれてご免なさいよ。
 アッシは金...two_yossyっていう通りすがりのケチなヤツでござんす。
 ところで出し抜けの出合い頭でなんですが、読みたい「経書」ってヤツを
挙げるとしたらどうでしょうねぇ。あるいは「篇名」とか、「部分(箇所)」
とか。
 イヤ、なんですよあれですよご免なさいよ。だからどうしたっけワケでも
すぐにどうしたってワケでもなくてね、ちょっと聞いてみただけですからね。
 じゃまた。
 ご免なさいよご免なさいよ。
208  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:54
208 名前: むじん 投稿日: 2004/05/26(水) 10:10 [ Ghkq.drs ]

うほー!経書に着手されますか、そうですか!
読みたい経書というと、『三国志』『後漢書』訳を進める上ではやはり『左伝』ですよ!
しかしいきなりああいう大部は難しかろうと思うので、
控えめ(かつ重要)なところでは『尚書』なんていかがでしょうか?
まあ『論語』はいらない。見飽きたから。
あと漢詩のルーツを訪う意味で『毛詩正義』もいいかな、と!
参考くらいに考えてやってくださいませ。
209  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:54
209 名前: むじん 投稿日: 2004/05/26(水) 14:46 [ Ghkq.drs ]

『後漢書』和熹搓c后紀。
以前ざっと目を通したときは読めないという感じはなかったんですが、
実際に日本語に訳そうとするといろいろ難問にぶつかってくる。
初めに目を通したとき、いかに読めてなかったかということですよ。
本日のお題。
「下意難問」「史書」「周宣夢書」「先見故」「相者待詔」
210  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:54
210 名前: suite@朱熹 投稿日: 2004/05/26(水) 15:14 [ WPFENkT2 ]

あのぅ、少しく思うところありまして、
朱熹の『論語集註』と『詩経集註』
を、ともに最初のほうだけやるかもしれません。
論語ではなく、『 論 語 集 註 』です(・∀・)アヒャ
211  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:54
211 名前: two_yossy 投稿日: 2004/05/26(水) 16:05 [ eiziROyw ]

庵主
  お題拝聴。いささかお時間を。

suite様
  さすが!! えらい!! 稀代!!
  自分も『論語注疏』の第1巻は訳したんですけど、手持ちの資料が「あの」四部
 備要本のため、断句すらあやしく、その先が。詩経のほうは古注でやります!
212  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:55
212 名前: むじん 投稿日: 2004/05/26(水) 19:11 [ Ghkq.drs ]

おおお!すごい。朱熹きた!
日本に多大な影響を与えた(らしい)割に、使える訳文がwebになかった朱子学テキスト!
なんだか「進展してる」感が出てきたなぁ。
213  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:55
213 名前: two_yossy 投稿日: 2004/05/27(木) 21:34 [ rJjwsy.k ]

庵主
  お題の答え
 (1) 下意難問
  注に「意を下(くだ)すは猶ほ意を出だすがごときなり」とあり、中華書局本の校
  勘記には、「按ずるに、『校補』に意を下すは猶ほ意を出だすがごとしと謂ふ者
  は、別に己が意を出だして、諸兄と論難するを謂ふ」とあります。また吉川訓注
  では、「思いきって質問する」と解説しています。「意を下す」は「勇気を出す」
  (李注)意と、「自分の発意を提示する」(校勘記)の意の二説があるようです。
  「難問」は現代語の「難しい問題」の意ではなく、難には「詰」の意があって、
  難も問も「問う」の意でしょう。ただ「詰」と通ずるとなると、ただ質問したと
  いうより、「納得がゆくまで執拗に尋ねた」というニュアンスが強いと思います。
   儒林伝下・魏応伝に、「応をして難問を専掌せしむ」とありますが、それは魏
  応が「難しい問題を一手に引き受けた」わけではなく、御前論争でのテーマを決
  めたという意味です。
 (2) 史書
  注に「『史書』は、周の宣王の太史籀の作りし所の大篆十五篇なり。『前書』に
  『学童を教ふるの書』と曰ふなり」とあり、吉川訓注では「幼童の識字の書物」
  と解説しています。しかし『漢書』元帝紀賛に、「元帝は材芸多く、史書を善く
  す」とあり、顔注に応劭の説を引いて、「周の宣王の太史・史籀の作りし所の大
  篆なり」と見えますから、固有名詞としての書名ではなく、「篆書が巧みだった」
  の意に解することができます(事実、中華書局本『漢書』でも波傍線なし)。六歳
  で児童書に通じていたのか、書道にすぐれていたのかは微妙なところと言うほか
  はありません。
 (3) 周宣夢書
  これは占夢の書の書名(固有名詞)として解してよいと思います。『新唐書』芸文
  志三/丙部子録/五行類に、「周宣占夢書 三巻」と見えます。
 (4) 先見故
  ここは断句を変えるの手かと。「先に故を見るに」で区切ってから、堯と湯の話
  につながるほうが分かりやすいように思います。「故」は「故事」のことで、
  「ふるき」とか「こと」などと訓じるべきでしょう。
 (5) 相者待詔
  吉川訓注によると、「相者の待詔相工 蘇大 曰く、此れは成湯の骨法なりと」と
  訓じられています。「待詔相工」はどうやら「待詔(詔を待する)の相工」の意で
  天子の諮問に応ずる人相見と解するようです(吉川訓注)。
  『史記』張丞相列伝の韋賢の附伝に、「男四人有り、相工をして之を相(み)しむ
  るに、第二子に至り、其の名は玄成。相工の曰く、『此の子 貴し、当に封ぜら
  るべし』と」とあります。
 とりあえずこんなところ。皇后紀は少し読んでみたんですけど、儒林伝とは比べ
 ものにならないくらい難解な字句があって、ちょっと驚いています。
214  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:55
214 名前: two_yossy 投稿日: 2004/05/27(木) 23:10 [ rJjwsy.k ]

庵主
 〔補足〕
  周宣の占夢書は、『隋書』経籍志三・五行家にも、「占夢書 周宣等の撰」とあり
  ますね。
  待詔は漢代以降の官名で、『漢書』芸文志には、『待詔臣饒心術』25巻、『待詔臣
  安成未央術』1篇・『待詔馮商賦』9篇などの作品名が載っています。
215  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:55
215 名前: むじん 投稿日: 2004/05/28(金) 19:40 [ /tNn8gBY ]

おお、ご教示ありがとうございます。
そうなんですよ、いざ訳そうと思ったら少しひねった文句が多くて。
なるほど、下意は「意欲的に」って感じでしょうかね。了解了解。
史書は、うーんバイエルみたいな感じなのかな。教則本なんですね。
なんか今回は難しいなぁ。two_yossyさんいないと進まないかも。
216  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:55
216 名前: two_yossy 投稿日: 2004/05/29(土) 00:27 [ rJjwsy.k ]

庵主
  「意を下す」は、後段に「父の訓 之を異とし、事の大小と無く、輒ち与に詳議す」
 とありますから、やはり童女ながら積極的に自分の意見を持っている子だと解するの
 が面白いと思います。ですから校勘記の『校補』の意見を採用してみては?
  それと「史書」についても、それぐらい聡明な子ですから、子どもだましのテキス
 トなんかに満足せず、篆書をサラサラとしたためている姿も想像されるでしょ。ぜひ
 補注にお加えください。
217  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:55
217 名前: むじん 投稿日: 2004/05/30(日) 04:11 [ KI9sk5aY ]

なるほど、なるほど。
訳文をどうするか、まだちょっと決められないですが、その線でいってみます。
218  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:56
218 名前: two_yossy 投稿日: 2004/06/02(水) 18:24 [ rJjwsy.k ]

搓@紀、ご苦労されている様子。拝見したところから、老爺心までに。

  史書は「太史籀の書体」という意味で、小竹武夫訳『漢書』元帝紀では、たしかに
 「隷書」となっていますが、「大篆(=籀文)」の誤りです。

  「輒ち意を下して難問す」は、「(自分も脇に控えて授業を盗み聞きし、分からない
 ところがあると兄たちの前で恥ずかしい思いは持ちながらも)、思いきって質問した」
 の意に解するのが通じやすいと思います。
  なお、「汝は女工を習ひて以て衣服を供さず云々」の文は、『魏書』文昭甄皇后伝
 の裴注と同一表現なんですね。

  「塩菜」は「塩」と「菜の物」の意(「塩漬けの菜」ではなく)。「捫」は(1) 撫で
 る・さするの意のほか、(2) さぐる、(3) つかむ等の意があり、吉川忠夫訓注では、
 「まさぐる」と訓じています。夢の中でのぼんやりとした出来事なのでよい訓だと思
 います。それと「鍾乳」は今日言う「鍾乳石」のことで、王先謙はその鍾乳石の説明
 として「氷柱のようなもの」と解説しているのだと思います。

  「乃ち仰ぎ漱りて之を飲む」の「仰ぐ」は、「乳児が乳房を吸うように仰ぐ」の意で、
 そういうニュアンスが出る表現に。

  「使修」。この箇所、「兄の訓は謁者と為り、使(つかひ)して石臼河を修め、歳ごと
 に数千人を活かせり」と訓ずるのがよく、その意は、「勅命を奉じた使者として、(死
 者を多く出している)石臼河の運河開削工事を巡察し、その不急不要について申し上げ
 て工事を中止したことで、(そのまま工事を続けていたらさらに死者が出ていたので)結
 果として数千の命を救ったのである」というもの。『史記』の汲黯伝と同趣旨ですね。

  「外舎」は注に「外家」と。すなわち后の看病のために内省に入れた「后の母と兄弟
 (=外戚)」のこと。「幸私」は「寵幸」と「私愛」のことで両字ともに意通ず。王先謙
 が恵棟の説を引いて互文を言っているのも、そのこと。

  「而して后は独り素なるを著く」の「素」は、単に「質素」の意でいいと思います。
 というのも、中国では古来「白い服」は「喪服」ですから、宴会など着るのはあまりに
 不吉(狂人扱いされる)。色(染め)やガラが非常に(庶民が身に着けるように)地味で質素
 だったということだと思います。

  「正坐離立」は、『礼記』曲礼上に、「離坐・離立するときは、往きて参する毋れ(二
 列になって座ったり立ったりするときには、そこに割り込んで三列になってはいけない)」
 とあるのをふまえています。したがって「正坐」も「離坐」の意に解してよいでしょう。
 鄭玄の注に「離は、両なり」とあり、「離騒」の離字に「つく」の意があることから、
 「二人並んで(くっついて)座る(立つ)」と訳すのがよいと思います。「身を僂めて自ら卑
 くす」には貴訳のように「卑下する(遜る)」遠意と、長身秀麗な后が自分が目立つことな
 いよう、背中を丸めて背を低くし(見た目も悪くし)たことが直接の意だと思います。

  「逡巡して後に対へ」は、「(ご下問があっても)すぐには反応せず、(陰后が先に発言す
 るのを待って)その後でお答えした」の意。

  「才人」は『史記』淮南・衡山列伝に、「故(もと)の美人・才人の幸を得る者十人をし
 て居に従はしめよ」とあることからも分かるように、宮中の女官の名称です。

  「我 意を得れば」は、「(和帝が崩御して)太后とな(り、意のままにふるまうことがで
 きるようにな)ったら」の意。

  「属」は王先謙も言っているように、「たまたま」の意。吉川訓注でも、「属(たまた)ま
 使の来ること有つて」と訓じています。

 とりあえず、そんなところ。ガンバレ!!!!
219  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:56
219 名前: two_yossy 投稿日: 2004/06/02(水) 19:14 [ rJjwsy.k ]

〔追 伸〕
  「女工」の出典ですが、いま訳している毛詩・葛覃篇に、「后妃 父母の家に在れば、
 則ち志 女功の事に在り」あるのも参照。「后妃であっても実家にいるうちにゃ、針仕
 事するんじゃあ!!」というもの。田島陽子に見られたら...。
220  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:56
220 名前: むじん 投稿日: 2004/06/02(水) 22:44 [ KI9sk5aY ]

おおぅ〜、ご教示ありがとうございます。
そうなんですよ!そう長くない一文に難解な語句が頻出してるわけで!
「史書」これはうっかり。篆書のつもりで書いてました。
「下意」なるほど、そういう意味でしたか。これは納得。
「女工」そうするとこれは決まり文句なんですね。信憑性薄し、と。
「塩菜」うーん、これは訳語を選ぶ際の問題なんですね。どうしようかと。
「捫天」まさぐる、いいですね!水滸伝の摩雲とか模着天のイメージが悪かったみたい。
「使修」こういう誤記を無理矢理読ませるのにはいつも苦心してます(^^
「外家」なるほど、熟語ですね。
「著素」これも訳語が難しい。考えてみます。
「正坐」そういう意味だったんですか。これは全く理解できず。
「僂身」多義的な言葉は訳すのが困難ですね。「腰を低くする」の方がいいかも。
「得意」そういうことですか。「若」とか「者」はいらないのですね。
「属」「予期せず」と解する読者が多いので「たまたま」と訓ずるのは避けてます。
「女功」家人の言葉にも典拠あり。大変ですのう。
221  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:56
221 名前: �amp (4WmHp1lQ) 投稿日: 2004/06/02(水) 23:22 [ KI9sk5aY ]

とりあえずこうしてみます。
「塩菜」→「総菜」
「捫天」→「天をまさぐる」
「仰嗽飲之」→「すがりついて吸う」
「著素」→「質素な着物(にする)」
「正坐離立」→そのまま。李賢注に補足説明(離は横二列に並ぶこと)をしました。
「僂身自卑」→「腰を低くして目立たないようにした」
「陰后より先に発言しようとしなかった」→「陰后より先に発言しないようにした」こっちが明確。
222  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:57
222 名前: two_yossy 投稿日: 2004/06/03(木) 01:41 [ rJjwsy.k ]

庵主
  「すがりついて吸う」→なかなかいんじゃないっすかー!!
  このへんのくだり、ユング派の心理学者が聞いたら、小躍りして喜びそうなネタ
 ですが、彼らにはあまり東洋史を荒らされたくないと思うのは、爺ぃだけでしょう
 か。
223  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:57
223 名前: むじん 投稿日: 2004/06/04(金) 01:56 [ KI9sk5aY ]

そう、大丈夫ですか!そんな感じでアップしてみました。
フロイトの弟子ユングというと、えーと。ナチズムと関連のある人だったかな。
よぅわからんとですよ(^^
224  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:57
224 名前: むじん 投稿日: 2004/06/12(土) 15:49 [ KI9sk5aY ]

相変わらず和熹皇后紀はむつかしいですのー。
225  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:57
225 名前: two_tossy 投稿日: 2004/06/13(日) 15:09 [ rJjwsy.k ]

庵主
  孤島の好々爺はひごろから応援してますぞい。老爺心までに。

 (1) 「長秋宮を建つ」は貴訳のようにそのままズバリと表現しておくのでも
  いいと思います。意味はご存じだと思いますが、「立后」ですね。漢書莽
  伝上に「皇帝即位三年、長秋宮 未だ建たず、液廷の� 未だ充たず」とあ
  り、後漢書馬后紀の李注に「皇后を立てんことを請ふも、敢て指言せず、
  故に宮を以て之を称す」とあるのを参照。
 (2) 「分帰」の箇所、「今 旧典を以て分かれて外園に帰するに当り」と訓
  じ、「帰」は「先帝の崩御により、それぞれ落ち着くべきところに落ち着
  く」の意かと。それが旧典であったと。
 (3) 「惨結」は「悲惨」と「結愁」との意で、「結」には日本語にも「結ぼ
  れる」という表現があるように、心塞ぐことでしょう。後漢書質紀永熹元
  年五月の条参照。
 (4) 燕燕の詩、ご苦労された形跡が拝察されます。これは�(「[背+邑]」
  同字)風の一篇(�字の後ろに「�」が加えられているのは、通行本がこの
  箇所を�ではなく、誤って�にしているため。�・�・衛はもと一巻で、
  毛詩が便宜にって分かったため、このような混乱が生じたものと思われま
  す。できれば「�」は括弧書きで)。訓訳は「帰」字をどうとらえるかで
  変わってきます。本来は「帰嫁」の意(白川 静『詩経国風』)で、毛伝が
  貴人を里に下がらせる意としているのは誤り(したがって鄭玄の箋注も誤
  り)。ただ和紀もまた誤りのまま引いていますので、今は仮にそのままに
  読んでみます。「燕燕 于(こゝ)に飛びて、其の羽を差池す。之(こ)の子
  于に帰れば、遠く野に送る。瞻望するも及ばす、泣涕 雨の如し」。鄭箋
  は最初の「于」を「往く」の意とし、吉川忠夫氏の注もそのまま採ってい
  ますが、白川訳に従います。「差池」は鄭箋に「其の尾翼を張舒するを謂
  ふ」(その尾や羽を大きく張る)とありますが、白川博士も言っているよう
  に、「参差」と同義とするのが正しいでしょう。参差は「ふぞろいなさま
  」。ゆっくり羽ばたいたり、せわしくバタつかせたり。
 (5) 李注の「副首」は、「首に副へて飾りと為す所以、今の歩揺の若きなり」
  と訓ずるようです(吉川訓注)。歩揺は長恨歌に言う、「雲鬢・花顔・金歩
  揺」ですね。
 (6) 御者と箇所、「遂に掖廷に下」されたのは、吉成ではなく、「事件」が
  廷吏にお下げ渡しになったと見るべきでしょう。告発者が事情聴取を受け、
  (口裏合わせがしてあって)証言の辻褄が合うことから、「辞証 明白」と
  なって太后に報告があったわけです。また「先帝の左右にして之を待する
  こと恩有」ったの主語は吉成のこと。
226  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:57
226 名前: two_tossy 投稿日: 2004/06/13(日) 15:10 [ rJjwsy.k ]

(つづき)
 (7) 「鬼神難徴」は難が入っているだけあって、やはり通じにくい部分です
  ね。吉川訓注では「鬼神は徴(あき)らかにし難く」と解しています。「徴」
  には徴候の意もありますから貴訳の流儀も攻略法としては可能です。ただ
  「難」字が上についているところから、「徴」が動詞であることが分かり、
  そうなると「徴する」と訓ずることになり、一般に徴すると言えばa.徴発
  する(もとむ)・b.証明する(しるしする)・c.明らかにする(あらはす)と解
  することが多く。「徴(きざ)す」という場合は少ないと思います。
 (8) 恩赦の条は残念ながら、「a.建武以来の諸ゝ妖悪を犯し、b.及び馬・竇
  の家属の禁錮せらるゝ者を除き」とありますから、巫蠱・妖言の徒と馬氏
  ・竇氏で公職追放になったものは恩赦の対象からははずされたままなので
  す。
 (9) 細かいところですが、「服御」はたぶん「章服」と「御するもの(車馬)」
  の意です。ここから数十字は難解ですね。吉川訓注に沿って読むと、「太
  官・導官・尚方・内者の 服御・珍膳の靡麗にして成し難きの物を減じ、
  陵廟に供する稲・粟・米に非らざる自りは導択するを得ざらしめ」となる
  ようです。次は「朝夕 一たび肉飯するのみ」となって、朝晩に一度だけ
  肉と炊いた米を差し上げるだけとした、意でしょう。
 (10) 太官・湯官の箇所、「旧(も)と太官・湯官の経用は歳ごとに且(まさ)
  に二万万ならんとす」と訓じ、「万万」はときおり見られる表現で「億(万
  の万倍)」の意。二億銭。
 (11) 「太后 勅して止め」の次、中華書局本によると、「曰」を改め「日」
  としていることから、「日ゝ珍費を殺省し、是より数千万を裁す」と読む
  ようです。なお「裁」字、吉川訓注では「わずかに」と副詞的に解してい
  ますが、「減らす」の意もありますので念のため。
 (12) これも細かいところですが、「羸老にして使に任(た)へざる者」の
  「使」は「役」と同じで、「任に堪えない」程度の意。
 (13) 「前代外戚賓客」の部分、吉川訓注では「前代の外戚(郭氏・陰氏・馬
  氏・竇氏など)の賓客」と訳し、外戚の取り巻きどもの意に解しています。
  またこの勅は太后が発したものと思われますから、語尾を女性のそれにす
  るのも一興かと。
 (14) 「羸困して輿見するも」は、吉川訓注によれば、衰弱していたので輿
  に担がれて謁見したが、意に解しています。太后がいざ帰ってしまう刹那、
  身じろぎもままならぬありまさながら、ようやく頭を持ち上げて必死の願
  いを表情に表した男の様子が、短い表現の中にみごとに凝集していますよ
  ね。名文だと思います。

  こんなところ。
  ここのところテンポアップしているご様子。後半に上奏文などがあったと
 思いますが、息を長く続けてくださいまし。
227  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:58
227 名前: むじん 投稿日: 2004/06/13(日) 21:16 [ KI9sk5aY ]

お、ご教授ありがとうございます。

「長秋宮」慣用句かと思ったんですけど馬后のとき初めて出た言葉なんですね。
「分帰」帰るべき場所に迷ったりしてますけど、そういうことでしたか。
「惨結」なるほど、そういう意味があったのは知りませんでした。
「差池」へえ、池にはそういう意味もあるんですね。日本語にはないですね。
「副首」出てくるたびに首服・副首・首副と少しづつ違っていてどうしようかと(^^
「御者」ああ、そういうことなんですか。これは思いが至らなかったですね。
「難徴」そうか。鬼神が主語のように思えたので試行錯誤してました。
「除」これは除授の意味を取りましたが、なるほど除外という意味もありましたね。
「自非供陵廟」まだ分からない…><
「一肉飯」一日一回しか飯がないのもどうかと思ったんですが、やっぱり回数でしたか。
「且二万万」万の万倍なんですね。それと「且」もですね。
「裁」切り捨てると解しました。
「不任使」使役するという意味ですね。そういう意味があるのも忘れてます。
「外戚賓客」後文で対句を作っているので「外戚およびその賓客」と解しました。
「羸困輿見」ああ、囚人の方がかつがれてるわけですね。これですっきりしました。
集解の方の「微疾舉頸」はどうなりますか?

大体ペースが早いときはおざなりな訳を作ってるときです(^^
そう、後半が詔勅やら上奏やらで大変そうです。
228  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:58
228 名前: two_tossy 投稿日: 2004/06/13(日) 22:44 [ rJjwsy.k ]

庵主
  当たらぬことばかりのうえ、なんだか間違いだらけで読みにくい板だったと
 思います。お恥ずかしいかぎり。
  「微疾挙頸」の件ですが、問題は「微疾」のほうですね。いろいろあたって
 みるかぎりでは、「微恙」と同義=「ちょっとした病気」の意として使ってい
 る場合が多いようですね。和后紀で「元興元年、帝 崩ず。長子の平原王は疾
 有り」とあるところ、『続漢書』では「皇子・勝 長ずるも、微疾有り」となっ
 ています。この場合、じつは病気は不治のものなんですが、やんごとない身分
 の方なので「微疾」と表現したのでしょう。
  ただ当該箇所では「ちょっとした病気」という表現では意味が通じません。
 「微」には式微という語もあるように、「衰える」の意もありますから、
 衰えて疾みつかれている、と解することも可能でしょう。しかし自分は「疾
 微(なか)りせば」と読むのがよいと思います。
  「吏 将に去らんとするに、疾微りせば頸を挙げ、言有らんと欲するが若し」
 とすると、意味は「役人がその場を離れようとするそぶりを見せたので、(杜
 冷は)重病というほどでもなかったので頭を持ち上げて、なにか物言いたげな
 様子を示した」となるかと思います。
  しかしこうなると、前述したような感動の場面がちょっと減点になってし
 まいますが...「微疾(=困憊)なるも頸を挙げ」のほうが感動的!!
229  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:58
229 名前: two_yossy 投稿日: 2004/06/14(月) 23:01 [ rJjwsy.k ]

〔訂正〕
  「微疾」を「疾微(なか)りせば」と読む説。不可ですね。ごめんなさい。
 「微(なか)りせば」は「もし〜がなかったならば」という仮定なので、文意
 が通じません。
  微は「ひそかに」とも読み、疾は「疾(と)し」とも読みますから、「役人
 の目につかぬよう、そっと、しかし素早く頭を持ち上げて」という訳も可能
 ですが。あとは庵主のお気に召すまま、というところです(^ ^;
  ともかく類例としては、「ちょっとした病気」という意味で使われること
 が圧倒的に多いことだけは違いありません。
230  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:58
230 名前: むじん 投稿日: 2004/06/16(水) 01:34 [ KI9sk5aY ]

なるほど…ちょっとややこしいですね。
文脈からいうと「わずかに」と来ればぴったりな感じなんですけどね。
うむー、とりあえず「病をおして」にしておきます。
231  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:58
231 名前: スケアクロウ 投稿日: 2004/06/27(日) 23:47 [ BSXSoAHw ]

皆様ご無沙汰しております。後漢書[登β]禹伝で詰まったのでご教示賜りたく。

會日暮,戰罷,軍師韓歆及諸將見兵埶已摧,皆勸禹夜去,禹不聽.
明日癸亥,匡等以六甲窮日不出,禹因得更理兵勒衆.

日の暮るるに會ひて、戰罷み、軍師韓歆及び諸將は兵の埶ひの已に摧けるを見、皆禹に夜去らんことを勸むるも、禹聽かず。
明日は癸亥にして、匡等以六甲窮日不出,禹因得更理兵勒衆.

日が暮れて、戦いは終わり、軍師の韓歆及び諸将は兵の勢いが既に打ち砕かれているのを見て、夜間に退却するよう昶Zに勧めたが、昶Zは聴かなかった。
翌日は癸亥の日で王匡らは〜

書き下し・現代語訳共に行き詰まり状態です。
分かる方いらっしゃったらご指摘お願いします。
232  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:59
232 名前: むじん 投稿日: 2004/06/28(月) 16:26 [ KI9sk5aY ]

スケアクロウさん、こんにちは。

会は「たまたま」と読み、ちょうどそのとき、という意味ですね。
六甲はなんでしょうね。たぶん占いのことだと思いますが。
もともと甲子、甲寅、甲辰、甲午、甲申、甲戌のことなんですが、
そこから転じて日付による占いになった…なんてことじゃないかな。
窮日も六甲の示す不吉の日なんでしょうね。
手元の辞書に載っていないのでちょっと分かりません。
233  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:59
233 名前: 中村 投稿日: 2004/06/29(火) 00:01 [ zK.UDi.6 ]

辞書で調べたところ、「六甲窮日」とは「癸亥」の日をさす言葉でした。
六甲は干支によって表す日付けのことで、それが「窮まる日」(干支で一番最後の癸亥の日)。
窮まる=終わるから縁起の悪い日とされたそうです。

つまり、「明日癸亥,匡等以六甲窮日不出,禹因得更理兵勒衆.」とは
翌日は癸亥の日だったので、王匡らは「六甲窮日」で縁起が悪いとして出陣しなかった。
そのため禹はあらためて兵隊をひきしめる(兵勢をたてなおす)ことができた。

となりましょうか。書き下しはいいですよね^^;
234  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:59
234 名前: two_yossy 投稿日: 2004/06/30(水) 01:59 [ rJjwsy.k ]

 書き下し「明日は癸亥、匡等は六甲の窮日なるを以て出でず。禹は因りて
更めて兵を理め衆を勒するを得たり」となるようです(吉川訓注参照)。
 六甲は庵主の推理&中村さま解説のとおり。十干十二支の最後(60番目)と
いうことは、そのなかに6つの「甲」のついた日が入っているため。コッテ
コテの讖緯説信奉者だった王莽の登場以来、このころは時代錯誤的な迷信ブ
ーム時代でしたから、縁起のよい「甲子」の日まで丸一日お休みしたわけで
す。わずかその一日が明暗を分けたわけですが。
 ちなみに吉川忠夫博士は、「日暮れ、戦罷むに会(あた)って」と訓じてい
ますが、自分も庵主同様「たまたま」と訳すのが可と思うのですが。まあ、
「…にあたって」というのと、「(たまたま)ちょうどそのとき」とするのと
は大差ありませんけどね。
235  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:59
235 名前: スケアクロウ 投稿日: 2004/06/30(水) 06:46 [ BSXSoAHw ]

むじんさん、中村さん、two_yossyさん、早速のレスありがとうございます。
漢籍を読むときは今回の六甲窮日や、経書からの引用を解釈したりなど、
幅広い知識が必要なのでなかなか一筋縄ではいきませんね。
とりあえず該当個所の段までの訳は公開しましたので、
もしおかしなところがあればまたご指摘お願いします。
236  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 10:59
236 名前: むじん 投稿日: 2004/06/30(水) 14:20 [ KI9sk5aY ]

みなさん、ご協力ありがとうございます。
なるほど、格別占いという語義が派生したというわけではないんですね。
しかし縁起を担いで勝機を逸してしまうとは何ともはや…。
昶Z伝翻訳ありました。http://www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/sangoku/touu.htm
237  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 11:00
237 名前: two_yossy 投稿日: 2004/07/06(火) 01:25 [ vFJelTHk ]

〔蛇足〕

  つらつらと考えてみれば、「六甲」が不吉なのは、6つの「甲(かぶと)」が
 入っているからで、甲はすなわち「甲兵」のことでしょう。『漢書』儒林伝・
 梁丘賀の条に、宣帝行幸のおり蹕の剣が抜け、行列の馬を驚かせたので、これ
 を賀に占わせたところ、「兵謀有り、不吉」の卦を得たことが記されています。
 いま易・説卦伝を見ると、「離は火と為し、(中略)甲冑と為し、戈兵と為す」
 とあり、離卦・九四の象辞には「突如 其れ来如たり。焚如たり、死如たり、
 棄如たり」とあります。
  なお、蠱卦の彖辞にある「甲に先んずること三日、甲に後るること三日」の
 句は、臭いんですが「六甲」とは関係ないようです。
238  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 11:00
238 名前: むじん 投稿日: 2004/07/07(水) 15:00 [ KI9sk5aY ]

なるほど、六つの甲冑が集まり、それがきわまるから不吉だということですね。
経書を繰ればいろいろ出てくるもんですね。
それが分かっていても全部調べ尽くすわけにもいかないから悩ましい。
239  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 11:00
239 名前: MM2 投稿日: 2004/07/08(木) 21:09 [ .9Vk7KPA ]

ご無沙汰しております。

桓帝紀訳を細々と頑張っておりますが、分からない…というか何だこれ?といった事についてです。
建和三年六月(?)の箇所ですが、『雨肉』という現象が起こったとあります。肉が雨降る、と読むのでしょうか。
で、これについてですが注には“肉似羊肺,或大如手”とあり、五行志二の羽蟲[薛子]という箇所の注には
『説文』から引いて“肋,脅骨也”とあります。羽蟲[薛子]というからには虫なんでしょうか?
分かる方おられたらお願いします。
240  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 11:00
240 名前: two_yossy 投稿日: 2004/07/09(金) 17:38 [ El6g2ihk ]

 五行・怪異については、漢文を訳すうえで現代人がもっとも頭を痛めるところ
ですね。桓紀についてはいま手元に資料がないのですが、「肉を雨(ふ)らす」は
ご推察のとおり「肉状の物体が空から降ってきた」と考えていいでしょう。「肉
は羊肺の似(ごと)く、或は大なること手の如し」(肉の形状は羊の肺に似ていて、
大きなものでは人の手のひらぐらいであった)と。桓紀にはこれにかぎらず、およ
そ中国古代史上かんがえうるあらゆる怪異が発生したようですから、お肉がふ
ってきても荒唐無稽とは言えないと思います。ただそれ以前の怪異の百科全書・
『漢書』五行志に記述のないので、新手の怪奇現象なのでしょうか。
 羽虫の[薛+子](わざわい)は『漢書』五行志(中之下)に出ています。これに
よると「羽虫」とは鶏や雉子の類のことで、春秋に出てくる「螟(ずいむし)」
や「蝗(いなご)」などの昆虫がなす災は、「裸虫の災」と呼ばれています。
 鶏の[薛+子]としては、『捜神記』巻六にある「雌�が化して雄に為らんと
欲す」ものや、殷の高宗武丁のとき、祭祀の席で祭器の鼎に雉子がとまったエ
ピソード(尚書「高宗[月+彡]日」篇)が挙げられています。したがって「肋は、
脅肋なり」というのは、「肋」は「鶏肋」の類で、「脇肋」は「あばら骨」の
意。
 ところで、空から降ってきた「肉」。
 ここからは全くの私見ですが、仙薬の一種に「肉芝」というのがあり、「芝」
というからには恐らく菌類(「石芝」は鍾乳石ですけれど)。菌類・粘菌の中に
はまったく不思議なメタモルフォーゼを行うものがおりますから、上空まで飛
んだ胞子が雲の中で成長し、奇妙な肉塊状になって落ちてきた、というのはあ
りえないでしょうか。ただそうなると、なぜ『漢書』やそれ以前の書に記録が
ないのか、説明できませんけれど。ちなみに「雨肉」現象、『晋書』には載っ
ているようです。
241  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 11:00
241 名前: MM2 投稿日: 2004/07/09(金) 20:47 [ .9Vk7KPA ]

two_yossyさん
すみませんでした。羽蟲[薛子]は勘違いで、羊禍の項でした。
災害なら現代にも通じるので分かるのですが、怪異の類はチンプンカンプンです。

羊禍とは羊の疫病死や怪異のことを指すそうで。『雨肉』の注の続きに
>五行傳云:「?法律,逐功臣,時則有羊禍,時則有赤?赤祥.」
とありまして、赤?・赤祥を調べたところ火気に関する災いのようです。
五行志の方も、本文載せ忘れてましたが
>桓帝建和三年秋七月,北地廉雨肉似羊肋,[一]或大如手.近赤祥也.
とあって、どうも火気に関する凶兆みたいですね。

肉=菌糸類の説は大変面白いと思います。
私にゃ、どうすれば羊禍が赤?・赤祥に繋がるのか分かりませんが、
羊の肺に似た何かが降ってきて、それで羊禍とされたのかなぁ、と
勝手に解釈することにしました。
新説などありましたら聞かせてもらうと嬉しいです。
242  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 11:01
242 名前: むじん 投稿日: 2004/07/10(土) 14:06 [ KI9sk5aY ]

こんにちは。
なんだか随分と気持ち悪い現象ですね。
海に住んでいるおさかな君たちが竜巻に吹き上げられて地上に降ることがあるらしいので、
それと同様の現象なのかなぁと思いました。北地では遠すぎますかね。
羽虫は鳥類、毛虫は哺乳類、鱗虫は魚類・爬虫類というやつですね。
単に虫、または大虫というと百虫の王たる虎さんですか。
豕禍は水畜に当てられていて水害を象徴するそうですが、
羊禍が赤祥というのは解せませんね。羊は西方に当てられていたような。
あるいは十二支の未が南南西に当てられているからでしょうか?
うーん、羊は東方だと書いてある本もあるようだなぁ。
243  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 11:01
243 名前: むじん 投稿日: 2004/07/21(水) 09:34 [ Y/3OQ8z2 ]

というわけで、ひさびさの後漢書訳更新なのですが。
早くもつまづきつつある感(^^
244  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 11:01
244 名前: suite 投稿日: 2004/07/25(日) 22:00 [ 3EaYggbQ ]

必要に応じて『後漢書』文苑列伝第七十上「劉珍伝」にとりかかっています。
『東観漢記』の編纂者ということになっている人物です。

「劉珍、字は秋孫〔一〕、一名を寶、南陽蔡陽の人なり」云々と続くのですが、
注〔一〕の、
「獄{時有作祕孫者。其人名珍、與祕義相扶、而作秋者多也」

「獄{に時に祕孫に作る者有り。其の人の名は珍、與祕義相扶(?)、(而して)秋に作る者多しなり」

字のことを言っているのはわかるのですが、読み下せません。。。
和刻本では、

「其ノ人名ハ珍與(レ点)祕義相扶ク而作(レ点)秋ニ者ノ多シ也」

です。江戸時代の人はこの訓点で読めたのでしょうか。
245  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 11:01
245 名前: むじん 投稿日: 2004/07/26(月) 02:42 [ a2C8AZj6 ]

この人の伝は読んだことがあります。
『東観漢記』の作者だったなんて気付きませんでしたなぁ。
「珍←→秘」は字義が対応しているので、秋孫は間違い。
ということだと思います。
246  IMAGINE  2004/07/28(Wed) 11:01
246 名前: suite 投稿日: 2004/07/26(月) 20:45 [ ZYG/VT92 ]

一応、

「獄{に時に祕孫に作らること有り。其の人の名は珍、祕と義は相い扶くにして、秋に作らること多しなり」

「諸本を見ると時として「秘孫」につくられていることがある。
彼の人の名は「珍」であり、「秘」との意義が互いに近いので、
「秋」(「秋孫」)につくられることが多いのである」

としました。
ありがとうございます。
ローペースですが、この時代の史書編纂者の伝をやろうと思います。
247  むじん  2004/07/28(Wed) 12:33
文意からいって逆じゃないでしょうか。
秋と作る方が間違っていると指摘しているんだと思います。
248  怨霊  2004/07/30(Fri) 20:59
いきなり乱入失礼します。今までちょくちょく見させてもらってました。
はじめまして。

244の文の最後ですが、
而ルニ秋ニ作ル者多キ也
あたりの読み方じゃないですかね。
「本の中には「秘孫」ってしてるのがある。
 こいつの名前は「珍」で「秘」と意味が近い(から、「秘」が正しい)。
 なのに「秋」にしてるのが多いんだよなあ」
という感じでしょうか。乱暴で適当な意訳ですが。
「而」はここでは逆接、なんとまあ、とか、意外なことに、といった意味合いに考えるべきでしょう。
249  suite  2004/07/30(Fri) 21:43
名と字の関係はよくわからない点がおおいので、スルーしていました。
その線で読んでみようと思います。
ありがとうございました。
250  むじん  2004/07/30(Fri) 22:27
怨霊さん、おひさしぶりです。ご教示ありがとうございます。
やはり「而」は逆接なんですね。
これからも何かありましたらよろしくです。
251  むじん  2004/07/30(Fri) 22:31
web版【漢語大詞典】JAVAアプリとなって復活!!!!!!
http://www.ewen.cc/books/hd20.asp

しかし、





文字化けするんですな。_| ̄|○
252  むじん  2004/07/30(Fri) 22:53
うわー





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253  MM2  2004/07/30(Fri) 23:07
どうも、お世話になっております。MM2です。
ようやく桓帝紀その1:本初元年(146)〜和平元年(150)までをアップしました。
改変中で大変そうですが、リンクお願いします。では。

254  むじん  2004/07/31(Sat) 11:16
お知らせいただきありがとうございます。
早速リンクを設定しました。
のちほど拝読いたしますのでよろしくお願いします。
255  むじん  2004/08/27(Fri) 17:56
さて、魯粛伝ですが、
魯粛のセリフ「劉備負國,是非未決,羽亦何敢重欲干命!」を
ちくまでは「劉備がわが国を欺いたことについても、まだその非が問い正されておらぬときに、
関羽が重ねてわがほうのいうところにそむくといったこともあるまい。」としています。
しかし、私ははなはだ疑問に思われるのですね。
もしちくまの訳文を複文するなら「未決其非」になるんじゃないか、
つまり原文を正しく訳文に反映できてないんじゃないかと思うのです。
もしかしたら訳者は「劉備負國之是非」と読んでいるのではなかろうか…。
でも、そうだとすれば、校点者の意図をくみ取ってないわけですよね。

ここでは、とりあえず
「劉備は国事を背負っていて、いまだに是非も定められぬのに、
どうして関羽がまた重ねて命令に楯突いたりできようか!」としてみましたが、
これでは余計に意味不明です。
曹操が漢中に攻め込んで益州が危機に瀕していることを「国事を背負う」とし、
それへの対応策が決まってないことを「いまだに是非も定められぬ」としましたが、
そうすると関羽うんぬんの意味が取れなくなってしまいます。

どうしたもんでしょうか。
256  two_yossy  2004/09/07(Tue) 01:15
 さっそく当該箇所を読んでみました。前後を併せ読まないと分かりにくい
文章ですね。ここおそらく...

  粛の曰く、「今日の事は、宜しく相開譬すべし。劉備 国に負(そむ)き、
 是非 未だ決せざるに、羽も亦た何ぞ敢て重ねて命を干(をか)さんと欲する
 か」と。

 と読むのでしょう。「開譬」は用例の少ない語なので、いまは避けますが、
「負」には「背く」の意があります。もともとの「背にする」「背負う」の意
から派生したものです。「国」は「お国」、つまり「大呉」ですね。劉備を国
だとはまだ認めていませんから。「干」は「干犯」の意ですから、「おかす」
です。
 こう読めば一応のところ小南訳で中華書局本の点校には合います。中華書局
本の点校が必ずしも完璧とは言えないところもあるのですが、それでも斯界の
碩学が作ったものですから、ただ気分的にうまく訳せないから変えてみる、と
いうのは極力避けるべきだと思います。経書などのハナから訓点のアヤしいも
のについては、諸説を併記したうえで善いものを採っていいでしょう(そうし
ないと訳せない)。自分も尚書の訳では、漢文大系本と孫星衍・皮錫瑞との間
に訓点の違いが見られる場合には、偽孔伝・蔡沈の集伝・孫氏の注疏・皮氏の
考証を読んだうえで最も妥当な形を採りました。こうしたやり方ですら「独断」
として廃される向きもありますが、自分は「学究」ではありませんので、ご容
赦あれ。現代史を専攻した己の良心に照らしても、天地に恥じません。
257  むじん  2004/09/12(Sun) 23:13
なるほどぉ。
「呉志」やっててイヤんなるのが、曲筆が多くて史実とすりあわせが
できないことなんですよね。ですから今回もその気配を感じてしまう
わけです。劉備が呉に背いたというのはすんなり理解できても、それ
じゃなんで関羽が命令を干犯しないと魯粛は考えたのか…?この辺り
がよく分からない…。はーてさて。
258  MM2  2004/09/26(Sun) 20:44
こんばんわ。
ようやっと更新できました。桓帝紀その2です。
サイトの訳文コンテンツの配置が変わりましたので、大変面倒だとは思いますがリンクの変更をお願いします。

劉淑伝
http://www32.tok2.com/home/mm2/3k/trans/gkn_d57101.html
郭泰伝
http://www32.tok2.com/home/mm2/3k/trans/gkn_d58101.html
http://www32.tok2.com/home/mm2/3k/trans/gkn_d58102.html
曹騰伝
http://www32.tok2.com/home/mm2/3k/trans/gkn_d68401.html
桓帝紀
http://www32.tok2.com/home/mm2/3k/trans/gkn_t07001.html
http://www32.tok2.com/home/mm2/3k/trans/gkn_t07002.html

259  むじん  2004/09/27(Mon) 18:00
更新おつかれさまです!
リンク先を変更いたしました。ご確認ください。
やっぱり原文と訳文を左右に並べると比較しやすくていいですね。
260  方壺島主  2004/10/05(Tue) 17:10
質問です。いま『宋書』の鄭鮮之伝を訳しているんですが、文中
「高世遠(高柔?)は、王右軍(王羲之?)と何驃騎によって勧割させ
られた」とあり、その経過がわからないんです。辞職を勧められた
のか、公職から外すよう朝廷に勧めたようなんですが、なぜ? 
どうして? なにがあったの?
正史上などでの出典がわかれば教えてください。
261  むじん  2004/10/06(Wed) 19:46
うへぇ、そりゃ難問ですね。
王右軍は王羲之で間違いないでしょうけど、他は全く…。
高世遠は『世説新語』に名が見えてますね。劉注に手がかりないでしょうか。
お手上げ!
262  suite  2004/10/07(Thu) 08:57
晉書康帝紀に、

〔咸康八年秋七月(342)〕己未、以中書令何充爲驃騎將軍。
〔建元二年(343)〕冬十月辛巳、
  以車騎將軍庾冰都督荊江司雍益梁六州諸軍事・江州刺史、
  以驃騎將軍何充爲中書監・都督揚豫二州諸軍事・揚州刺史・録尚書事、輔政。
〔永和〕二年(345)春正月丙寅、大赦。
  己卯、使持節・侍中・都督揚州諸軍事・揚州刺史・驃騎將軍・録尚書事・都ク侯何充卒。

時期としては、このころでしょうか。
手元にはないのですが、山東教育出版社の宋書辞典に何か記載はないでしょうか。
263  むじん  2004/10/08(Fri) 01:52
へえ、何充が驃騎将軍だった期間ってこんなに短いんですね。
高世遠のエピソードはこの短い期間に起こったということになるのかな。
264  方壺島主  2004/10/09(Sat) 23:29
 お手数をおかけしとります。
 王羲之と何充とが高柔に関わっていたような記事なんですが、どうも意が
通じないんですよね。通典に高柔の姉だか嫂だがの喪に関する記事が載って
いて、それがどうやらこの件の核心と推測されるものの、通典の記事にはそ
のことについて王羲之や何充らがどのような建議をしたのかは、触れられて
いない様子。宋書の記事は、「兗州刺史・滕恬 丁零の翟遼の没する所と為る
も、屍喪反らず、恬の子の羨は仕宦廃さず、議者 之を嫌す」とあって、鄭鮮
之が滕羨を弁護する意味の発言をしている箇所です。身内の喪にどのように
対処すべきかを古今の例を引いて説明しています。宋書ではありますが、鄭
鮮之はまだ桓玄の幕下にいましたので、晋代の事例が挙げられているわけで
す。
 宋書の辞典の類、ちょっと期待したいところですね。機会があったら見て
みたいと思います。ひっかかってると作業が進まないので、暫時お茶を濁し
て先に移ることにします。
265  むじん  2004/10/10(Sun) 15:36
なるほど、鄭鮮之は滕羨を高世遠になぞらえているわけですね。
そうか、滕羨は父を失ったにも関わらず棄官服喪していないと非難された。
それで鄭鮮之が、高世遠も姉を失って棄官せず王羲之に責められた
という故事を引いたということなんですね。
大体の流れは分かりました。しかし出典となると、どうですかね〜。
266  むじん  2004/11/04(Thu) 17:08
武帝紀集解。周寿昌の言葉。
武帝が「徳行より才能、人材を推挙せよ」と命じたことに対し。

> 宜乎!華歆・王朗従逆,諸臣靦然,
> 以老成自重,幼安諸老.
> 屢徴不至,亦早見其本顛而枝必壊也.
> 卒之立国甫,及二世而廃簒,相尋旋即亡滅.
> 謂非魏武之有以啓之哉!

多分区切りの位置からして間違ってる…。
「華歆・王朗に叛逆の手伝いをさせて群臣に赤面させたのも道理である!」
と言ってるんだと思うけど、その後が分からない。
267  方壺島主  2004/11/08(Mon) 20:50
集解の文、相変わらず難解ですね。
たぶん次のようになるかと。

「宜(むべ)なるかな。華歆・王朗 逆に従ひ、諸臣 靦然、老成自重なるを
以て幼くして諸老を安んじ、屢ゝ徴するも至らず、亦た早に見ゆ。其れ本
顛(たふ)るれば枝 必ず壊(やぶ)るなり。卒かにして国を立つるも、甫(は
じめ)て二世にして廃簒に及び、相尋ぐも旋(かへ)つて即ち亡滅するは、
魏武の以て之を啓くこと有るに非らずと謂はんや」。

【通釈】
「まったくそのとおりではないか。華歆・王朗は逆賊に従い、諸臣はいず
れも恥知らずで、(華歆・王朗らは)みな幼いころから老成・慎重をもって
知られ、土地土地の諸老を喜ばせ、漢室からたびたび徴用されても出仕せ
ず高操をほしいままにしたにもかかわらず、またつとに曹操の家臣となっ
た。魏氏はにわかに独立して王朝を開いたが、やっと文帝・明帝の二世を
数えただけで廃位・簒奪の憂き目に遭い、漢運を継いで何人かが立ったも
のの、結局滅亡してしまったのは、曹操がその基を作ったことに起因しな
いと言えるだろうか」。

大禹謨に「迪(みち)に恵(したが)はゞ吉、逆に従はゞ凶」と。
宋書・少帝紀に、「靦然として怍ぢる無く、醜声四達す」と。
268  方壺島主  2004/11/08(Mon) 20:54
>267
 ゴメン。「其れ本顛(たふ)るれば枝 必ず壊(やぶ)るなり」の通釈が抜けた。
 「およそ根本が間違っている以上、枝葉末節はもとよりでたらめだ」と意訳
できるでしょう。曹操に仕えたことじたいが間違っているのだから、その麾下
での働きはすべてでたらめだと言いたいのだと思います。
269  むじん  2004/11/09(Tue) 17:38
おぉ、ご教示ありがとうございます。
それでもまだ難しくて分からない(笑)よくよく熟読して考えてみたいと思います。
「逆」を叛逆にするとニュアンスが変わってくるようですね。
「靦然」は恥知らずなんですね。なるほどなるほど。
270  むじん  2004/11/17(Wed) 00:41
>MM2さま
桓帝紀訳おつかれさまです。
以下、少し気付いた点を申し上げますと。
「そうであるならば然則」
 字句が重複しています。
「不任事者」
 仕事がなくぶらぶらしている者という意味だろうと思います。
「南郡太守李肅坐奔北棄市」
 南郡太守李粛を脱走の廉で棄市した、です。「北」は逃げること。

他は難しくて分かりません(>_<)
271  MM2  2004/11/17(Wed) 23:20
むじんさんありがとうございます。

最初のやつは単純な添削ミスでした。

「不任事者」の指摘ありがとうございます。私もアップした後、延熹三年の下の箇所を

>丁亥,詔無事之官權絕奉,豐年如故.
詔で任務に携わってない官吏の俸禄を無くし、豊作の年には以前の俸禄に戻すとした。

と読んで、ということは任務のある者のことを「任者」としたのだと思い至りました。
郎官は侍衛が職務だったので、本当に暇な人がいたんでしょうね。
尚書郎くらいじゃないと暇だったとかいう話をどこかで読んだ覚えがあります。

272  むじん  2004/11/18(Thu) 09:31
こんにちは。
そういえば誰かが言ってたのかな、二十歳で孝廉から郎になって、
それから四〜五十歳になっても昇進できないのがザラにいたって話がありましたね。
三公をひんぱんに取り替えたのもそのせいなんでしょうか。
273  suite  2004/11/19(Fri) 02:07
本当にコロコロ入れ替わっていますなあ。
一番多いうのは災害でしょうね。
http://members.at.infoseek.co.jp/valentyne_suite/tokan_hyo_1.htm
  (捜神記補強が終わり次第、強化する予定ナリ)

ところで。
一つの公職を連続で長く務めたランキング。

呉漢(大司馬を数えで20年間。以下同じ)
次、梁冀(大将軍19年間)
次、趙温(司徒15年間)
次、曹操(司空13年間、丞相13年間)
次、第五倫(司空12年間)
次、趙憙(行太尉11年間)
次、張純(大司空5年間、司空6年間、併せて10年間)
  趙憙(太尉10年間)
次、チ慮(御史大夫10年間程度)
274  suite  2004/11/19(Fri) 02:52
蛇足ながら、魏の場合。
魏王曹丕が、災害による罷免を廃止したため、辞任の理由は、
昇進あるいは薨去が大半を占めることになりました。

司馬懿(太傅13年間 239-251)
次、曹爽(大将軍12年間 238-249)
次、陳羣(司空11年間 226-236)
  衞臻(司徒11年間 238-248)
次、司馬孚(太傅10年間 256-265)


番外編

司馬懿(太傅・太尉・大将軍、合わせて22年間 230-251)
柔(太尉・司徒・司空、合わせて19年間 245-263)
  この人には、廷尉23年間という記録もあったりします。223-245
司馬孚(魏の太傅・太尉・司空・西晉の太宰、合わせて22年間 251-272)


2トップ

曹操(東漢の丞相・司空、合わせて23年間 196-208)
鄭沖(魏の太保・司徒・司空・西晉の太傅、合わせて23年間 251-273)

実質的に長いのは鄭沖かと思います。
275  suite  2004/11/19(Fri) 02:55
すいません。どうも違和感があって調べなおしたら、

  曹操(東漢の丞相・司空、合わせて25年間 196-220)

でした。
276  むじん  2004/11/20(Sat) 08:01
おお、これはこれはものすごく手間暇かけたランキングですね。
なるほど、呉漢が20年間で最長ですか。これは意外かも。
曹操や梁冀が長年在職したのは納得ですが、建国直後でそんなに長く…。
まあ後漢の場合、勢力の小さいうちから大きな官職を与えてましたけどね。
277  MM2  2004/11/21(Sun) 23:46
直球のランキングじゃないのって凄く時間かかりそうです。凄い。
大司馬って三公が改称されるまで殆ど呉漢が就いてたんですね。

気になって大司馬就任者調べたら呉漢薨去の後に劉隆が驃騎将軍・行大司馬事になり、太尉に改称されてから就任者がいなくなり、
後漢末まで下って劉虞・張楊・李[確(石=イ)]が就いているようで、董卓政権下の官名インフレで復活したようです。

278  MM2  2004/11/30(Tue) 23:10
こんにちわ。
『後漢書』陶謙伝(『三国志』にもある箇所)で詰まってます。ご教授願います。
『呉書』を引いて、陶謙と張磐のやりとりについて書いている箇所で、“坐罷”という部分があるのですが、ここは“座り終わる(=公務が終わる)”と読むのでしょうか。

原文は以下です。
與衆還城,因以公事進見,坐罷,磐常私還入,與謙飲宴,或拒不為留.

279  むじん  2004/12/03(Fri) 13:51
ふむ、そうすると劉虞の大司馬就任って大事件じゃないですか。
それだけに大きく期待を寄せられていたということですね。
李傕はまだ分かりますけど張楊の大司馬は安いですよねぇ…。
280  むじん  2004/12/03(Fri) 13:54
この場合、坐は宴席という意味だと思います。
人々を集めて公式に開かれた宴席には出席したけれども、
お開きになったあと、張磐がプライベートで付き合おうとしたのを
拒否した、ということだと思います。
281  飛び蹴り  2004/12/03(Fri) 22:02
http://mujin.parfait.ne.jp/search2.cgi?text=wei18-5;lang=JpCh
呂虔伝に襄陵と書いてますが、襄賁です。

282  方壺島主  2004/12/03(Fri) 23:55
 むじん院主の説が参考になると思います。
 中華書局版248ページ注2、井波律子ほか訳『正史 三国志2』82〜83ページ
参照。「因りて公事を以て進見し、坐 罷むや、磐 常に私(ひそか)に還り入り
て、謙と飲宴す」とありますから、「公事による会見の席が終わると」の意で
しょう。
 でもこれは逐語訳で、漢代から公的な会見じたいがそもそも形式的なもので
その席が宴席で、のちあらためて陶謙を飲み直しに誘ったと、踏み込んで考え
ることは、決して無理があると言えないと思います。
283  むじん  2004/12/04(Sat) 13:20
跳び蹴りさん、初めまして。ご指摘感謝です!
そうなんですね、集解に引く趙一清説によると正しくは襄賁だそうです。
ここでは底本の間違いも含めて忠実に再現したいため、
あえて襄陵のまま残しています。
(でもよく考えたら底本表示がなかった…)
またお気付きのことがありましたら、ご遠慮なくご指摘ください!
284  MM2  2004/12/05(Sun) 09:19
>むじんさん・方壺島主
ありがとうございます。
ちくま訳に従って公事の会見とするのがよさそうですね。
宴席であるともとれるとは勉強になりました。

285  むじん  2004/12/06(Mon) 16:01
いえいえ、こちらこそです。
どうやら官吏を集めて職務上の議論をしたあと
そのまま酒宴が開かれたような書き方ですね。
「公事」の意味内容ですが、官吏としての職務という意味に限らず、
あるいは単に大勢いれば「公事」になるのかもしれません。
許褚伝では私的でないものとして衆談が挙げられてますので。
286  MM2  2004/12/12(Sun) 22:56
桓帝紀アップ致しました。
やはり集解部分でつまってしまってますが、一応最後までが形になりました。

http://www32.tok2.com/home/mm2/3k/trans/gkn_t07004.html


>公事
なるほど。内容がどうあれ、国や府が絡めば「公事」なのかもしれませんね。
287  むじん  2004/12/13(Mon) 00:00
拝見しました!
これで『桓帝紀』も一通り落ち着きましたね。おつかれさまでした。
288  方壺島主  2004/12/13(Mon) 22:38
襄楷の上疏は列伝20下の襄楷伝に見えます。ほぼ同じ。
「案ずるに」は「愚臣が思いますには」の意
「古への帝王より未だ河の清(す)むこと有らざるなり。清は陽に属し、濁は陰
に属す。当に濁るべくして反つて清むものは陰の陽と為らんと欲すればなり。
豈に諸侯に京都を規(はか)る計有らんや」(五行志三)と訓ずれば意は通じるで
しょう。襄楷伝には「河の当に濁るべくして反つて清むものは、陰の陽と為ら
んと欲(するものに)して、諸侯の帝と為らんと欲すればなり」とあります。

「漢・隋の二志に又た皆な其の事応を著し、其の説は楷より之を発す。又た京
房の易伝に、『河水の清(す)めば、天下 平かなり』(後漢書・襄楷伝)と。故
に鮑照・張暢に皆な河清頌有り(鮑照『河清頌』については宋書・宗室伝・劉
義慶の条を参照)。後斉には此を以て紀元するに至り(「河清」は北斉の世祖・
武成帝の元号)、而して近世中外に賀を表するは、蓋し以て逢ふ可らざるの嘉
瑞と為せばなり。孔毅父 祥瑞の憑る可らざるを論じて、『代宗の河清みて陜
に幸きし事を引きて、以て之を証要す。河清は本より祥瑞の事に非らず、往時
に会要を編みし者、部居を分別し、乃ち休證門中に列□すれば、豈に偶未の思
ならんや。独り襄楷のみ咎証を推原するは固に善し。但だ其の猶ほ易伝の説に
惑ひ、春秋の麟を書くを以て比と為すを恨む』と云ふ。又た漢以来 河清めど
も、史の事応を著さゞるもの、皆な之を推言す可きなり」と解するのかな。孔
毅父以下の部分は難解。
289  方壺島主  2004/12/13(Mon) 22:40
「貞観十四年以後、比(しきり)に三年 河清す(新唐書・五行志三「貞観十四年二
月、陝州・泰州に河清む。十六年正月、懐州に河清む。十七年十二月、鄭州・滑
州に河清む」と)。劉蘭(貞観17年正月)・斉王(貞観17年3月)・張亮(貞観20年3
月) 相継いで畔くを以て誅さる。二十三年に河清む(同前「二十三年四月、霊州
に河清む」と)に、国卹(太宗の崩御)有り。永徽・調露の間に、河の清むこと四
たび(同前「永徽元年正月、済州に河清む。二年十二月、□州に河清む。五年六
月、済州に河清むこと十六里」「調露二年夏、豊州に河清む」と)、則ち応じて
武后在り。開元中に河清み(同前「開元二十五年五月、淄州・棣州に河清む」と)、
則ち応じて禄山在り。乾元二年に河清み、三年にならずして国卹有り。宝応元年
に河清み(同前「宝応元年九月甲午、太州より陝州に至る二百余里 河清み、澄K
にして底を見る」と)、明年 代宗 陜に幸(ゆ)く。建中四年に河清み(同前「建中
四年五月乙巳、滑州・濮州に河清む」と)、原に兵変あり(李希烈の乱/旧唐書
・徳紀上・貞元四年の条参照)。十四年に河清み(新唐書・五行志三「貞元十四年
閏五月乙丑、滑州に河清む」と)、李リ 不軌を以て聞するに其の不祥を為すこと
甚し」です。新唐書が手元にないので澣典参照。
290  方壺島主  2004/12/13(Mon) 22:41
「『老子銘』に曰く、『延熹八年八月甲子、皇上 徳を尚び道を宏くし、閎を含
むこと光大にして、神を存し性を養ひ、意は凌雲に在り。是を以て心を黄軒(黄
帝軒轅氏)に潜め、符を高宗に同じうすれば、夢に老子を見、尊びて之を祀る。
時に陳相・辺韶は、典国の礼を典るも、(材薄く思ひ浅ければ、至人を測度して、
是か非かを弁ずる能はず。案ずるに書籍に拠りて以為(おも)へらく、老子は周
の末世に生れ、玄虚にして静を守り、無名を楽み、不徳を守り、高官を危(あや
ぶ)み、下位に安んじ、孔子に遺るに仁言を以てす。世を辟けて隠居し、姓名を
変易して、唯だ知らるゝことを恐る。夫れ日は幽明を以て節と為し、月は虧盈
を以て自ら成る。盛衰の原を損益して、禍福の門に依伏し、人道は盈つるを悪
みて謙を好む。蓋し老子の労して国を定めず、功を民に加へざるは、隆崇を今
に見はし、時人の享祀する所と為る所以にして、乃ち其の禄を逃れて微に処る
は、『之を損(へら)して又た之を損す』(老子48章)の余胙なり。虚無の清寂を
顕はすを、『天地に先んじて生る』(老子25章)と云ひ、乃ち真を守り寿(いのち)
を養ひ、五福の致す所を獲るなり。敢て演べて之を銘す)と云云」です。
『老子銘』は辺邊韶の作と伝えられるもので、辺韶の事績は文苑伝に見えます。
台湾の「漢学研究中心」(http://ccs.ncl.edu.tw/chinese.html)に劉屹氏の論
文『論〈老子銘〉中的老子与太一』に、『全後漢文』などから引いた全文が掲
載されています。道順は、トップ→全文書刊→《漢学研究》論文全文→「第廿
一巻第一期」です。
291  方壺島主  2004/12/13(Mon) 22:42
「遂に広陵の人・龍尚等と共に井を祭り、符書を作り、『太上皇』と称す」で、
「井戸」のことでよいと思います。応劭『風俗通』の逸文に、「雍丘県の夏后
公祠に神井有り」と見えます。竈や井戸は古くから祭られていたようです。

初学記巻二十四・園圃第十三に、「濯龍 司馬彪『続漢書』に曰く、『濯龍園
は洛陽の西北角に在り』と」と見えます。

「紀 此事を蕃が免官の後に書くは、其の次を失するが似(ごと)し。(天文志は
九年十一月に在り)」です。
整理して考えてみましょう。陳蕃伝を見ると、劉[王+質]・成[王+晉]らが
「皆な獄中に死」したあと、「九年、李膺等 党事を以て下獄し考実せらる。蕃
因りて上疏・極諌し」たことによって、「帝 其の言の切なるを諱み、託するに
蕃の其の人に非らざるを辟召せるを以て、遂に策して之を免ず」とあります。
しかし桓紀には、「(延寿九年)秋七月、(中略)太尉・陳蕃 免ず」とあり、次に
「九月、(中略)南陽太守成[王+晉]・太原太守劉質、並びに譖を以て弃市せらる」
とありますから、順序が違うというのです。なお天文志下に、「其の九年十一月、
太原太守劉[王+質]・南陽太守成[王+晉] 皆な無辜を殺すに坐し、(中略)皆な
弃市せらる」と見えます。

「此れ泰西の中国に通ずるの始め。大秦は漢に在りて羅馬(ローマ)と為す。在今
の義大利(イタリー)国たり」
292  方壺島主  2004/12/13(Mon) 22:42
「『続志』に、(日食の位置は)輿鬼の一度に在り。儒説に壬子は淳水の日なれば、
陽 克たず、将に水害有り。其の八月、六州に大水あり、勃海に盗賊あり」です。
中華書局版・後漢書・五行志六では「六州に大水あり、勃海 海溢る」になって
います。「輿鬼」は二十八宿の一「鬼宿」を指します。

「忠賢の力争して、屡ゝ姦鋒を折(くじ)くに非らざる自りは、斟に依り彘に流る
を願ふと雖も、亦た得可らざるのみ(已)」

左伝・昭公元年伝の文。「左伝に曰く、『天地に国すれば、与に立つもの有り。
数世淫ならずんば、不能弊する能はざるなり』と。信なるかな」
293  方壺島主  2005/02/02(Wed) 00:21
 暫定公開中の宋書・鄭鮮之伝。あやしいところが随分あるんですよね。
 お恥ずかしいかぎり。なかでも特に不安なところを。

  既殺之非己、無縁生之自由。

 これを何と読むか…。いま公開している訳文はダメだと思うのです。
 「之を殺すこと己に非らざるを既(つく)し、之を生すこと自由なるを縁
(よし)無し」かな。
 「無縁」は後漢書列伝35袁安伝などに、「自由」は同后紀下・安后紀や
同列伝33楽恢伝に見えます。今日、仕事帰りに図書館に寄って、吉川訓注
本で確認したところ、「無縁」は「…するに縁(よし)無し」と読んでいま
した。また「自由」はズバリ「自由(勝手気まま)」です。
 要するに文意は、劉毅が生殺に度なく、自分に靡かぬものを殺し、罪人
でも自分に通じているものの死を減じさせる。その好き放題な専断はどう
しようもない、ということでしょう。うまくそう解せる表現に訓じたいの
ですが。
 諸賢のお知恵を拝借。
294  むじん  2005/02/02(Wed) 14:25
うーん、私は読み下しの下訳を作らず直接読んでいて
読み下しになると余計に分からないんですよね。
でも今回のは原文を直接読んでもやっぱり分からない。
島主の解釈を取れば「これを殺すもおのれにあらざるをつくし、
 これを生かすも自由なるに縁なし」かなぁ。
「すでにこれを殺すもおのれにあらざれば
 これを生かすも自由なるよすがなし」と読んではダメですか。
どうも前後の文意がよく分からないんですよねえ。むつかしい…。
295  むじん  2005/04/05(Tue) 22:29
よく分かりません(『呂蒙伝』集解)。
全体的によく分からないけど後半はなおさら分からない。
ヒントください。

魯粛・呂蒙はおのおの時機を見て曹操と張り合い、
気迫は衰えを見せず、しばしば巣湖に出征した。
劉氏とは友好関係を築いて敵の勢力を分散させ、
曹操が年老いて呉を窺う気持ちを起こさせないようすべきであった。
なんとやら。

魯呂各以其時当操気未衰屢出巣湖
当共劉氏結好以分其勢及操老而無擧呉之志
鼎足勢成不拠上游亦非所以立国也
但当与蜀申約規取襄樊徐方議及耳
296  方壺島主  2005/04/09(Sat) 23:21
 前後関係がよく分からないので、訳しづらいっす。

 魯・呂は各ゝ其の時を以て操に当り、気 未だ衰へず、屡ゝ巣湖に出づ。
劉氏と共に好みを結び、以て其の勢を分かつに当り、操の老いて呉を挙ぐ
るの志無きに及んで、鼎足の勢 成るも、上游に拠らざるは、亦た国を立
つる所以に非らざるなり。但だ当に蜀と約規を申べ、襄・樊・徐を取るべ
く、方に議及するのみ。

 …かなあ。「上游」は史記・項羽本紀および高祖本紀に見える、「古への
帝なる者は方千里、必ず上游に居る」を引いたもので、史記集解に「水の上
流に居るなり。游は、或は『流』に作る」としています。
297  むじん  2005/04/12(Tue) 15:59
島主どの、どうもありがとうございます。

前後関係が分かっててもまだ難しいです。
これは、孫権が周瑜・魯粛・呂蒙の三人を比較して、
「荊州の地を劉備に貸せと言ったのは魯粛の欠点だった」
と評価したことに対して、何焯が付けた意見です。

>上游に拠らざるは、亦た国を立つる所以に非らざるなり。
>但だ当に蜀と約規を申べ、襄・樊・徐を取るべく、方に議及するのみ。
私も最初そう読んだのですが、
ここは文法としては通じるけれども何氏の意図としては通じないように思ったんです。
孫権は下流の呉にあって上流の蜀の劉備と土地を争っているので、
それについて意見を述べているところでしょう。
何氏が魯粛を評価しているのか批判しているのかさえ
つかめないので、なかなか文意が通せません。
いま思うには、国を立てるためには上流を取らなければならないが、
一時的に蜀と盟約を結んでおいて、あとでゆっくり襄樊を取るべき、
その方針を立てた魯粛はやはり賢明だ、ということかも知れません。
当初「徐方」で徐州地方かと考えましたが、
ここでは「おもむろ」の意味を取った方が通じやすい気もします。
それでもまだしっくりとくる解釈には至りません。
298  suite  2005/04/25(Mon) 04:10
なんとなくですが・・・


魯・呂は各ゝ其の時を以て操に当り(or 当たるも)、
〔操の〕気未だ衰へず、屡ゝ巣湖に出づ。
〔そこで粛は〕劉氏と共に好みを結び、以て其の勢を分かつに当り、
操の老いて呉を挙ぐるの志無きに及んで、鼎足の勢 成るも、
上游に拠らざるは、亦た国を立つる所以に非らざるなり。
但だ当に蜀と約規を申べ、襄・樊・徐を取るべく、方に議及するのみ。


これは呂蒙・魯粛の取った行動を述べているだけという気はしませんか。
299  方壺島主  2005/04/26(Tue) 01:48
 やはり「魯・呂 以て各ゝ其の時 操の気 未だ衰へず、屡ゝ巣湖に出づるに当
る。当に劉氏と共に好みを結び、以て其の勢を分かつべきに…」かな。
 曹操の南進は建安17年と22年で、その間孫権も2度にわたって合肥を包囲し、
対曹操戦のための前衛の拠点にしようとした気配あり。しかし曹操の2度目の
濡須口進攻を受けた時点で降伏を申し出、その後は曹氏とは小康を確保し、そ
の背後でコソコソした行動を続けました。
 孫権は魯粛の親劉備政策を失策としていますが、本来は劉備とは信義を守っ
て曹操と対決すべきであった。曹操がいよいよ野望を逞しくして外に向けてい
た目を内に(帝位に)転じてからは、三国鼎立が関係したけれど、偽りの降伏策
の陰で関羽を急襲したりせず、本来なら劉備と連携して東西から曹氏を攻める
べきであった。「帝者は上流におる」という言葉どおり、本当にその志がある
のなら、曹氏の南進によって奪われた樊や襄陽等の荊州北部を奪い返したり、
あるいは北出して徐州・沛へ出(て洛陽を伺う勢いを見せ)るべきであった。し
かるに建業に安住していたのは、到底立国の大計を持つものの姿とは言えない。
当初は蜀と肩を組みながら、中途で欲に駆られて荊州領有のことで蜀と仲違い
し、あまつさえ曹氏の軍門に降って相食む間柄になってしまった。本来であれ
ばそのかみに結んだ蜀との盟約に従って、襄陽・樊・徐州へ兵を進めて攻略す
べきであったのに、結局むだな議論に時間を費やしただけであった。
 とまあ、こんな感じに解してみてはいかがでしょうか。
300  方壺島主  2005/04/26(Tue) 01:48
 呉側は「荊州を貸した」の貸さないの、返せの返さないのと言っているが、
結局は腰抜けで、自分で兵を起こして襄陽・樊を奪還し、取り返せばよいので
ある。本当に帝者としての度量があるなら、東は徐州に出て開封へ上り洛陽を
伺うべく、西は襄陽・樊を奪って漢水を溯って長安に迫るべきであった。
 ところが実際には早々曹操の軍門に降って蜀の背後をつくようなコソコソし
たマネをしておいて、「魯粛が荊州を貸したのは間違いだった」とはまったく
小人の言である。魯粛こそは大度量の人物であった。
 という論法。魯粛を大度量と持ち上げるウラには、諸葛亮の大器を暗にほの
めかして同時に持ち上げる意図も。いちおう破綻のない解釈としてコジつけて
みました。
301  suite  2005/05/11(Wed) 08:00
『華陽国志』巻七「劉後主志」

十有一月、大赦。遷尚書令費イ大將軍・録尚書事、
就遷江州キ督ケ芝車騎將軍。

とあるのですが、この「就きて」が訳せません。御願いします。
302  方壺島主  2005/05/13(Fri) 20:08
龍渓精舎叢書本で確認。
「就きてAをBに遷す」でいいかと思います。「就遷す」を分けて訓じた形です
から、Bという官職に就任・転任した、の意です。「A而B」という表現を約め
て「AB」とする形は六朝文学に頻出します。厄介なのですが、仕方ありません。
「就」を「すなはち」と読んで、「費禕を大将軍・録尚書事に転任・昇任させた
ので、ケ芝を車騎将軍に転任・昇任させた」と解することもできますが、そうな
ると、両者の人事が連結し、また時期的にも同時に行われたような表現となりま
す。なおその場合、「就」を「すなはち」とする用例が魏晋の頃の文章にあるか、
確認したほうがよいでしょう。
303  suite  2005/05/15(Sun) 08:05
ご返答感謝です。
普通に「就任」でよかったのですね。難しく考えすぎてしまいました。

「すなはち」ですが、とくに蜀漢の人事昇進は魏呉に比べると比較的わかりやすく、
トップ(丞相・大司馬・大将軍)が任命されるとほぼ同時期に一斉に昇進が行われることが多いようです。
しかしながら微妙にズレが見られますので、「すなはち」では苦しいかもしれません。

>なおその場合、「就」を「すなはち」とする用例が魏晋の頃の文章にあるか、確認したほうがよいでしょう。
やはり奥が深いですね、漢文というのは。
304  むじん  2005/06/05(Sun) 11:47
いろいろとご教授ありがとうございます。
私の理解力ではまだまだ時間がかかりそうです。
難しいですね。
305    2008/03/05(Wed) 23:00


306  I  2008/03/06(Thu) 10:46

(
307  ylatiru  2008/05/19(Mon) 06:40
ホ褊 裼 琺 蓁 蕘 瑟, ツク 粽趾褊, 粢 褪頸.
308  ななし  2008/05/23(Fri) 13:11
蛇足の訳し方をおしえてくださいな
309  むじん  2008/05/23(Fri) 14:16
すんません。おっしゃってる意味がよく分からないんですけど、
「蛇足」を日本語の読みでなんて言うかってことですか?
だとしたら普通に「だそく」でいいと思います。
ちなみに蛇足の出典は「戦国策」という本です。
310  Robert  2008/07/10(Thu) 04:08
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320  Ray Foley  2009/05/01(Fri) 02:07
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翻訳・校訂
321  Bobby Spencer  2009/05/01(Fri) 07:46
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翻訳・校訂
322  Donna Ray  2009/05/01(Fri) 14:25
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翻訳・校訂
323  江頭  2009/07/19(Sun) 17:02
『契丹主隆緒病消渇寝劇、召東平王䔥孝穆、上京留守䔥孝先、使輔立其子木不孤、且誠以無失朝廷信誓。己卯、卒於大斧河。隆緒暁音律、與帳下縦飲或通書夕、自歌起舞。歳獻方物、皆親閲視、必使美好中意、守約甚堅、未嘗稍敢邊隙。立二十四年、年六十一歳、謚曰聖宋。』の訓読、現代語訳できる方いればお願いします。
324  むじん  2009/07/19(Sun) 18:22
出典は分かりますか?
前後の文脈によって読み方が変わってくる場合があります。
325  江頭  2009/07/22(Wed) 06:48
続資治通鑑長編巻20 天聖九年六月丁丑の条です。
326  むじん  2009/07/23(Thu) 20:28
うーん。『続資治通鑑長編』は持っていないですね。
まず時代としては1031年、宋の仁宗の時代です。
隣国の遼の君主が崩御したことを宋側の視点で書いています。

契丹の君主・隆緒が消渇(病名)を患い、病が重くなったので、
東平王の蕭孝穆、上京留守(官名)の蕭孝先を呼びよせて、
息子・木不孤を補佐して即位させるよう命じ、
(聖宗の跡継ぎ興宗の名は木不孤ではなかったと思うので、何か間違いがあるかもしれないです。)
且誠以無失朝廷信誓。
(ここがよく分かりません。朝廷において失敗がないことを宣誓したことについて何か記していますが、主語がはっきりしないです。)
己卯、大斧河にて卒した。
隆緒は音律に通暁し、
近臣と気ままに飲んでいるときでも、
書を読んでいるときでも、
夕方になれば自分で歌い、立ちあがって舞をした。
年貢の地方物産は、すべて自分の目で確認し、
必ず優れた品物を中意した。
(よく分かりません。心のなかで優劣を見抜いた、ということでしょうか)
約束を固く守り、少しでもなおざりにしたことは一度もなかった。
即位してから二十四年、六十一歳だった。
聖宗という諡号を贈られた。

部分的にちょっと意味を取りにくいところがありますが、
大体はこんな感じになると思います。
注釈の類があれば理解の助けになるのですが、わたしの読解力ではこれが限界ですね。
327  江頭  2009/07/25(Sat) 16:57
ありがとうございました。参考にさせていただきます。大学の授業で興味本位で漢文の授業をとってみたものの、実際まだ自分の力だけで漢文を読むという段階まで到達してないので、大変面倒な作業になることは承知の上で、続資治通鑑長編の続きの現代語訳もお願いしたいのですが。大丈夫ですか?

契丹毎歳正月上旬出行射獵、凡六十日。然後並撻魯河鑿冰釣魚、冰泮、卽縱鷹鶻以捕鵝雁。夏居炭山或上京避暑。七月上旬、復入山射鹿、夜半、命獵人吹角、效鹿鳴、既集而射之。
賤他姓、貴耶律、䔥氏。其官有契丹樞密院及行官都總管司、謂之来面、以其在牙帳之北、以主藩事、又有漢人樞密院、中書省、行官都總管司〔十二〕、謂之南面、以其在牙帳之南、以主漢事。其愓隱、宗室也、夷離畢、參知政事也、林牙、翰林學士也、夷離巾、刺史也。内外官多倣中國者。其下佐吏則有敞史、木古、「古」字疑作「宜」字、更詳之。思奴古、都奴古、徒奴古。分領兵馬、則有統軍、侍衛、控鶴司、南王、北王、奚王府五帳分提失哥、東西都省太師兵。又有國舅、ツ轄、遥輦、裳袞諸司、南北皮室二十部族節度、頻必里、九克、漢人、渤海、女真五節度、五治太師、一百、六百、九百家奚。内外官至一百、六百、九百家奚、皆所増。
凡民年十五以上、五十以下、皆籍爲兵。將學兵、必殺灰牛、白馬、祇天地日及木葉山神。鋳金魚符、調發軍馬。其捉馬及傅命有銀牌二百。軍所舎、有遠探欄子馬、以夜聽人馬之聲。


328  江頭  2009/07/25(Sat) 16:58

毎其主立、聚所剽人戸馬牛金帛及其下所獻生口或犯罪没入者、別為行官領之。建州縣、置官屬。既死、則設大穹廬、鋳金爲像。朔望節辰忌日〔十三〕、輒致祭。築臺高逾丈、以盆焚飯〔十四〕、謂之燒飯。
十官各有民戸、出兵馬、阿保機曰洪義官、徳光曰永興官、兀欲曰積慶官、述律曰延昌官、明記曰章敏官、突欲曰長寧官、燕燕曰崇徳官、隆緒曰興聖官、隆慶曰敦睦官、隆運曰文忠王府。
又有四棲、在上京者曰西棲、木葉山曰南棲、龍化州曰東棲、唐州曰北棲。
凡受册、積柴升其上、大會藩人其下、巳、乃燔柴告天、而漢人不得預。有諢子部百人、夜以五十人番直。四鼓將盡、歌於帳前、號曰「聒帳」。毎謁木葉山、卽射柳枝、諢子唱番歌、前導彈胡琴和之、巳事而罷。
三歳一試進士、貢院以二寸紙書及第者姓名給之、號「喜帖」。明日、學案而出、樂作、及門、」撃鼓十二面、云以法雷震。正史載此段於契丹傅末、比實録但増「内外官至六月五家奚」〔十四〕、凡百餘字耳、今依實録、扔附隆緒没後。

329  むじん  2009/07/26(Sun) 02:22
大学の授業での出題なら、それはご自身で考えて解かないと、いつまで経っても実力が付かないんじゃないです?
わたしがここで訳文を書いても、なぜそのように訳したかを考えないで、そのままコピーして提出するおつもりなんでしょう?
せっかく高い授業料を払って講義を受けてるんですから、元を取ってください。
そもそも現役大学生の江頭さんが、中卒のわたしに教えを乞うている時点で何か奇妙な感じがするんですけど。
分からないことがあれば教官に直接尋ねたら親切に教えてくれると思いますよ。
今どきは尋ねることさえしない学生が増えてるらしいので、むしろ質問したら勉強熱心だと評価してくれるかもしれないですね。
335  名無しさん  2010/04/22(Thu) 10:17
「賓客に応ずる」の口語訳、
わかんない… 
んーこんな程度の問題が解けない
とは、ショックだな;
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